文中より
ーかってこれほど、盛大な、しかも厳粛な葬送を、いかなる大官がバリ島でうけたことがあろうか。そして将来においても、これに比敵する待遇をバリ人から受ける者があるだろうか。

野 菊雄著 「独立と革命ー若きインドネシアー」より
            昭和33年10月30日発行 
           発行所インドネシア経済研究所
 著者について 19年2月海軍司政官としてバリ島へ、21年3月英蘭軍の進駐までバリ島で日本軍の軍政に携わる。その後スラバヤ、ジャカルタ等で拘禁生活の後23年1月帰国

                   
                   バリ島 デンパサールにある 三浦 襄翁の墓
                                                    
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 インドネシアの中心は、いうまでも無くジャワである。8千万のインドネシア人のうち約5千万人がこの島に住みついている。そのジャワと狭い海峡を隔てて東隣にあるバリ島は、わが四国の3分の1、愛媛県くらいの広さの扇形の島で、東西に北寄りに走った山脈の南側に、ゆるやかに開けた平野は見事に耕され、日本内地とほとんどかわらぬ水田風景を見せている。
 年がら年中、日本の7、8月ころの気温、日照が続くので、田植えをしている隣の田では刈取しているといったありさまは、日本内地では見られぬ風景である。
バリ島の特色は、他の島々がイスラム教(マホメッド教)であるのに、ここだけはヒンズー教(仏教)であるというだけでなく、優れた踊りの島であり、女子が半裸体でふくよかな乳房をおしげもなくあらわに出している「乳房の島」でもある。戦前米国の映画俳優チャールス・チャップリンが、二度まで訪ねて大々的に宣伝したため、一挙に世界的な観光地となったことはあまりにも著名である。
それとともに、バリ人が団結力がつよく、勇武の気象に富むこともわすれられてならぬ。オランダはスマトラ北部のアチェ人とこのバリ人の征服に散々手古摺った。ジャワのすぐ隣のこの小さな島を征服するのに、オランダは前後6回の遠征軍を送り、60年かかってやっと、1908年に全島の完全支配を確立しえたにすぎなかったのである。

 
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 このバリ島へ、日本軍が進駐したのは太平洋戦争が勃発してから2ヶ月後の昭和17年2月9日の未明だった。ちょうど30余年前に、バリ完全征服のためにオランダ軍が上陸を敢行した、南岸のサヌール海岸にn無血上陸し、夜明けとおtもに要衝デンポッサルしないに突入、同時に同市郊外のクータ飛行場に進駐、ただちにジャワ上空を制圧して、陸軍部隊の西部ジャワ上陸を容易ならしめた。
かくして同年3月8日、ジャワ全土のかん定成るにおよんで、オランダの400年におよぶ全インドネシア地域の支配権は完全についえ去ったのであるがこの間バリ島においては、戦局のめざましい進展とともに転進し来たり、転進し去りゆく地上部隊、航空部隊の鼻息はまことに当たるべからざるものがあり、ずいぶんと無茶もやれば無理無体もしでかしたことはいなむべくもなかった。第一、言葉は通じないし人情風俗習慣にも暗かったため、バリ島の混乱と困惑ぶりは想像にあまるものがあった。
そうはいうものの、同年5月バリ島を含む小スンダ列島が、日本海軍の軍政担当地域ときまり、堀内豊秋大佐の指揮する海軍部隊が、北セレベスのメドナから転進しきたって軍政実施に着手するや、同部隊将兵のすぐれた紀律遵守により、全バリの治安は一日にして回復し、島民は安堵べん撫して生業にいそしむようになった。それというのも、部隊長堀内司令のひとがらによることだが、それとともに同大佐が、一人の珍しい日本民間人、三浦襄氏に全幅的な信頼をかけ、住民統治の仕事を一切ゆだね切った為であった。
 
