I 交わりとしての教会

3. 交わりの概念は、「教会の自己理解の核心に(4)」ある。なぜならそれは、信仰にその始まりを持つそれぞれの人と神の三位一体との一致の神秘、そして他の人たちとの一致の神秘だからであり(5)、既に地上の教会で実際に開始され、さらに天の教会での終末論的完成へと及ぶものだからである(6)

交わりの概念は一義的なものではないが、それが教会論の解釈上の鍵となり得るには、それが聖書の教えと教父の伝統との枠内で理解される必要がある。この枠の中で交わりは、常に二つの次元を伴っている:すなわち、(神との交わり)垂直的な次元と (人々の間での交わりの) 水平的な次元である。それゆえ交わりのキリスト教的理解を得るには、その交わりが先ず第一に神の賜物であり、過越の神秘の中で成し遂げられた神の働きの実りであるということを認めることが本質的に必要である。こうして、キリストの内に打ち立てられ諸秘跡の内に伝えられる人間と神との新しい関係は、人間相互のこれまた新しい関係にも及んでいる。したがって交わりの概念は、「わたしたちが主のもとを離れて遍歴している・・・とき(7)」の教会の秘跡的本性を表現することができなければならず、さらに信者の人たちを同じ一つの体の肢体――すなわちキリストの神秘体(8)――とし、有機的に建設された共同体(9)、「父と子と聖霊の一致によって一つにされた民(10)」、可視的で社会的な一致を回復するための十分な諸手段を与えられた民(11)とする独特な一致を表現できるものでなければならない。

4. 教会的交わりは不可視的であるとともに可視的である。不可視的なものとしての教会的交わりは、キリストを通して聖霊にいておん父との人間一人ひとりの交わりである。それはまた、神の本性(12)とキリストの受難(13)、そして同じ信仰(14)と同じ霊(15)への共同参与者である他の人たちとの交わりでもある。地上の教会においては、このような不可視的な交わりと、使徒たちの教えと諸秘跡そして教階制とにおける可視的な交わりとの間には密接な関係が存在する。キリストは、これらの本当に可視的な実在である神的な賜物によって、歴史の中でさまざまな仕方で人類の救いのためにご自分の預言的祭司的王的な使命を遂行なさるのである(16)。この教会的交わりの不可視的な諸要素と可視的な諸要素との関係は、救いの秘跡としての教会を構成する土台に属している。

このような秘跡的な性格から、教会がそれ自身に閉じたものではなく、むしろ宣教的でエキュメニカルな衝動に常に開かれたものであることが明らかとなる。というのは教会は、教会それ自体を構成する交わりの神秘を告げ知らせ証するために、そしてこの交わりの神秘を現実的なものとし拡大するために、世に遣わされているからである:それは教会が、すべての人とすべての物をキリストにおいて一つに集めるため(17);教会が、すべてのものにとって、「一致の分かたれざる秘跡(18)」になるためである。

5. それぞれの人が信仰と洗礼によって編入される教会的交わりの根と中心は(19)、神聖なる聖体祭儀である。実際、洗礼は、復活された主が聖体祭儀を通して育て生かしておられる体との合体なのである。こうしてこの体は本当に、キリストの体と呼ばれ得る。聖体祭儀は、教会の肢体間の交わりの泉であり創造的な力である。なぜなら聖体祭儀は、一人ひとりの信者をキリストご自身に結び合わせるからである:「聖体祭儀のパンを分かち合うことによって実際に主のおん体に与るわれわれは、主との交わりそしてわたしたち相互での交わりへと上げられるのである。『パンは一つなので、わたしたちは一つの体なのです。みな、一つのパンに与っているからです』(1 Cor 10, 17)」。(20)

したがって、教会はキリストの体ですという聖パウロの定式は、次のことを意味している。主がそこにおいてご自分の体をわたしたちにお与えになり、そしてわたしたちを一つの体とする聖体祭儀は(21)、教会がそれ自身をそのもっとも本質的な仕方で表示する場であるということである:たしかに教会はあらゆる所に現存するが、しかしそれでも教会は、キリストが一人であるように、独特の仕方で一つなのである。

6. 四世紀の終わりから伝えられている使徒信教のラテン語版の表現によれば、教会は諸聖人の交わりである(22)。救いの善益(すなわち聖なる諸事物)、取り分け聖体祭儀への可視的な共通の参与は、(聖なる人たちと呼ばれる)参与者たち相互の不可視的な交わりの根源である。この交わりは、教会の肢体が一つの同じ体の肢体である限りで(23)、かれらの間での霊的な一致および一致への願いをもたらし、愛における――この愛はかれらを「一つの心と魂(24)」にする――かれらの真の一致へと向かう。さらにこの交わりは、祈りにおける一致へと向かう(25)。同じ霊(26)、すなわち「教会全体を満たし一つに結ぶ(27)」聖霊がすべての人にこの祈りにおける一致を鼓吹しているのである。

