13 私は、パンフィロスの『(オリゲネスのための)弁明』の中で、他の意見を幾らか述べた後で、つぎのように言った:

 オリゲネスの諸々の意見に相当するものを、この小論の写しから集めることができる。しかし、彼が彼自身に矛盾するように見える諸々の事柄に関しては、それがどのようにして起こったかを、この序文の結びに私が付け加えた若干の言葉で説明するつもりである。我々としては、聖なる預言者たちいよって我々に伝えられた事柄を信じている:すなわち、聖なる三位は共に永遠であり、一つの力と実体に属していること;神の子は終わりの日々に人間となり、我々の諸々の罪のために苦しみ、そして、彼がその内で苦しんだところのまさにその肉において死者たちから復活したこと;そしてそれによって、人類の全体に復活の希望を授けてくれたこと。我々が肉の復活について語るとき、ある人たちが中傷して主張するように、何らかの逃げ口上を付けて語ることをしない:すなわち我々は、復活す肉は我々が今その内に生きているところのまさにその肉であると信じている。我々はあるものを別のものと取り違えることをしない。また、我々が身体について語るとき、我々は、この肉と異なるなにあを考えてもいない。したがって、もしも我々が身体は再び復活すると言うならば、我々は使徒が語ったように語っている。なぜなら、この身体という言葉は、彼が使った言葉だからである。他方、我々が肉について語るなら、我々の告白は信教の諸々の言葉に一致している。人間の身体が肉以外の何かであり得ると想像するのは、愚かで中傷的な捏造である。したがって、復活することになっているのは、共通の信仰に従って肉であると我々が言おうが、使徒に従って身体であると我々が言おうが、我々の信仰は、使徒によって与えられた定義に従って保持されなえればならない――復活することになっているものは、朽ちない身体そして霊的な身体として、力と栄光との内に復活すると理解しつつ。したがって我々は、 将来の身体あるいは肉の卓越した優越性を維持しつつ、復活する肉は真実かつ完全であること、肉の真の本性は保持されるとともに、朽ちることのない霊的な身体の栄光ある状態は損なわれないことを保持しなければならない。実際、次のように書かれている:「朽ちるものは朽ちないものを受け継がないだろう[1]」と。それは、エルサレムで、神の教会の中で、その貴い司教ヨハネによって宣べ伝えられているものである。それは、我々が彼と共に告白し、保持しているものである。もしも誰かが、それ以外の何かを信じていたり、教えているなら、あるいは、もしも誰かが、我々は、(いま)我々が述べたのとは異なる仕方で信じていると考えるなら、その人は呪われよ。

 したがってもしも誰かが、我々の信仰の声明文を手に入れたいと希望するなら、彼は、以上の諸々の言葉の中にそれを持っている。我々が何を読み、何を主張しようと、あるいは我々がどんな翻訳をしようと、我々は、使徒の次の諸々の言葉に従って――我々のこの信仰を損なうことなく行っている:「あなたはすべてを吟味しなさい。善いものを堅く保持しなさい。あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい[2]」;「この規則に従う人たちに、そして、神のイスラエルに平和がありますように[3]」。



[1] 1Co,15.50.

[2] 1Th.5.21-22.

[3] Ga.6,16.

 

次へ