全機とは、すべての働きという意味なのでしょうが、ここでは、真実のすべての働きが現成しているのが、生であり、死であると述べておられるように思います。

 いずれにせよ、生死に向き合った巻です。これは、増谷文雄さんが書いておられるように、いつもの興聖寺ではなく、六波羅蜜の波多野義重の屋敷で行われた説法であり、日々死に向き合って暮らしている在俗の人間に向けて説かれたものであるように思えます。

全機の中の言葉
  この巻にも、いくつもの美しい言葉が登場しますが、今回は、二つの言葉を紹介しましょう。

 「生は来にあらず、生は去にあらず、生は現にあらず、生は成にあらざるなり。しかあれども、生は全機現なり、死は全機現なり。
  しるべし、自己に無量の法あるなかに、生あり、死あるなり。」

  生は、いずこかより来たれるものでなく、いずこかへ去るゆくものでもない。同時に、生はなにかが現われたものではなく、なにかが成ったものでもない。
  そうであるけれども、生はすべての働きが現成したものであり、死もすべての働きが現成したものである。
  知るべきである。自己のうちに無限の法があるのであり、この真理の中に生も死もあるのである。

「このゆえに、生はわが生ぜしめるなり、われをば生のわれならしめるなり。」

 これが、全機というものだということでしょう。

 この全機の巻では、このあと、生死の本質について、すさまじく掘り下げた息をのむような思考の展開がなされます。

続く

全機の巻