このような交わりは、その不可視的な要素に関する限り、地上を旅する教会の肢体間にのみ存在するばかりではなく、さらにこれらのキリストの弟子たちと、主の恵みのもとにこの世を離れて今や天の教会にその持ち場を持つすべての人たちや各自の清めを済ませた後に天の教会と合体するであろうすべての人たちとの間にも存在する(28)。このことは何はさて置き、歴史的救済的使命に関する限り、地上を旅する教会と天の教会との間には相互関係が存在することを意味している。このことから、教会論的な側面において、ご自分の肢体のためのキリストの取り次ぎばかりでなく(29)、諸聖人の取り次ぎ、そして卓越した仕方で、あの祝福された乙女マリアの取り次ぎが大きな重みを持っていることが帰結する(30)。それゆえキリストの民の信心に深く植え込まれた諸聖人の崇敬の本質は、教会が交わりの神秘であるという教会の奥深い真理に呼応しているのである。

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(4) IOANNES PAULUS II, Allocutio ad Episcopos Stat. Foed. Americae, 16-IX-1987, n. 1: "Insegnamenti di Giovanni Paolo II" X,3 (1987) p. 553.

(5) 1 Io 1, 3: "Quod vidimus et audivimus, annuntiamus et vobis, ut et vos communionem habeatis nobiscum. Communio autem nostra est cum Patre et cum Filio eius Iesu Christo" [わたしたちが見たこと、わたしたちが聞いたことをあなたがたにも告げているのは、それはあなたがたもわたしたちと交わりを持つようになるためです。ところでわたしたちの交わりとは、おん父とその子イエス・キリストとの交わりです].Cf. etiam 1 Cor 1, 9; IOANNES PAULUS II, Adhort. Apost. Christifideles laici, 30-XII-1988, n. 19; SYNODUS EPISCOPORUM (1985), Relatio finalis, II, C), 1.

(6) Cf. Phil 3, 20-21; Col 3, 1-4; Const. Lumen gentium, n. 48.

(7) 2 Cor 2 Cor 5, 6. Cf. Const. Lumen gentium, n. 1.

(8) Cf. ibidem, n. 7; PIUS XII, Litt. Enc. Mystici Corporis, 29-VI-1943: AAS 35 (1943) pp. 200ss.

(9) Cf. Const. Lumen gentium, n. 11/a.

(10) S. CYPRIANUS, De Oratione Dominica, 23: PL 4, 553; cf. Const. Lumen gentium, n. 4/b.

(11) Cf. Const. Lumen gentium, n. 9/c.

(12) Cf. 2 Pt 1, 4.

(13) Cf. 2 Cor 1, 7.

(14) Cf. Eph 4, 13; Philem 6.

(15) Cf. Phil 2, 1.

(16) Cf. Const. Lumen gentium, nn. 25-27.

(17) Cf. Mt 28, 19-20; Io 17, 21-23; Eph 1, 10; Const. Lumen gentium, nn. 9/b, 13 et 17; Decr. Ad gentes, nn. 1 et 5; S. IRENAEUS, Adversus haereses, III, 16, 6 et 22, 1-3: PG 7, 925-926 et 955- 958.

(18) S. CYPRIANUS, Epist. ad Magnum, 6: PL 3, 1142.

(19) Eph Eph 4, 4-5: "Unum corpus et unus Spiritus, sicut et vocati estis in una spe vocationis vestrae; unus Dominus, una fides, unum baptisma" [あなたがたがともに、召し出しの唯一の希望の内に召された通り、体は一つ、()霊は一つでなのです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つでなのです]. Cf. etiam Mc 16, 16.

(20) Const. Lumen gentium, n. 7/b. Eucharistia est sacramentum "quo in hoc tempore consociatur Ecclesia"[聖体祭儀は、「教会がこの時これによって一つに結ばれる」秘跡である] (S. AUGUSTINUS, Contra Faustum, 12, 20: PL 42, 265). "Non aliud agit participatio corporis et sanguinis Christi quam ut in id quod sumimus transeamus"[キリストのおん体とおん血への参与は、わたしたちが拝領するものに移り変わることに他ならない] (S. LEO MAGNUS, Sermo 63, 7: PL 54, 357).

(21) Cf. Const. Lumen gentium, nn. 3 et 11/a; S. IOANNES CHRYSOS-TOMUS, In 1 Cor. hom., 24, 2: PG 61, 200.

(22) Cf. Denz.-Schon. 19, 26-30.

(23) Cf. 1 Cor 12, 25-27; Eph 1, 22-23; 3, 3-6.

(24) Act Act 4, 32.

(25) Cf. Act 2, 42.

(26) Cf. Rom 8, 15-16.26; Gal 4, 6; Const. Lumen gentium, n. 4.

(27) S. THOMAS AQUINAS, De Veritate, q. 29, a. 4 c. Profecto, "exaltatus autem in cruce et glorificatus Dominus Iesus Spiritum promissum effudit, per quem Novi Foederis populum, qui est Ecclesia, in unitatem fidei, spei et caritatis vocavit et congregavit"[しかし十字架に上げられ栄光を受けたキリストは、約束された()霊を送り、これによって教会という新しい契約の民を信仰と希望と愛の一致の内に召し集められた] (Decr. Unitatis redintegratio, n. 2/b).

(28) Cf. Const. Lumen gentium, n. 49.

(29) Cf. Hebr 7, 25.

(30) Cf. Const. Lumen gentium, nn. 50 et 66.