山水経
山水経とは、冒頭に「而今の山水は古仏の道現成なり。」とあるように、山水が経であること、すなわち真理を告げるものであること、あるいは真理を体現するものであることというような意味であります。
続いて、このように説かれる。
「空劫已然の消息なるがゆえに、而今の活計なり。朕兆未萌の自己なるがゆえに現成の透脱なり。」
空劫已然とは、現在の世界が出現するはるか以前のことであり、そのときに貫いて存在していた真理であるがゆえに、只今も活き活きと真理が働いているのである。
朕兆未萌とは、ものの兆しがいまだ現われる前のことであり、そのときに存在していた自己であるがゆえに、時間を超えて存在する只今の世界の出現のあり様である、というような意味であろうか。
いきなり、何の前触れもなくこのように真理の核心を説かれる。このような真理の現われとして、今、私達の目の前に山水があるとされるのである。
山水が経であるとは、このような真理の構造において、はじめて成り立つ提示である。
山水経の巻