イスラマバードの風 NO.35     2011年4月12日発行

 アッサラーム・アレイコム! ご無沙汰しています。 石原武司です。
 東北大震災の翌日、3月12日に帰国しました。それからあっという間の1ヶ月でした。
 毎日、テレビで被災地と福島原発の映像ばかり見て過ごしていたように思います。

■ 3月11・12日
 今回の地震が起こった3月11日は、プロジェクトのワークショップの最終日で、私はちょうどその日の深夜にイスラマバードを発つことになっていました。
 地震のことは、パキスタン時間の3月11日12時頃(日本時間:午後4時頃)、プロジェクト事務所でインターネットを見ていたパキスタン人職員から聞きました。でも、その時は大きな地震が日本を襲ったということだけで、津波のことは全く知りませんでした。
 3月11日(金)は、パキスタンではお祈りの日で半ドンだったので、2時頃ゲストハウスに戻りま
した。そこで、アサヒ・コムにつないで、始めて津波の映像を見ましたが、それでも神戸の震災以上の死者が出るとは夢にも思いませんでした。12日朝、バンコクで買った読売新聞衛星版で、始めて津波の被害が想像を絶する規模であることを知りました。原発事故について知ったのは、自宅にたどり着いてからでした。
 日本には3月12日の深夜、無事小野の自宅に帰り着きました。日本に帰ってからは、日増しに大きくなる津波による被害と時間とともに深刻になる原発事故のことを心配しながら、ほとんど1日中テレビにかじりつく毎日でした。また、パキスタンの友人・知人から、”We pray that your family and friends are safe in Japan. I am confident that the Japanese people will soon recover from this tragedy.”といった激励のメールをたくさん頂きました。

■ 「想定外」ということ
 M8以上の地震を巨大地震といい、三陸沖、南海、東南海、東海のいずれかの地域で、いつ起こっても不思議ではないと言われてきた。M9の地震はM8の約30倍の規模で、超巨大地震と呼ばれる。巨大地震は起こっても不思議ではないが、まさか日本で超巨大地震が起こるとは誰も予想していなかった。 
 また、津波の怖さについて、われわれ日本人はよく知っているつもりだったが、まさか高さ15mを越える、スマトラ沖地震以上の津波に見舞われるとは誰も予想していなかった。
 その結果として、死者・行方不明27,000人、倒壊・流出家屋20万戸、避難者数40万人という未曾有の大災害となった。その上、福島第一原発は津波のため非常用電源を喪失、炉心冷却が出来ず、炉心溶融を起こし、大量の放射性物質を環境に放出した。原発反対運動が危惧していたことが、現実に起こってしまったのだ。
 原発推進派の学者は、原発は十分安全に作られていたが、地震が想定外の規模だったと自己弁護をするが、それはおかしいと思う。少なくとも「想定」は、過去に起こった地震のうちで最大のものとすべきであるが、経済的理由から実際には最大のものにはなっていない。明治三陸沖地震では、最大15mを越える津波を記録しているが、福島原発では5.7mの津波しか想定されていない。15mの津波に耐えうる原子炉は、建設費が余りに高価になってしまうからだ。私も含めて原発反対派は、そこで非妥協な戦いをしなければならないのだが、結局、推進派の「想定」を許してしまっていたのだと思う。
 今は一刻も早くこの原発事故が収束すること、つまり定常的炉心冷却が可能になり、これ以上の放射能の環境への放出がなくなることを祈るばかりだが、この事故が収束しても、4つの原子炉を廃炉にするという長い道のりがまだ残されている。
 とても大きな代償を払ったが、この事故を契機に日本はエネルギー政策の転換、つまり、原子力から太陽光、風力といったエネルギーへの転換を図るべきだと私は思う。そして、日本はその分野のパイオニアになるべきだと思う。それから、よく言われることだが、我々もこれまでの電気依存の生活を改めねばならない。電気の塊のアルミ缶はやめて、reuse可能なガラスビンを使おう。電気を食う自動販売機を追放しよう。夏の暑い日は、クーラーなど使わず、風の通る板の間にゴザを敷いて昼寝をしよう。これらは普通なら難しいことかもしれないが、今なら出来そうな気がする。

  
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