12 しかし私は、それらの作品[1]のそれぞれに序文を書いた。そして両書において、しかし特に、先に翻訳されたパンフィロスの作品への序文の中で、私は、私の信仰の説明を前面に出し、私の信仰が普遍的な信仰と一致することを断言した。そして私は次のことを述べた:すなわち、人々が原本や私の翻訳の中にどのような事柄を見出そうとも、その事柄への私の関与は、私の信仰を決して含むものではないと。さらに私は、『諸原理について』に関して、この警告をした。私はそれらの書物の中に次のことを見出した:すなわち、信仰に関する幾つかの事柄は、教会が表明する通りに普遍的な意味で述べられているが、まさに同じ事柄を話題にした他の諸々の個所では、矛盾する類の諸々の表現が使われていること。そこで私は、著者が(他の個所で)それらの事柄に関して普遍的な見解を述べたときに提示したのと同じ仕方で、それらの事柄を提示するのが適切であると考えた。他方で、著者の真実の見解に反する諸々の事柄を私が見出した場合には、私はそれらの事柄を他の人たちによって挿入されたものと見なし――実際、彼は、彼の書簡の中に含まれた数々の不平を通して、それが行われたことを証している――、したがってそれらの事柄を退けた、あるいは少なくとも、私はそれらの事柄を「信仰における敬虔な建徳」にまったく役立たないものとして省いてもよかろうと考えた。以上の文言を私の諸々の序言から(ここに)引用するのは余計なことにはならないと、私は思っている。なぜならそれによっていずれの発言に対してもその証拠をすぐに準備できるからである。さらに、私が他の諸々の文書から挿入する諸々の段落に関して読者が何らかの誤解に陥るのを防ぐために、私は、引用が私自身の(書いた)諸々の作品からの場合は、挿入個所に一重の引用符[2]を置いたが、それが私の敵対者の言葉である場合は二重の引用符[3]を置いた。



[1] パンフィロスの『オリゲネスのための弁明』とオリゲネスの『諸原理について』をさす。

[2] すなわち:‘ ’。拙訳では、「 」と表記する。

[3] すなわち:“ ”。‘ ’。拙訳では、『 』と表記する。 訳文中の敵対者はヒエロニムスであるが、ルフィヌス自身が訳して引用する他の著者(たとえばオリゲネス)の文書にも二重の鉤括弧が使われる。

 

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