II 普遍教会と部分教会

7. わたしたちが信仰宣言の中で唯一の聖にして普遍の使徒的教会として告白するキリストの教会は、普遍の教会、すなわち主の弟子たちの世界的な共同体である(31)。この共同体は、人物と集団および時と場所の特殊性と多様性の中に現存し働いている。キリストの唯一の教会の救済的現存のこれらの多様で独特な表現の中には、使徒たちの時代から、これまた諸教会という表現がある(32)。なぜならこれらの諸教会は個別的なものではあるが、普遍の教会は、その本質的なすべての諸要素とともに、これらの諸教会に現存しているからである(33)。したがってこれらの諸教会は、「普遍教会の似姿に即して(34)」形作られている。そしてこれらの諸教会の各々は、「司教に託され、司教が協働司祭たちとともに牧する神の民の一部分(35)」なのである。

8. したがって普遍教会は、諸教会の体である(36)。それゆえ交わりの概念は、類比的な仕方で、部分教会相互の一致にも適応することができ、さらに普遍教会を諸教会の交わりとして理解することができる。しかしながら部分教会の交わりという観念は、時として、教会の一致の概念それ自体の可視的で制度的な次元を弱めるような仕方で提示されている。それゆえ、個々の部分教会はそれ自体で完結した主体であり、普遍教会は部分教会の相互承認の結果であると主張される場合がある。このような一方的な教会論的見解は、普遍の教会の概念を狭めるばかりでなく部分教会の概念をも狭めるもので、交わりの概念についてまったく不十分な理解を示している。

歴史それ自体が教えているように、ある部分教会が自己充足に達しようとして、普遍の教会しかもみずからの生命の可視的な中心との現実的な交わりを弱めようとするたびに、その部分教会に固有な内的一致が失われたのである。ひいてはその部分教会は、それを隷属させ利用しようとする多様な諸権力にさらされて、それ自身の自由を手放す危機に陥ったのであった(37)

9. 交わりという言葉を、総体として捉えられた部分教会に類比的に適応できることの真の意味を把握するには、何よりも先ず、「キリストの唯一の教会の諸部分(38)」としての部分教会と、全体すなわち普遍の教会との間には、「相互内在(39)」という独特の関係が存在することを念頭に置かなければならない。というのは、それぞれの部分教会には、「キリストの唯一にして聖なる普遍の使徒的教会が内在し、働いている(40)」からである。したがって「普遍教会は、部分教会の総和であるとか、部分教会の何らかの連盟であるかのように理解することはできない(41)」;普遍教会は、それらの部分教会の交わりの結果ではない。かえって普遍教会は、その本質的な神秘のゆえに、存在論的にも時間的にも、個々の部分教会に先行しているのである。

実際、神秘としての教会、唯一独一の教会は、諸教父によると、存在論的に創造に先行している(42)。そしてこの教会は、部分教会を娘として生み、部分教会の中にみずからを表す。この教会は、部分教会の母であって、部分教会の結果ではない。さらに教会は時間的にも、ペンテコステの日にマリアと十二人の弟子たちの周囲に集められた百二十人の人々の共同体の中で明瞭に現れた。使徒たちは、唯一の教会の代表者・顔であり、地方教会の将来の創設者であった。かれらは、全世界を対象にした使命を帯びていた:このとき教会は既に、あらゆる言語で話している(43)

普遍的なものとして生まれ表示されたこのような教会から、イエス・キリストの唯一独一の教会の個々の表現としての様々な地方教会が生まれた。地方教会は、普遍教会の中でそして普遍教会から生まれたのであるから、それらは普遍教会の中に、そして普遍教会からそれぞれの教会性を得ている。それゆえ第二バチカン公会議の定式:諸教会の中の、そして諸教会からの教会(44)という定式は、別の定式:教会の中の、そして教会からの諸教会(45)という定式と不可分である。普遍教会と部分教会とのこのような関係が神秘的な本性を帯びており、純粋に人間的な何らかの集団や社会に見られるような全体と部分との関係にたとえられ得るものでないことはまったく明らかである。

10. いかなる信者も信仰と洗礼によって、唯一の聖にして普遍の使徒的教会に合体する。何人も、特定の部分教会に合体することを通して、間接的な仕方で普遍教会に所属するのではない。たとえ普遍教会への参入とその中で営まれるべき生活が必然的に特定の部分教会の中で行われるとしても、直接的な仕方で普遍教会に所属するのである。したがって、交わりとしての教会の観点から見ると、信者の人たちの普遍的交わりと諸教会の交わりは、互いに他方からの帰結ではなくて、違った側面の下で考察された同じ実在を構成しているのである。