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 三浦さんは宮城県仙台の人であったが、20歳台で海外に志をたて、セレベス島のマカッサルに渡って雑貨販売に従事したのが大正の末ごろだったという。その後バリを知り、日本人が入り込んでいないこの島に新天地を求めて移り住んだが、謙虚で誠実で人情に厚いその人柄は、まもなくバリ人の間に敬愛と信頼を高め営業も日増しに栄えていった。
昭和16年の秋、東亜の風雲いよいよ急を告げるにおよんで、三浦さんはついに意を決して最後の引揚船富士丸で家族とおtもに帰国の途につき、台湾海峡で開戦の報を聞いた。郷里仙台に落着く間もあらばこそ、海軍軍令部からの要請に接していそぎ上京し、そしてバリ島攻略部隊の道案内兼通訳としてふたたびバリ島に向うことになった。
開戦直後の混乱期に多年敬愛していた三浦さんが日本軍について来たことは、バリの住民たちにとって何よりの光明であり救いだった。トアン・ミウラ(三浦の旦那)何とかしてください、と苦情や不満の訴えは日に夜に三浦さんの許へ持ち込まれた。三浦さんは一々事情をきいてなだめもし、手当てもし、また軍側に申入れて注意を喚起もした。バパ・バリ(バリの親)という最大の敬愛をあらわす呼び名で、三浦さんが住民たちから呼ばれることになったのもこの時分からだった。堀内司令によるバリ島の「善政」は、当時内地にまでも聞こえたほどであった。


                                                                
  昭和17年7月、文官を総監とする海軍民政府がセレベスのマカッサルに設けられ、実戦部隊に代わって全海軍担当地域の民政施行に任ずることになり、バリ島にも海軍司政官が派遣されることとなったので、三浦さんは民政部に転属となり、いぜん住民宣撫の仕事を推進した。
翌18年になると軍の要請にもとづき台湾畜産会社が、デンッパサルに牛豚肉の缶詰加工工場を新設して軍用食糧の製造をはじめた。畜産資源に恵まれるバリ島ではあるが、牛50頭、豚300頭を毎日集荷するのは必ずしも容易な仕事ではなかった。そこで民政部は、バリ住民による収買機関バリ畜産会を作らせ、その代表責任者に三浦さんをふりあてた。こうして三浦さんは民政部は無給嘱託となりバリ畜産会から毎月200ギルダー(当時の邦貨200円相当)を受けることになったが、三浦さんは渉外事務をのぞき一般業務の運営、経理は一切現地人にやらせ、他に一人の日本人をも参加させなかった。バリ畜産会は、台畜に代わって、生産者から牛豚を買い上げ、台畜〜一頭につき何がしかの手数料を受け取って、それで全島の収買組織を維持する仕組みになっていた。
  そのほかに畜産会のすぐ近くの民家を買い取って工場にし、台畜から出る牛の骨でテンパサル市内の貧しい人たち数十人を集めて歯ブラシを作らせ、スラバヤの海軍軍需部に納めさせていた。軍需部との関係から特に三浦商会という名称を用いてはいたものの、運営経理はすべて現地人にゆだね、軍需部からの代金はそっくり現地人の賃金に支払われ、三浦さんはビタ一文も受けはしなかった。


