バリ島日本軍政時代
稗方 典彦主計少尉(台湾歩兵第一連隊主計大尉)の記録より抜粋

 第4次バリ沖会戦(日本軍60余名戦死)を経て

日本艦隊の護衛により昭和17年2月18日 バリ・ロンボク両島の北方海上に到着。右方向に灯火が見える。海軍の通報によるとバリ島の北岸であるという。いよいよ来たかの感が深い。この1週間は長かった。前方のあちこちに火の燃え上がるのが見える。連合軍に発見されたのかと気使いながら南下し、22時頃、サヌールの海岸の沖合い2海里に停泊。支隊長と共に、舟艇に移乗して上陸を開始した。
 
 何の抵抗も無く上陸を完了した。時に24時。三浦さんの誘導で前進したが、敵兵は一人もいなく、住民も逃げたらしく影も形も見えない。あっちこっちと懐中電灯を照らしながら前進していくと、逃げ遅れたらしい老婆が一人いたので、尋問したがサッパリ要領を得ない。一路テンパサルへすすんだが、篠突く雨が降り出した。椰子林の中、カンポンの中を通り、何の抵抗もなくにテンパサル入り、3時頃、敵兵舎に入った。警備のため一部兵員を残して、主力はクタ半島にある唯一の航空基地に向った。市内の兵舎、警察官宿舎の中には、緑色の制服が山となって脱ぎ捨ててあった。人影はまったくない。
 
 住民のうちオランダ人、アンポン人、メナド人はクタ飛行場へ、バリ人やバリ兵は皆山岳地帯に逃げたという。警備隊長として残った中島少尉と本部の一部は、バリ・ホテルを本部としてテンパサル市の警備にあたった。豪華なバリ・ホテルにいたオランダ人も日本軍来るの報に、全員が自動車を走らせてジャワへ逃げ去っていた。

 「白髪のおじさん」来るの噂を聞いて、テンパサルの住民が続々と帰ってきて、三浦さんを見るなり "Yah! Tuan Miura datang"と旧知の三浦さんを目の前に見た喜びで喧々囂々たる有様。30分も過ぎると、果物を入れた籠を頭の上に載せ、腰に極彩色のサロンを巻き、上半身は裸で、お椀を伏せた様な乳房をあらわにした姿の女房や娘が堂々と大道を闊歩しだした。荷物は重くとも、頭の上に載せて運ぶ関係で背筋は通り、胸を張るという見事な体格の女性が多く、占領第一日に、この様な光景に接するとは夢にも思わなかった。
 
 軍政監部も民生部もいない。この上陸部隊は航空部隊と陸軍部隊だけであり、上陸した以上は統治せねばならない。臨時の軍政部を編成し、直ちに軍政布告を告示し、そのポスターをホテルをはじめ、主要箇所に張り出した。「我々日本軍は、アジア解放にきたのである。アジア人のためのアジアを建設するためである。どうか、安心して生活し、日本軍への協力を希望する。インドネシア独立に邁進してください」 バリ側、代表プジャー、スランガンと色々協議、8人のラジャーの領土、統一に日本側も軍政要員決定と共に直ちに邁進した。
 海戦で犠牲になった連合軍の海兵、空中戦で犠牲になった米パイロットの収容で数日間は大変だった。海軍設営隊の努力によりクタ飛行場も数日後には早くもジャワ、豪州への大空襲発着地となった。なかには帰らぬパイロットもあり、冥福を祈った。3月1日ジャワ上陸の報まで何とか無事にバリを守った。
 
 

上陸後より5月までの約3ヶ月間、三浦さんとプジャー知事と3名で、各ラジャー(旧8王国の王)旧オランダ政府の各官庁(銀行、郵便局、質屋、阿片局)統一と激励を兼ねて3回位巡回した。トップのオランダ人は逃亡しても、バリ人の職員は実に忠実に職務遂行していた。
  5月下旬中部ジャワへ転進、 バリの軍政は堀内部隊が引き継ぐ。


若松 陸軍経理学校機関紙130号より 稗方典彦著 「南の予言」より
 

 ー前略 1942年

 親指を上げて「ジュンポール!」「、ジュンポール!」とあちこちのカンプン(村々)で大歓迎を受けた。1942年ジャワ作戦時、上陸の各地での風景であった。私の所属した部隊は昭和17年2月19日バリ島に上陸したが、この島も同じであった。あまりにも賑やかな歓迎に気持ちよかったが、少し不思議に感じたので、ある学校の先生に訊ねた。
  「数百年前、わが王国が白人に滅ぼされたとき、ある予言者が『数百年後北から黄色い民族が来る。その黄色い民族が来たら白い民族は引き揚げる。この黄色い民族は


2、3年で引き揚げ、我々の民族は独立する』と予言したと伝えられています。あと、2,3年したら独立できるので喜んでいるのです。あなた方は救いの神です。」ということだった。そしてまったくその通りになった。ー後略


 注 稗方氏バリ島で終戦
 ジャワ島、チモール島を転戦し、シンガポールに行くべく小スンダ列島を前進中バリ島で終戦を迎える。
1946年(昭和21年)バリ島にて連合軍が上陸するまで、バリの治安を守るが、現地の独立軍へ独立のための兵器贈与協力したいという願いとオランダ軍(連合軍)への敗戦国としての役割の狭間で命がけの交渉が続く。 
1946年3月武装解除式でオランダ軍に兵器を引き渡し、バリを去りスラバヤで苦難に満ちた苦役生活を送った後帰国。 

稗方氏の著書より
 皆さんに知って頂きたいのは、バリ作戦で如何に多くの犠牲者が出たかを、また、その人々は何も慰霊されていない。何万の観光客あれども、あの上陸地点で、拝んでいる人があるだろうか。
 どうか次にバリに行かれたら、英霊を慰めてください。上陸、敗戦時を含めば100名の犠牲者があります。皆招集された人々です。サヌール沖、ネガラ、シンガラジャが主な所です。

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