■手束正昭著「命の宗教の回復」より
           (キリスト新聞社刊)

  カリスマによるいやしと解放 
1 赦すことの祝福 − 赦しに秘められたカリスマ的力 (4/5頁)

  神は私達が赦すことを待っておられる。

 赦すならば、素晴らしい祝福を与えようと用意して待っておられるのである。

 タップスコット女史はそのセミナーの中で、一人のアメリカの女性の内なるいやしと、

 その解放の証しをして神に栄光を帰された。


  その婦人は深い心の傷をもって、内なるいやしを求めてきた。

 彼女は結婚していたが、表情は暗く、やつれて、年齢以上にふけて見えた。

 彼女の母親は五回も結婚したので、彼女は連れ子として五人の父親に触れなければならなかった。

 そしてその内の一人の義父に、十一歳の時に犯された。

 この事が彼女の心を深く傷つけて、その義父に対する非常な憎しみは、

 彼女の人格と容貌にまで深刻な影響を与える事になってしまったのである。

 彼女はふさぎこみ、病気がちとなった。

 そこで、タップスコット女史はまず彼女を縛っている憎しみの霊を追い出し、

 その時受けた一つ一つの傷をいやしていかれたのであった。

 その後しばらくしてから彼女に会った時、彼女はまるで別人のように若々しく、

 美しい女性に変貌していたのである。

 彼女の内なる傷がいやされ、完全に彼女のうちから憎しみも悲しみも取り去られていた。

 彼女の夫は「私は新しい妻を得ました」と、喜び告げたというのである。

 その後彼女は、自分にひどい仕打ちをした義父がガンに冒され、

 孤独の中に闘病している事を憐れみ、

 彼を自分の家へ迎えて、その最後の日まで看取ったのである。

 義父の死を知らせてきた時、彼女は電話の向こうで泣いていたという。

 義父を赦し、愛し、その死を悲しみ憐れむ彼女の泣き声は、

 まさに神の愛の美しさを讃える讃美であり、涙であったのである。


  重要なことは、では、いったいどうしたら私達は人を赦す事ができるようになるかということである。

 その第一は主の十字架である。十字架の赦しを見上げる事である。

 主イエスが私達に何をして下さったかを明確に知る事である。

 旧約聖書においては、人々の罪を指摘したのは預言者達であり、律法である。

 罪を指摘された人々は、その審きの怖さにうちふるえ、

 多くの動物の犠牲をもって悔い改めたのである。

 その時祭司達は彼等に赦しを与えた。しかし、主イエスの十字架の赦しはそれとは全く異なる。

 主は私達が自らの罪を知らず、悔い改めもしない時に、一方的に十字架につけられ、

 その十字架の上から赦しを宣言されたのである。

 主は一方的に、ご自身を私達のために捧げて下さったのである。

 一方的に赦しの愛と贖いを、私達に注がれたのである。

 主がカルバリの十字架の上で赦しの祈りをされた時、

 人々はあざ笑い、着物をくじで分け合っていたのである。

 その内の誰が「ナザレのイエスよ、わたしの罪をお赦し下さい」と言っただろうか。

 それにもかかわらず、イエス・キリストは「父よ、彼らをおゆるし下さい。

 彼らは何をしているかわからずにいるのです」と祈られた。

 主は自らの痛みと苦しみ、その死を通して私達を一方的に赦し、救い、贖って下さったのである。

 このように主イエスの十字架の赦しは無償であり、何の条件もないのである。

 ただ十字架を見上げ、その赦しと贖いの恵みに目を向けていく時、

 その時私達もまた、人を赦していかなければならないという事を深く知るようになっていくのである。

 そして主イエスに倣って、一方的に罪の赦しをしていく時、

 そこに驚くべき主の御業が起こってくるのである。



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