17 それらの人たちは、私が言及した諸々の事柄において、それらを改竄したのでなければ、どんなことをしても非難のための口実を見出すことはでいないだろうと、私は述べた。そこで私は、彼らが自分たちの改竄者の手を置いた主要な事柄が、この『弁明』の中に挿入されるのが望ましいだろう――彼らがそれに何らかの諸々の事柄を付け加えて、それを偽の告発の口実にするので、私はそれを意図的に(読者の)目から差し引いたと、彼らが考えないようにするために。私が訳した本の中に、神は身体的な形姿を持つと信じ、彼を人間的な諸々のしたいと衣服をまとう者として思い描く人たちの諸々の考えを吟味した段落がある。それは、ヴァレンティノス派の人たちと擬人神観主義者たちという異端者たちによって公然と主張されている。そして私は、いまや我々の告発者となっている者たちが、それらの異端者たちに喜び勇んで飛びついたのを知っている。オリゲネスは、その段落で、彼らに反対する教会の信仰を弁護して、神は身体的な形姿をまったく持たず、それゆえ不可視であると主張した。そして彼は首尾一貫した仕方で検討し、異端者たちに対して答えている。その回答を私は、次のようにラテン語に訳した:

『しかし、それらの主張は、ほとんど権威をもっていないと考えられるかもしれない――神のもろ諸々の事柄において聖なる諸々の文書から教えを受けたいと願い、人間的な身体の本性に対する神の本性の卓越性の証明はその源泉から引き出されるべきだと要求する人たちによって。使徒がキリストについて次のように語るとき、同じことを言っていないか、あなたは考えるべきである:《彼は、見えない神の像であり、あらゆる被造物の中で最初に生れた方である》とある。神の本性は、ある人たちが考えるように、ある人たちには見え、他の人たちには見えないものではない。なぜなら使徒は、《見えないか身の像》と言うとき、神の本性それ自体について判然と述べていないからである。ヨハネもその福音の中で:《神を見た人は、いまだかつて誰もいない[1]》。彼は、それによって、理解力のあるすべての人に次のことを判然と言明している:すなわち、神が見える人は誰もいないこと、神が本性的に見えるものであるが、希薄化された実体を持つ存在者であるかのように、我々の瞥見を避け逃れるのではないこと、むしろ神は、ご自身の本性において、見られ得ないこと。しかし、おそらくあなたは、唯一の独り子ご自身について、私の意見を尋ねるかもしれない。もしも私が、神の本性は彼にとっても見えない――なぜなら見えないこがその本性だからである――と言っても、あなたは、私の答えを、不敬虔で馬鹿げているかのように退けないでください。いま私は、その理由について述べてみたい。見ることと覚知することは異なることに、あなたは注目してください。見ることと、見られることは、諸々の物体に属している。覚知することと、覚知されることは、知性的な本性に属している。したがって、身体の特性に過ぎないものを、我々は父や子に帰してはならない。神の本性の属しているものが、父と子の諸々の関係を律している。さらに、キリストご自身も、福音の中で、《父を除いて子を見る者は誰もおらず、子を除いて父を見る者も誰もいない》とは言わず、《父を除いて子を各地する者は誰もおらず、子を除いて誰一人として父を覚知しない[2]》と言っていた』。それによって、次のことが明瞭に示されている:すなわち、身体的な存在に関して見ることと見られることと呼ばれているものは、父と子に関して覚知と呼ばれること、彼らの相互関係は、可視性の弱さを通してでなく、覚知の力を通して保持されていること。したがって、非物体的な本性は見るとか見られるとかまったく言われ得ないので、福音の中では、父は子によって見られるとか、子は父によって見られるとは言われず、各々は他方によって覚知されると言われるのである。そしてもしも人が、《心において清い人たちは幸いである。彼らは神を見るであろう[3]》と言われているのはどうしてかと尋ねるなら、この言葉も、私の主張をいっそう確かなものにするだろうと、私は考える。実際、心によって神を見ることは、私が上に述べた説明したことに従えば、精神によって彼を理解し、彼を覚知するすること以外の何だろうか』。



[1] Jn.1,18.

[2] Mt.11,27.

[3] Mt.5,8.

 

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