以前、私の友人がキリスト教を求めていた。ところが彼は
キリスト教から離れて仏教を求めていったのである。彼は
私に「キリスト教の教理より仏教の方が奥が深い」と言った
のである。そこで私は仏教の勉強を少ししてみたのであるが、
そこで私に分かった事は、キリスト教より仏教が深いという
のは誤解だという事である。キリスト教の救いより、仏教の
救いの方が深い、キリスト教の真理より、仏教の真理の方が
深いというの誤解であって、ただ言えることは、仏教の方が
複雑で難しいということである。それ故、何か奥の方にもっと
多くの真理があるように思っているにすぎないということである。
これを偏見と言う。
更に、キリスト教の救いから人々を遠ざけているもう一つの
理由は、私たち人間の内には何ら救いの根拠がないという
主張のゆえんである。すなわち、キリストによる救いには功績は
何ら問題ならないという事は、これまた、特に日本人には受け
入れ難いところなのである。功績と自分を結びつけたいという
無意識的な願いがいつの間にか働いて、クリスチャンの中にも、
何か自分たちが救われ、潔められるためには功績が必要では
ないかと思いたくなってくる。潔められ、立派になったら洗礼を
受けようという人や、立派になれば聖霊のバプテスマを受けら
れると考えているクリスチャンも案外多いのである。罪がなく
なったら、立派になったら、良い信仰者になったらそうする事が
できるという風に考えてしまうのである。しかし果たして私たち
の側に、神に救われる資格などあるだろうか。また聖霊の
バプテスマを受ける資格などあるだろうか。こう考えることは
結局律法主義である。私たちが救われるのは神の側からの
一方的恩寵によって、十字架の贖いを信じる信仰によってのみ
救われるのであり、聖霊のバプテスマについてもそうである。

もう十数年も前、高砂教会に聖霊の出来事が起こされ、
多くの人々が次々と聖霊のバプテスマを受け、信仰の復興が
はじまった頃の事である。ホーリネス系の教会からやって来た
一組の夫婦が高砂教会の聖霊は本当の聖霊ではないと言い
出したのである。この人たちが言うのはこうである。自分たちは
これまで熱心に教会生活をし、信仰生活も長く、人々からも立派
な模範的クリスチャンだと言われてきた。けれどもその自分たち
が、聖霊のバプテスマを求めても受ける事ができないのに、最近
教会に来たばかりの、信仰の分かっていないような人々がどん
どん聖霊のバプテスマなるものを受けてしまう。これはおかしい
のではないか。そんな聖霊のバプテスマを私たちは認めることが
できないというのである。そして教会を去っていった。大変良い
奉仕をして下さった方々であったので、私は痛く残念に思った。
しかし、この人たちは大きな誤解をしているのである。聖霊の
バプテスマは何も立派なクリスチャンだから受けるのではない
のである。自分の内側に何かよりどころを持ち、立派さとか、
聖さとか、素晴らしさとか、はたまた義なるものがあるから、
信仰の高みを獲得したから、聖霊のバプテスマを受けることが
できるというのではないのである。これは困った誤解である。
そうではなく、私たちが救われるのも、聖霊を受けるのも、
信仰によって受けるのである。この事をしっかり覚えて高慢や
偏見の根を断ち、せっかくの神の恵みを妨げ、遠ざかる事の
ないようにしていこうではないか。
一九七九年に開かれた第一回ユース・ウイズ・ア・ミッションの
ジャパン・アウトリーチ以来深い交わりをもっている、オーストラリ
アの牧師ダグラス・クール師による夏の修養会の事であった。
一人の姉妹が他教会から聖霊のバプテスマを熱心に求めて
参加した。彼女はペンテコステ系の教会員であり、そこで聖霊の
バプテスマを何度も求めたが与えられなかったのである。そこで
彼女は高砂教会の修養会ではどんどん聖霊のバプテスマを受
けているというニュースを聞いて、自分も何とか受けたいと願っ
て他教会からわざわざ参加したのであった。この熱心な求め、
高砂教会の修養会に行くならば自分も神の大いなる恵みの
御業を受けられると信じて参加した彼女は、もうこの時に聖霊
のバプテスマを受けたも同然だったのである。媒体さえあれば
それでよかったのである。私は彼女の頭に軽く手を置き「今あ
なたの頭に手を置いて祈ります。そうするとあなたは聖霊を受
けますから、どんどん異言を語り出して下さい」と言って短く祈っ
たのである。瞬時にして彼女の口から麗しい異言がほとばしり、
語りはじめたのである。ハレルヤ!信仰と神の霊の働く所、
そこに大いなる神の御業はたちまち起こされていくのである。
ただ、主イエスの十字架の贖いを信じる信仰によって、私たち
は救われ、御霊に満たされ、聖霊と共に歩むのである。自己
中心的な思い、高慢と偏見とをとり除いて、神を第一とし、
神に対する願いを求め、全面的信頼をもってこの人生を歩んで
いこう。私たちの上に今ある問題、又将来押し寄せる問題や
試練においても信仰の秘訣をしっかり握って歩むならば、何の
怖れもない。神に対する熱い願いと求めを持ち続け、全面的に
神に依り頼み歩む時、神の霊が信仰と一つとなっていく時、
きっかけさえあれば、いつでも神の素晴らしい大いなる御業、
奇跡が私たちの周りに起こされるのである。
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