 
 三浦さんのテンパサルの住居には、10人以上の子供が別棟に養われていた。太郎とか花子とか、日本名がついていたが、戦前からバリにきてい日本人漁夫(主に琉球人)とバリ女性との間にできた子供たちだった。父親は開戦と同時に捕らえられ豪州に送られてしまい、母親が困っていたのを引き取って、学校にも通わせているものであり、世話をしている二人のバブ(下ヒ)はいずれも子供の母親であった。
三浦さんがこんな子供たちを養育しているのを民政部が知ったのはかなり後のことだった。そこで本来日本政府のなすべきことなのだから、せめて費用は政府機関で負担したいと申入れたところ、三浦さんは自分で好きこのんでやっていることであり、畜産会から貰う200ギルダーでもって十分やっていけるのだから、余計な金を政府から出されるにおよばないと、きっぱり固辞されてしまい、とりつく島もない有様だった。
その三浦さんの住居というのは、ミスター・プジャの家だった。プジャ君は眉目秀麗な青年官吏で、ライデン大学を卒業してミスターの冠称を持つバリでたった2人のうちの1人で、英、独、蘭、日の各国語を話すバリ知識人の第一人者だった。デンパッサルで裁判官をしていたのだが、日本人が進駐するやそのよびかけに応じて、真っ先に出てきて協力した人物である。民政顧問(月俸500ギルダー)という最高の地位を与えられ、三浦さんを助けて混乱期の民政安定に貢献した功績は大きい。
 三浦さんは60に近い、プジャ君はなお37、8だったが、二人はまるで親子同然で、シンガラジャに移ったプジャ君はタンパッサルの家に三浦さんを住まわせ、三浦さんがシンガラジャに出てくれば、どんな懇意な日本人の所にも泊まらないでプジャ君の所で泊まった。プジャ君が留守でもさっさと入り込んでベットにもぐりこむという気楽さだった。夫人や子供たちも真実の祖父ちゃんのように三浦さんを遇していた。
 また三浦さんがシンガラジャに来たとなると、その晩には主要な現地人役人たちは必ずプジャ君の所に集まり、三浦さんを囲んで夜更けまで語り合うのが常例だった。彼らは三浦さんにはどんなことでも何の遠慮もなしに、真実をぶちまけていた。その話の中から、得がたい真実をくみとって三浦さんは随時、民政部長官に意見を具申し、施政の参考に供した。現地人役人にとって、三浦さんは心の「支え柱」だったし、日本側にとってもまたとない「明かり窓」でもあった。


 
 その三浦さんも、昭和19年の春になると、無血上陸いらい2年余りの絶え間ない活動の疲れが出たものとみえて、健康が目に見えておとろえ、面やつれがはげしくなった。一度内地に帰って静養される方がいい、と各方面からの勧めによって、海軍機で帰国の途に就いたのが同年4月だった。
 プジャ君をはじめ現地人知識層には、三浦さんの内地帰還がかなり大きな「不安」だったことはいなめなかった。ふたたび帰って来ないのではなかろうか、というひそかな疑念を抑えられなかったのも無理のないことだった。しかし三浦さんは、半年立ったら帰ってくるよ、とこれらの人々に約束して、つとめて元気そうに出立していった。

 
 「近くインドネシアに独立を許容する」との小磯声明が発表されたのは、三浦さんが日本に帰って5ヶ月ほどたった昭和19年9月7日だった。戦局の推移にてらし南方住民の戦争協力を確保せんとする大方針から出たものだったことは、周知のことである。
 この声明の発表にによって、インドネシア統治は新しい段階にに入った。陸海軍政機関は一せいに独立準備を促進する方向にのり出した。他民族の介入を一切排除し自主的な統治体制に入る「独立」こそ、デンインドネシア住民の悲願にちがいなかった。
 とはいえ戦争継続中の現段階では、戦争遂行上絶対に必要な部門のみはわが方に確保し、主として住民生活に直結する一般治安、教育、産業、交通等は最大限まで現地人政府機関の処理にゆだね、日本軍政機関は各行政部門の顧問的地位に後退することを目途として、事務的諸準備をすすめる一方、新政府組織の前提として全地域住民からもりあがる建国準備体勢を整えることが勘案された。
独立準備のさなかの19年12月、ひょっこり三浦さんがバリ島に帰ってきた。プジャ君はじめ現地人たちの感銘ぶりはいうだけ野暮だった。三浦さんが帰ってきたことは、日本人が「約束を守る」民族であることを証明しただけでなく、戦局の不利が報じられながら、航空機による日本内地との往復が途絶えてはいないことを、事実をもって示した。それだけではなかった。すっかり元気を取り戻した三浦さんは、島内をまわり歩いて、自ら見てきた日本内地の情況、とりわけ老若男女がどのように涙ぐましい戦争努力をしているかを、バリ島民に話してきかせ、いたるところ至大の感銘を与えたことを特記しないわけにはいかない。

