T あなたはやり直すことができる(手束正昭著「ヨシュア記連続説教集B」より)

              あなたはやり直すことができる     
                ―ヨシュア記20章1〜9節―       (1/5頁)

        そこで主はヨシュアに言われた、

          「イスラエルの人々に言いなさい、『先にわたしがモーセに
          よって言っておいた、のがれの町を選び定め、

          あやまって、知らずに人を殺した者を、そこへのがれさせなさい。
          これはあなたがたが、あだを討つ者をさけて、のがれる場所と
          なるでしょう。

          この人は、これらの町の一つにのがれて行って、町の門の
          入口に立ち、その町の長老たちに、そのわけを述べなければ
          ならない。そうすれば、彼らはその人を町に受け入れて、場所を
          与え、共に住ませるであろう。

          たとい、あだを討つ者が追ってきても、人を殺したその者を、
          その手に渡してはならない。彼はあやまって隣人を殺したので
          あって、もとからそれを憎んでいたのではないからである。

          その人は、会衆の前に立って、さばきを受けるまで、あるいは
          その時の大祭司が死ぬまで、その町に住まなければならない。
          そして後、彼は自分の町、自分の家に帰って行って、逃げ出して
          きたその町に住むことができる』」。

          そこで、ナフタリの山地にあるガリラヤのケデシ、エフライムの
          山地にあるシケム、およびユダの山地にあるキリアテ・アルバ
          すなわちヘブロンを、これがために選び分かち、

          またヨルダンの向こう側、エリコの東の方では、ルベンの部族
          のうちから、高原の荒野にあるベゼル、ガドの部族のうちから、
          ギレアデのラモテ、マナセの部族のうちから、バシャンのゴラン
          を選び定めた。

          これらは、イスラエルのすべての人々、およびそのうちに寄留
          する他国人のために設けられた町々であって、すべて、あやまっ
          て人を殺した者を、そこにのがれさせ、会衆の前に立たないうち
          に、あだを討つ者の手にかかって死ぬことのないようにするため
          である。


                 

         パレスチナの地に侵入したイスラエルが、最初に

        手がけたのは念願の土地の配分だったが、この直後

        に彼らが行ったことがある。それは、主なる神が繰り

        返しモーセに命じ、ヨシュアに重ねて命じられた、

        「のがれの町」の制定である。ヨシュアは土地配分の

        終了後、直ちにこれを実行した。


         7,8節によると、6ヶ所に「のがれの町」が制定され

        たとあるが、一体「のがれの町」とはいかなる場所で

        あったのか。それは、過失によって殺人を犯した者が、

        ここに逃げ込むなら、その人は仇討ちを免れ、罰を受け

        ずに済むという所なのである。今日でも刑法には過失

        致死罪なるものがあり、いわゆる計画的でない殺人は

        刑が軽い。けれども過失といえ、人を殺したのだから、

        それなりの懲罰(ちょうばつ)は免れ得ない。ところが、

        「のがれの町」制定に対する神の命令は今日の刑法

        とは著しく異なる。過失によって人を殺したとしても

        「のがれの町」に逃げ込むならば、「その人は会衆の

        前に立って裁きを受けるまで、或いはその時の大祭司

        が死ぬまでその町に住まなければならない。そして後、

        彼は自分の町、自分の家に帰って行って、逃げ出して

        きたその町に住むことができる」(6節)というのである。

        これはなんと人間愛に富んだ、ヒューマンな掟(おきて)

        であろうか。
                                       

         ではなぜ、主なる神はのがれの町の制定を強く願われた

        のだろうか。どうして、何度もモーセに命じ、ヨシュアにも命

        じてこの町を造らせたのか。なぜそれほどまでに、この町の

        制定にこだわられたのだろうか。それは、この町の存在その

        ものが、神の本質に根ざしているからである。私たちの信じる

        神は、自らの本質である愛をここに遺憾なく発揮されている。

        すなわち、神は私たちを裁くことを良しとし、その目を常に裁き

        に向けておられる方ではなく、私たちを愛し、赦すお方であら

        れるということを意味する。そういう愛なるお方なのである。

        「神は愛である」といわれる。しかし愛という言葉はきわめて

        抽象的である。"愛"とは、"愛する"とはどういうことなのか。

        具体的に神はどのように私たち人間を愛し対処して下さる

        のか。また、私たちが他者を愛するとはどういうことなのか。

        かくて、神はのがれの町の制定によって具体的に愛するとは

        いかなることかを教えておられるのである。


         それは、私たち人間がいかに間違いやすく、失敗を犯しやすい

        存在かということを神は知り尽くされ、深く理解しておられると

        いうことである。のがれの町を造られた第一の理由、意味は

        ここにあった。


         わが家では時々、妻と子供たちの間で「お母さん、どうして

        忘れたんだ。頼んでおいたのに」という類の口げんかが起る。

        私と妻との間でも同様なことが起こる。そんなある時、妻が

        「あなたは解ってくれない。解ってくれないから素直になれ

        ない」と言ったことがある。この時、私の中に一抹の反省が

        起こったことを記憶している。そうなのである。愛するとは解っ

        てやること、理解してやることだと私は思う。そして神は、

        私たちを深く愛して下さっているが故に、人間というものが

        いかなる存在で、いかに失敗や間違いを犯し易いものである

        かということを知り尽くされ、理解して下さっているのである。

 
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