■ 手束正昭著「命の宗教の回復」より
           (キリスト新聞社刊)

 カリスマによるいやしと解放 
1 赦すことの祝福 − 赦しに秘められたカリスマ的力 (3/5頁)

  先述した「内なる癒し」セミナーにおいて、講師のタップスコット女史が繰り返し語られたのも、

 いやすという事がいかに人間にとって重要であるかという問題であった。

 内なる傷がいやされない最大の障害は、人を赦されないという事にある。

 彼女は深い心の傷のために、うつ状態になったり、人間関係が壊れたり、

 また、そのために大きな不幸に見舞われている多くの人々を、

 その内なる傷からいやされ解放されるようカウンセリングをし、

 いやしのための祈りをされる霊的カウンセラーである。


  タップスコット女史は祈りをされる時、まず最初に、その人をつかまえている霊を縛ってから、

 一つ一つの傷をもたらす記憶を辿っていやしていくのである。

 しかしその際、もしその人が誰かを憎み、うらみを持って赦さないままであるならば、

 内なる心の傷も仲々いやされず、主の素晴らしい解放の御力、いやしの恵みは妨げられることになる。

 それ故、「内なるいやしの鍵は赦しにある」と、セミナーを通して何度も強調されたのである。

 そして、人の赦さないならば、私達は多くの代価を払わなければならないのである。


  その第一は、もし私達が人を赦さず、憎しみや怒り、うらみを持続するならば、

 私達の内側から、悪い酸のようなものが出て、

 自分の体の組織にさまざまな悪い影響を起こしはじめるのである。

 そして疲労や不眠に陥り、更にひどい時には病気を誘発するのである。

 どこも、とりたてて悪いところがないのに、いつも疲れる、なぜか眠れない、病弱である、

 という事の背後には、赦さないという内的問題が潜んでいる場合がよくある。


  次に、苦々しい思いや、怨みの思いというのは、人の心を頑なにし、冷たい心を形成していく。

 そして、その冷たい心は他者に向けられるばかりでなく、自分の家庭や、

 子供達にも悪影響を及ぼしてしまうのである。


  第三には、人を赦さない人は、父なる神の深い愛と赦しが信じられなくなってしまうのである。

 それ故、自分の罪責感をとり除くことができないので、自分で自分を有罪として断罪してしまうのである。

 人の罪を赦す事ができないというその事の故に、自分の罪をも赦さず罪責感に悩まされ、

 主に在る自由を得ることができないのである。


  かくのごとく人を赦さない事によって、私達はいかに多くの損失を自分の身に招き、

 代価を払っているかを見てきた。にもかかわらず、なぜ私達は、人を赦すことができないのであろうか。

 赦す事のできない最大の理由は何なのだろう。それはこうである。

 私達は不条理に我慢できないからである。「悪いのはあの人だ」と私達は思う。

 悪人は赦してはならないのである。ここで赦してしまったら、自分はいったい何なのか。

 自分は馬鹿をみるのではないか、損をするのではないかと思ってしまう。

 あの人はあんなにひどい事を私にしたのに、あの人は平気な顔をして、

 それに気付かず、否、気付いていても知らんふりをしている。

 そんな不条理が赦されてたまるか。あの人は罰せられるべきではないか。

 それが正義というものだ、と私達は思うのである。それ故、赦せないのである。

 不条理を赦すことは自分をバラバラにする事である。砕くことである。それは耐え難く痛いことである。

 しかし本当は、人を赦さない事で馬鹿をみるのは自分自身なのである。

 人を怨み、憎むことによって馬鹿をみるのは他ならぬ、この自分なのである。

 なぜなら私が自我を砕き赦すことを通して、私達の内側に神の赦しが実現し、

 神の恵みと祝福が注がれてくるからである。



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