 
 海軍最高指揮官柴田弥一郎中将の懇請を容れて、ジャワ奉公会総裁スカルノ氏(現大統領)が、まずセレベスのマカッサルに飛んだのが19年11月だった。ボルネオには、スカルノ氏は厳父の逝去で行けず、ハッタ氏(さきごろまでの副大統領)が代わってバンジャルマシンに飛んで敵機の空襲下に熱弁を揮った。そして最後に小スンダ地区のために、バリ島へスカルノ氏がやってきたのは、20年の4月だった。
スカルノ氏の母親はバリ生まれである。「自分の体内の血の50プロセントはバリの血だ」と叫ぶスカルノ氏の、すぐれた雄弁に、バリの青年男女は熱狂して拍手を送った。滞在4日間、全島各地で数十回におよんだスカルノ氏の民族の団結と独立をはげます演説が、バリ人をどれほど鼓舞したかは日本人の想像以上のものがあった。
 折りよく開催された、小スンダ州議会に出席したロンボックやスンバワ島の代表者たちも、はからずも自らの民族指導者と対談の機会を持ち得た。小スンダ全域の独立実現への気構えは、かくて急速に盛りあがり、やがて若きブレレン自治領のラジャ(藩侯)バンデイ・チスナ氏を会長とした「小スンダ建国同志会」の結成をみ、シンガラジャのブレレン藩侯邸のすじ向かいの建物にその本部事務局が設けられた。
 その建国同志会の組織のなかに、唯一人だけ日本人の参加が求められていた。会の推進力となり、かつ、日本との連絡に当る「事務総長」のポストがそれであった。このポストには小スンダにかんするかぎり、三浦さん以上の適任者のないことは衆目の一致するところであった。
 三浦さんが、同司会の首脳および民政部長官、海軍備司令らの要請もだしがたく、ついに最後のご奉公と、その就任を受諾したのは、20年の7月だった。新しい仕事のためには、月のうち半分はシンガラジャに在らねばならない。三浦さんは慎重に考慮したあげく、養育中の子供たちをみな母親の手許にかえし(むろん相当の手当をして)またバリ畜産会、三浦商会の仕事も、一切現地人の完全な自主経営に切りかえてしまい、身も心も軽くなってシンガラジャに出てきて、本部建物内の、特に三浦さんのために設けた一室に姿をみせたのは、実に20年8月はじめだった。
 当初予定されていた独立許容の日、すなわち20年9月7日までには、あとわずか1ヶ月しかなかった。ジャワに8月15、6日ひらかれる新政府樹立準備会に派遣すべき小スンダ代表の決定、その送り出しにともなう諸般の手続に、三浦さんはいそがしく働いた。そして小スンダ建国同志会から特派する代表者に推されたミスター・プジャが、バリを立ってジャワに赴いたのは実に8月9日のことだった。 
 そこへ情勢が一変し、晴天のへきれきのように「終戦」詔書が下った。8月15日正午の「重大放送」を、祖国を去ること3千キロ、赤道よりまだ南の孤島で、聴きとったすべての日本人の衝撃が、どんなに大きかったかは、今回想するだにまざまざしいものがある。

 

