16 私なら、その発言――すなわち「私は、私自身の言葉で何も述べなかった。私は、彼の諸々の作品の他の部分の中に見出された真にオリゲネスの考えを、オリゲネスに回復させただけである」――は、それ自体で、極めて敵対的な判事たちに対しても、私を弁護するの十分だと考えただろ。とにもかくにも私はでしゃばってしまったのか。私は、何か私自身によるものを差し挟むつもりだと、人に期待させてしまったのか。私が述べたと彼が主張する諸々の言葉――それらの言葉に、彼らは数々の中傷的な非難を基礎づけている――を、彼らはどこに見出すことができるのか。彼らは、私が悪いものを取り除き、その代わりに諸々の善い言葉を置いたと言って非難する。ところが私は、善きものをすべて文字通りに訳したのである。彼らは恥じの感覚を示す時であり、数々の偽りの非難をやめ、兄弟たちの告発者である悪魔の務めを負うのをやめる時であると、私は思う。彼らは、「私は、私自身の言葉で何も述べなかった」という諸々の言葉をもう一度、聞くべきである。彼らは、それらの言葉を今一度聞くべきであり、「私は、私自身の言葉で何も述べなかった。私は、彼の諸々の作品の他の部分の中に見出された真にオリゲネスの考えを、オリゲネスに回復させただけである」という諸々の言葉が絶えず繰り返されるのを聞くべきである。そして、私がこの作業に着手しとき、神の憐れみがどのように私を見守ったか、彼らは見るべきである。彼らは、どのようにして私が、彼らの行っている諸々の業を耐えるようになったかに注目すべきである。実に私は、序文の中で次のように言った:

「私が私の序文の中で以上のことを述べたのは、私の中傷者たちが私を非難する新たな理由を見出したと考えるのを私が恐れたからである」。

私が「新たな非難」と言ったとき、私は、彼らが以前に、尊ぶべき司教ヨハネに対して、彼が司教テオフィロス[1]に宛てて書いた信仰箇条に関する書簡のゆえに行った非難を暗に示していた:すなわち彼らは、彼が人間の身体について語ったとき、彼が肉とは異なる何か――それが何だか私には分からないが――を考えていたと主張した。そういうわけで私は、「新たな非難」について語ったのである。これらの邪で論争好きな者たちの行為に注意すべきである。

「私はこの大きな労苦を引き受けた。もちろん私は、あなたの懇願に応じてそうしただけである。しかしそれは、私の中傷者たちの諸々の口を閉ざすためではなく――実際それは、神ご自身が為さらなければ、不可能である――、知識において前進することを求めている人たちに堅固な手引きを与えるためである」。

しかし、私が書いていたことを彼らが改竄するだろうと私が予知し予言したことをあなたに証明するために、私が次のように言ったことにあなたは注目してもらいたい。

「私は、これらの書物を読む、あるいは複写するすべての人たちに、父と子と聖霊なる神のみ前で、厳かに次のことを警告する。そして、来るべき国への我々の信仰にかけて、死者からの復活の確信にかけて、悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火にかけて、嘆きと歯軋りがあり、蛆が死なず火が消えない場所を永遠の嗣業地として受け取ることのないように、それらの人たちに厳かに厳命する:この書乙に何も加えず、何も取り除かず、何も挿入せず、何も変更しないように」。

ところが、私がそれらの恐ろしい身の毛もよだつ警告をそれらの人たちにしたにもかかわらず、彼らは、私の作品の偽造者や改竄者になることを恐れなかった――彼らは、肉の復活は将来の真実であることを信じていると告白しているにもかかわらず。彼らが、神は存在するという事実を信じてさえいるなら、どうして彼らは、そんなにも有害で不敬虔な諸々の業と手を切ろうとしないのか。さらに私は尋ねたい:すなわち、私の告発者が言うところによると、私がオリゲネスを諸々の天の高みにまで褒め上げたのは、私の序文のどの個所においてなのか、また、私が――彼がかつてしたのと同様に――オリゲネスを使徒や預言者やそれに類する者と呼んだのは、私の序文のどの個所においてなのかと。実に私は、一体どんな事柄の内に彼らが非難の口実を見出すのか尋ねたい。私は、冒頭で、教会の告白にあらゆる点で一致すると私が考える言葉で私の信仰を告白した。私は、私の翻訳の諸々の規範を明瞭に述べた。それらの規範は、ほとんどすべて、今では私の告発者として登場するしている人自身によって示され模範に基づいている。私は、翻訳するに当たって掲げた目的が何であるかを明言した。もちろん、私がその作業を完全に成し遂げることができたかどうかは、本書を読む人たちの判断に掛かっている。彼らは、それを賞賛するもしれないし、嘲笑するかもしれない。しかし、諸々の言葉を一つの言語から他の言語に適切に変えることが問題になっているなら、彼らは、その作業を非難の口実にすることはできないだろう。



[1] 「ヨハネ」はエルサレムの司教で、オリゲネスに好意的であった。「テオフィロス」は、アレクサンドリアの司教で、かつてはオリゲネスに好意的であったが、エピファニオスに押されて、反オリゲネスの立場に立った。

 

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