しかし、それらの事柄を払拭する前に、彼がある事柄において真理を鮮明に語ったことを、私は指摘したい。それは、彼が悪口のために悪口を弄していないと、彼が言ったときのことである。これは真実である。なぜなら彼が非難と悪口を弄したのは、悪口のためでなく、自分自身をよく言い、自分自身を賞賛するためだったからである。しかし彼が曰く、彼が、その右の頬を打つ者に左の頬を向けたというのは真実ではない。彼は、その頬を打ち、かつ、さすっている人に、突然、振り向き、噛み付いた。私は彼の能弁と、ギリシア語からの翻訳の熱心さを賞賛した。私は彼の信仰を損ねることを何も言わなかった。ところが彼は、このいずれの点においても私を非難する。ですから彼は、私が何か手荒く無礼なことを言った場合、私を容赦しなければならない。なぜなら彼は、さしたる修辞的な技量のない人物に応答を促しているからである。しかもその人物は、彼が知っているように、彼が傷つけ損害を与えようと願う相手が、傷も損害も受けなかったと人々に思わせるほどの力量を持ってはいない。その種の雄弁を好む人たちは、ちょっとした噂にも動かされて粗探しや罵声に向かう人の内に、あるいは、監察官であるかの如くに、いざとなればすぐに物事を正しに参上することを自任する人の内に、その種の雄弁を求めなえればならない。自分に投げかけられた諸々の汚点を払拭したいと願う人は、自分が強いられている応答において、応答の上品さと優雅な言い回しに気を揉むべきでなく、ただその真実に気を揉むべきである。

 

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