 万事休す。
 同司会本部から、三浦さんの姿が消えた。数日後民政部長官官邸にあらわれた三浦さんの面ざしには、苦悩と憔悴が痛々しいほど刻みこまれていた。
 三浦さんは、長官の口からじゅんじゅんと語られる、終戦にいたるまでの顛末を、首を垂れて聴いていた。最後の御前会議で「たとえ自分の身がどうなろうと、国民の苦難をこれ以上見るにしのびない」と仰せられて聖断が降るや、全閣僚みな泣きぬれて面をあげえなかったという情景には、三浦さんの感動もひとしおふかかったもようである。
 三浦さんが、島内39郡を日に夜をついで、駆けめぐり出したのはそれから数日後だった。行く先々で郡長、村長その他の有力者を集めて、終戦のやむなきに至った事情、日本としてはいまや独立を援助できない立場にたちいたったが、しかし精神的にはあくまでインドネシア独立を支持してかわらねいこと、インドネシアの進むべき道は、唯々祖国愛に燃える全インドネシアの団結と一路前進あるのみなこと、そして、自分はあくまでもインドネシアを愛しバリを愛するがゆえに甘んじて全日本人に代わって骨をこの地に埋めて独立を見届ける決心であることを、熱情を傾けて説いて、住民の理解と納得を求めた。
そして9月6日の夕方には、多年住居の地デンパッサルの映画館で、現地人および華僑ら約600人を前に、声涙共にくだる大演説を行い、最後に、明9月7日の未明に、自分は自決して骨をバリに埋めインドネシア独立の人柱となって、諸君の独立達成を守るつもりであると結んで壇を降った。
これよりさき、三浦さんの決心を知ったプジャ君ら現地人有志は、自殺を悪徳とするヒンズー教の教えを説いて、三浦さんに思い止まるよう進言し、哀願もした。日本人有志も極力自重を要請しつづけた。しかし三浦さんを翻意さすことは、何人にもできえなかった。


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 映画館での最後の演説をおえた三浦さんは、同夜バリ・ホテルで催されたデンパッサル民政部主催のサヨナラ晩餐会にも請われるままに列席し、並み居る司政官たちとなんの屈託もなしに歓談を交わし宅に帰っていった。
そこには、三浦さんを案じてシンガラジャからかけつけたプジャ君をはじめ同氏に私淑する現地人有志が待ちかまえていた。語らいが夜更けまでつづいたが、いつまでも傍から去ろうとしない人々に、三浦さんはしまいに色をなして怒り出し、言葉を荒げて立ち去れと命じた。仕方なくみんなは、いとまを乞うて去らざるを得なかった。
みんながいなくなると、三浦さんは書斎に入って、大急ぎで何通かの遺書をしたためた。仙台の夫人や特別懇意な友人にあてたのもであった。「インドネシアに遺す言葉」として、各地で行った演説の原稿がのこされたし、愛用の時計、万年筆、印形などにそれぞれ贈り先が示された。また使い残りの養育していた子供たちにわらち与えるよう、名前まで書き残された。
死んだ後の処置をすませてから、マンデイ(水浴び)をし、すっかり真新しい衣類に着替えたうえ中庭の隅にしつらえさしたアタップ(椰子葉)の小屋囲いの中に入り、端座し右のコメカミに拳銃をあてがい、轟然一発とともに見事な最後を遂げた。「昭和20年9月7日、インドネシア独立が許容されるはずだった日」のあけがた(午前4時すぎ)であった。
 
 
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 神々しいまでにいさぎよい最期であった。
中庭の小屋囲いをえらんだのも、ミスター・プジャ所有の家の内部を、血でよごすまいとの心つかいからだった。それ以上に人々を驚かせたのは、いつのまに作らせたのか、等身大の棺が、ちゃんと中庭ぞいのヒサシ下に置かれてあったし、さらに驚かされたことは、テンパッサル市のはずれの住民墓地のなかに、ひときわ目じるしにもなる老木のかたわらに、棺の入るだけの墓穴が掘らしてあったことである。

