■手束正昭著「命の宗教の回復」より
           (キリスト新聞社刊)

カリスマによるいやしと解放 
1 赦すことの祝福 − 赦しに秘められたカリスマ的力 (5/5頁)

  その典型的な実例はステパノの赦しと、その死において、あますところなく報告されている

 (使途行伝七章参照)。

 ステパノは信仰と聖霊に満ちあふれ、

 めざましい奇蹟としるしを行った初代教会の執事の一人であった。

 彼は捕らえられ、議会に引き渡され、ついに石で打たれつつも、大胆に主を証し、祈ったのである。

 ステパノは御霊に満たされて、幻の内に、

 天におられる主イエスが立ち上がって来られるのを見たのである。

 主は立ち上がってどうされたのだろうか。

 然り、ステパノの愛と赦しの殉教の故に、主は立ち上がってサウロ(パウロ)を救い出し、

 彼をして異邦人のための使徒として立てるべく、天上においてその行動を開始されたのである。

 そしてパウロが立てられる事によって、キリスト教はヨーロッパに渡り、そして全世界に広がっていった。

 ステパノの赦しの祈り、赦しの愛が、実に世界の歴史をひっくり返していったのである。


  何と素晴らしく、偉大な事であろうか。

 一方的に赦すという事は、このように偉大なる神の力を解放していくことなのである。

 あの人が謝ってきたら、あの人が詫びてきたら、そうしたら赦そう、ではない。

 本当は赦し難いが、何とか我慢して赦そうというのでもないのである。

 そうではなく、その人がどうあろうとも、私がイエス様の十字架を見上げ、

 その赦しの愛に触れる時、

 「主よ彼をお赦し下さい。私も彼を赦します」という道が開かれてくるのである。


  二番目に必要なことは、自分の力によってではなく、聖霊に依り頼めという事である。

 私達は肉なる者であり、感情によっては決して人を赦すことの出来ない者である。

 感情というものは根深いものであって、感情を処理しコントロールすることは大変なことである。

 自分の感情に頼っていては、決して人を赦すことは出来ないのである。

 赦したと思っていても、実に赦していないのである。

 それ故、感情に頼らず、聖霊に依り頼み、祈るべきである。

 「主よ、私は赦すことができません。しかし聖霊さま、あなた様がわたしを通して赦させて下さい」と。

 赦しを感情の事柄としてではなく、

 神様の御旨に対する意志的な服従として行っていくという事である。

 主が赦しなさいと語られるから、あえて私の感情をそこに置いたまま、

 信仰と意志の力でその赦しに服従していく事である。言葉で告白する事である。

 「主よ彼を赦します」、「彼女を赦します」、と何度も告白し続ける時、

 意志が感情を抑えるまでに強められて、

 赦そうとする意志の力が感情を制覇していくのである。

 そして私達は感情的にも、憎しみや怨みから解放されて、

 更に主に在る自由な主体へと変えられていくのである。


  この意志的な、服従による罪の赦しを私達が実行していく時にも、

 神はそこに驚くべき御業を起こされる。

 私は最近、「先生は本当に寛容ですね」とよく言われる。

 しかし、元々の私はそうではない。なかなか人を赦すことのできない人間だったのである。

 けれども主は、このような私に一つの貴重な経験をさせて下さったのである。

 それは私達の高砂教会が分裂した時の経験である。


  その時教会員の半数近い人が去って行った。去るだけならまだいい。

 私は彼等から様々に苦しめられることになったのである。

 教区の「主だった人々」に様々なざん言がもたらされ、

 私は何度も呼び出されて釈明をしなければならなかったのである。

 また、私を非難する文書が活版で印刷されて、教会内外のいろんな所に配られ、

 私の牧師としての名誉は著しく損なわれていった。

 ただでさえ、この教会がこれからどうなるかと悩み、苦しみ、

 経済的にも追い詰められた状態であったにもかかわらず、

 その上に、これでもか、これでもかと彼らは攻撃してきたのである。

 今思えば、そこには彼らなりの理由とやむにやまれぬ思いがあったのであろうが、

 その頃の私には、彼等の立場を斟酌(しんしゃく)する余裕はなかった。


  私の怒り、憤りは頂点に達した。

 私は燃えたぎるような憎しみと怨みの思い、怒りを抑えることができないで、悶えた。

 けれども祈りの中で、主は「彼らを赦しなさい。

 そしてその証しとして、彼らに赦しと詫びの手紙を書きなさい」と命じられたのである。

 「冗談じゃない」と私は思った。

 「詫びの手紙を貰いたいのはこちらの方だ」と問い返した。

 私は「そんな事は出来ません。決して出来ません」と、何度も主と押し問答をしたのである。

 しかし主は一歩も退かれない。

 ついに私は降参して、不承不承ながらではあったが、

 彼ら一人ひとりに手紙を書くことにしたのである。

 だが、今度は教会の役員達が反対した。

 「牧師先生、私達は先生の辛さを知っています。そこまでされること、とても見るに忍びません。

 恐らく先生がそこまでされても、良い反応は返ってはこないでしょう。

 だから、やめて下さい」と。しかし主の命令であるから、あえて私はその事に服従したのである。

 その手紙の反応は、案の定、冷やかなものであった。

 けれども、その後、主は私達の教会の上にどのような御業を起こされただろうか。

 教勢は大きく衰退し、意気消沈していた教会が、この赦しへの服従を契機として、

 ぐんぐんと成長していったのである。

 そしてあっという間に、失った半分の人達を補ってあまりある人々が、

 私達の教会へ入ってきたのである。

 かくして、短期間のうちに、信仰的にも経済的にも、

 前以上の豊かな教会へと変貌していったのである。

 これは偏えに神の祝福の御業であった。


  かくのごとく、人を赦すというのは、一方的事柄である。

 相手がどうでてこようと無関係である。

 その時、全能なる神が、その御手を動かされるのである。

 私達は、私達の感情によらず、主の御心に向かって、意志的に、聖霊様の力に依り頼んで、

 赦していく者になろうではないか。

 赦すことはあなたの祝福である、赦すことはあなたの恵みである。

 赦すことは相手にとって以上に、あなたにとって良き事なのである。



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