18 以上が、東方から派遣されてきた人たちが、私に罠を仕掛けて、単にそれを曲解することによってばかりでなく、諸々の言葉を捏造することによって異端の烙印を押そうとした主要な段落である。しかし、私は、私が訳していたその著者の幾つかの同様の段落においてと同様に、その中に疑うべきものを何も見出すことはできなかったし、それを削除する何らかの理由があるとは思わなかった。なぜなら、そこでは、子と父の比較については何も言われておらず、神の本性に関する問題――可視性という言葉が何らかの意味でそれに適応でいるか否かが語られていたからである。私が既に述べたように、オリゲネスは、神は見えると主張する異端者たちに答えていた。なぜなら彼らは、視覚の能力は身体の特性であるから、神は物体的であると言っているからである。それゆえ私が上に述べたヴァレンティノス派の異端者たちは次のように言明している:すなわち、父は身体的で可視的な意味で子をもうけ、子は生れたと。したがって彼[1]は――私が推定するに――「見る」という言葉を怪しい言葉であるとして、それを使うのを憚り、問題が神の本性を巡っている場合には、すなわち父と子の関係を巡っている場合には、主ご自身が明確に選んだ言葉を使う方がよいと言っている:すなわち主は、「父を除いて子を覚知する者は誰もおらず、子を除いて誰一人として父を覚知しない[2]」と。彼は、次のように考えた:神の本性を語るとき、視覚よりもむしろ覚知を使うなら、上述の異端者たちに与えられる一切の口実が排除されるだろうと。「視覚」という言葉は、異端者たちに何らの口実を与えるように見える。他方、覚知という言葉は、一つの本性における父と子の真の関係を分離されないように保っている。そしてそれこそ、福音の権威ある言葉によって確証されていることである。オリゲネスはまた、その言い方が次のことを保証すると考えた:すなわち、擬人神観者たちが、神が見える者として語られるの聞くことは決してないこと。そのような議論は、三位の諸々の位格の間にいかなる相違もつくらないのであるか、完全に脇に投げ捨てるべきだとするのは、正しくないと私には思われた――もっとも、ギリシア語の中には幾らか不注意に使われた言葉が幾つかあり、それらを避けるのはよいことだと私は思っているけれども。私は、その議論が、前述の異端者たちに対して有効に使われるのかどうか判断するのに躊躇する読者の人たちがいるのではないかと推測する。さらに私は、次のことも認めるだろう:すなわち、その種の事柄に関する諸々の言葉とそれらの意味の判定に精通する人たちと、精通しているばかりでなく、神を畏れ、闘争や虚栄のために何も行わず、妬みやひいきや偏見とは無縁な人たちは、目下の事柄は、建徳にも異端者たちとの戦いにもほとんど利さないと言うかも知れないということ。しかし、たとえそうだとしても、それが我々の敵対者たちの撃退に利さないとして、それを聞き流したり、脇に置く権限が彼らにあるのだろうか。それが余計なもだとするなら、そのことはその議論を罪に値するものにするのか。父と子と聖霊の同等性を不可視性において主張する段落を、どうして我々は罪に値する段落と見なすことができようか。私は、誰一人として本当にそのように考えるとは思わない。なぜなら、私の諸々の著作の中に、私の避難者たちを不快にさせる事柄が含まれている証拠はまったく存在しないからである。もしも彼らがそのように考えるなら、彼らは、私の諸々の言葉を私の翻訳の中にあるとおりに書き留めただろう。



[1] 文脈上、この「彼」はオリゲネスをさす。

[2] Mt.11,27.

 

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