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 その日の午後、その中庭で、葬儀がとり行われた。色とりどりの花で飾られた棺の前には、どこから持ち寄ったか香炉やリンがならべられ、南方特産の果物類がうず高く供えられた。
 百坪くらいの中庭、身動きもならぬほど人で埋まった。焼けつくような太陽のもとで、僧職出の警備隊員がひとり、軍装のままケサガケをして導師になって読経をした。民政部長官、警備隊司令、邦人代表らが、つぎつぎに焼香し拝礼した。
 バリ島は、8つの自治領にわかれ8人のラジャたちは、領民の生殺与奪の絶対権力を持ち、住民はラジャの前では「膝行」しなければならなかった。その8人のラジャが、一人のこらず従者をつれて参列した。彼らは略装の喪服姿をし、黒の上衣に黒のサロン(スカート)をまとい、カバラカイン(頭をまく布)を巻き、クリス(短剣)を背にさしていた。
 むせかえる暑さのなかに、すべてが静かに、しかしおごそこにとりはこばれた。日本人の心も現地人の心も、まったく一つだった。
 日本側による葬儀がおわると、個人の遺志にもとづき、バリの風習による葬送が、現地人たちの手で行われることになった。
 棺には、これまた花で美しく飾られた天蓋をかぶせ、青竹の台座に据えられて、プジャ君はじめ側近者たちによってかつがれた。棺の前方には、白木綿の細布が長々とくりひろげられ、妙齢のバリ娘たち(多くはテンパッサルの看護婦学校の生徒らしかった)が一列にならんで、片手で布のハシを持って、銘々の頭上にさしあげ、も一つの手には花の枝を持っていた。白布を頭上にささえる娘たちの長い列の先には、市内の小学校、中学校、工業学校の生徒たちが、手に手に花の小枝を持ったり、小さな鏡や鈴のような楽器を持ったりしてならんだ。
 行列が動き出すと、棺のすぐあとに、8人のラジャ、16人のプダンダが続き、多数の郡長、村長はじめ役人、警察官、華僑有力者など数百人がそのあとからつづいた。
 棺は、日本人の黙祷に送られて発進し、家の前の道路から右に折れて本街道に出、警備隊前を通って一直線に、中央大通りの華僑街を北進した。西側の店にも家にも、紅白のインドネシア国旗が低く垂れていた。実をいえば、この9月7日からはじめて紅白旗が「単独」にかかげることが認められたのであったが、奇しくもそれはバパ・バリの死を悼むインドネシア住民の弔旗とかわったのである。
 やけつくような炎熱の街を、戸毎に紅白旗の低く垂れる大通りを、えんえん数町におよぶ列は、粛々と進んでいった。かってこれほど、盛大な、しかも厳粛な葬送を、いかなる大官がバリ島でうけたことがあろうか。そして将来においても、これに比敵する待遇をバリ人から受ける者があるだろうか。

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 やがて進駐してきたオランダの命令で、バリ島から日本人がのこらず立去ったのは、翌昭和21年5月末であった。
 独立戦争を丸4年戦い続けたのち、オランダがとうとう棒を折って、主権譲渡をし、インドネシアの独立が実現したのは昭和24年12月(1949年)で、三浦さんが自決してから4年4ヶ月後だった。
 往年の世界の観光地バリ島も、今は訪れる観光客も稀れのようである。むろん日本人はそれっきりひとりもいなくなっている。しかし、真実をいうなら、バリ島には、いまもなお「日本人がいる」のである。それは、テンパッサルの住民墓地にねむっている三浦さんであり、いな三浦さんは「眠っている」のではなくて、130万バリ人の心のなかに、「いまも生きている」のである。
       (昭和32年5月、日本インドネシア協会発行月刊インドネシア所蔵)

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バリに眠る三浦 襄翁
バリ島のホテルに滞在中、太平洋戦争中インドネシアに駐留していたO氏からこの三浦襄氏の話を聞いた。とても感動したので、O氏にこの本を借りた。バリ島を旅行する人にも是非紹介したくて関係の人に了解を取り転記した。