「生といふは、たとへば、人のふねにのれるときのごとし。
 このふねは、われ帆をつかひ、われかじをとれり。  われさををさすといへども、ふねわれをのせて、ふねのほかにわれなし。
 われふねにのりて、このふねをもふねならしむ。」

 ここで、「ふね」とは、生のことです。「われ」はわれですが、ひとまず、われとは、この肉体をもって今の世に生をうけている自分の核となる認識主体というように仮定して読んでいってみましょう。

 ふねを棹さすごとく、自分の意思でこの生を生きていると思えるけれども、ふねが自分をのせているように生そのもののなかに自分は依拠している。
 一方、私の認識において、この生があり、この世界が存在しているとも言うことができる。私が、舟にのっているから、舟は舟として働いているのである。

 この機微を参究すると、天も水も岸もすべて舟の時節となる。すなわち、全世界は生のうちにある。


「このゆえに、生はわが生ぜしめるなり、われをば生のわれならしめるなり。」
 これが、全機というものだということでしょう。

 この全機の巻では、このあと、生死の本質について、すさまじく掘り下げた息をのむような思考の展開がなされます。

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全機のなかの言葉 2