さらに、ある人が特定の部分教会に所属しているということは、教会の中ではいかなる人も他人ではないという真理と決して矛盾しない(46):特に聖体祭儀が挙行されるとき、いかなる信者も、自分の教会、すなわちキリストの教会にいるのである――たとえその人が、教会法の観点の下で司教区や小教区、あるいはそのような祭儀が行なわれる他の特殊な共同体に所属していようといまいと。このような意味で一つの部分教会に所属している人は、法的従属に関する必要な諸規則を害さない限りで(47)、すべての諸教会に所属しているのである;実際、教会に所属する行為としての交わりへの所属行為は、決して、純粋に特殊な行為ではなく、むしろその本性そのものからして、常に普遍的なのである(48)

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(31) Cf. Mt 16, 18; 1 Cor 12, 28; etc.

(32) Cf. Act 8, 1; 11, 22; 1 Cor 1, 2; 16, 19; Gal 1, 22; Apoc 2, 1.8; etc.

(33) Cf. PONTIFICIA COMMISSIO BIBLICA, Unite et diversite dans l'Eglise, Off. Libr. Vaticana 1989, praesertim, pp. 14-28.

(34) Const. Lumen gentium, n. 23/a; cf. Decr. Ad gentes, n. 20/a.

(35) Decr. Christus Dominus, n. 11/a.

(36) Const. Lumen gentium, n. 23/b. Cf. S. HILARIUS PICTAVIENSIS, In Psalm., 14, 3: PL 9, 301; S. GREGORIUS MAGNUS, Moralia, IV, 7, 12: PL 75, 643.

(37) Cf. PAULUS VI, Adhort. Apost. Evangelii nuntiandi, 8-XII-1975, n. 64/b.

(38) Decr. Christus Dominus, n. 6/c.

(39) IOANNES PAULUS II, Allocutio ad Curiam Romanam, 20-XII-1990, n.9: "L'Osservatore Romano", 21-XII-1990, p. 5.

(40) Decr. Christus Dominus, n. 11/a.

(41) IOANNES PAULUS II, Allocutio ad Episcopos Stat. Foed. Americae, 16-IX-1987, n. 3: l. cit., p. 555.

(42) Cf. HERMAE PASTOR, Vis. 2, 4: PG 2, 897-900; S. CLEMENS ROMANUS, Epist. II ad Cor., 14, 2: Funck, 1, 200.

(43) Cf. Act 2, 1ss. S. IRENAEUS, Adversus haereses, III, 17, 2 (PG 7, 929-930): "unde et omnibus linguis conspirantes hymnum dicebant Deo, Spiritu ad unitatem redigente distantes tribus, et primitias omnium gentium offerente Patri"[それゆえかれらは相和して、あらゆる言語で神に賛美を奉げていた。()霊が相隔てられた諸部族を再び一つに集め、諸国のすべての民の初成りをおん父に奉げたていたのである]. Cf. etiam S. FULGENTIUS, Sermo 8 in Pentecoste, 2- 3: PL 65, 743-744.

(44) Const. Lumen gentium, n. 23/a: "[Ecclesiae particulares]... in quibus et ex quibus una et unica Ecclesia catholica exsistit". Hac doctrina enucleatur, homogenea quidem continuitate, quod iam prius erat affirmatum, verbi gratia, a PIO XII, Litt. Enc. Mystici Corporis, l. cit., p. 211: "...ex quibus una constat ac componitur Catholica Ecclesia"[(部分教会)…これらの中でそしてこれらから、カトリック教会が存在する」。この教理は、確かに同質的な連続性によって説明される。このことは既に主張されている。たとえばピオXII世の回勅『神秘体』によって…「これらから、カトリック教会は構成され成り立っている」].

(45) Cf. IOANNES PAULUS II, Allocutio ad Curiam Romanam, 20-XII-1990, n. 9: l. cit., p. 5.

(46) Cf. Gal 3, 28.

(47) Cf., exempli gratia, C.I.C., can. 107.

(48) S. IOANNES CHRYSOSTOMUS, In Ioann. hom., 65, 1 (PG 59, 361): "qui Romae sedet, Indos scit membrum suum esse"[ローマに座している方は、インドの人たちもご自分の肢体であることをご存知である]. Cf. Const. Lumen gentium, n. 13/b.