人間にとって何よりも大切な必要は赦しであり、赦されることである。
それ故に神は、この世にイエス・キリストを送って下さったのである。
かくて、文豪トルストイもその代表的著作「復活」の終わり近くに書いている。
「常にすべての人を赦さなければならない。
何故なら自分自身まったく罪を持たぬ人間はいないのだし、
他人を罰したり矯正したりできる人間もいないからだ」。
この古典的名作に秘められたトルストイの主張は、
実に人間にとっての最大の必要は人を赦すことにあるということであり、
赦すことのみが人間をしてよみがえらせ、復活させていく力であるという聖書のメッセージなのである。
マタイによる福音書六章九節から一五節は、クリスチャンが日毎に祈る「主の祈り」の原型である。
主イエスはこの祈りの後に、「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、
あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。
もし人をゆるさないならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さらないであろう」と語られている。
主が「主の祈り」の後につけ加えて赦す事の大切さを言われた事は何を意味しているのか。
「主の祈り」と赦しは、どう関係づけられるのか。
多くの聖書注解者は、赦すという事こそが主の祈り全体についての解釈の鍵であり、
主の祈りは実に赦しという事を目ざし、赦すという事を目的としているのであると説明する。
かくて「主の祈り」の中心は「わたしたちに負債のあるものをゆるしたように、
わたしたちの負債をもおゆるし下さい」という箇所であり、
これが「主の祈り」の最も重要な中心部分を構成しているというわけである。
私達は普通この所を「われらに罪を犯すものを、われらがゆるすごとく、
われらの罪をもゆるしたまえ」と祈るのであるが、
ギリシャ語原文から見ると、この箇所は、新共同訳聖書の訳文の方が原文に忠実である。
そこには「わたしたちに罪を犯した者をゆるしましたから、
わたしたちの犯した罪をゆるして下さい」と訳されている。
ここで私達は、わたしたちに罪を犯した者をゆるしたからと告白する時ためらわないだろうか。
何故なら、私達が赦しを受けるためには先ず人を赦さなければならないという先行条件が、
ここにはあるかのように見えるからである。
私達の救われたのは、一方的な神の恩寵による。
にもかかわらず「主の祈り」においては、十字架の赦しが、他者を赦すという条件つきで
はじめて有効になるかのように見なされるのである。
この問いかけに対して、今世紀の優れた説教者アラン・レッドパスは適切にも語っている。
彼によると、ここで問題になっているのは神の子となった者、つまりクリスチャンの罪なのであって、
まだ神の子となっていない者の罪ではない。
つまり、主の十字架の赦しはすべての人の前に無条件で与えられているが、
その赦しをすでにいただいているにもかかわらず、もし私達が他者を赦さないならば、
せっかく受けた主の贖いによる赦しの恵みが、私達の内に無効になってしまうことになるというのである。
逆に他者を赦していくならば、主の赦しの恵みが更に豊かに私達の内に働いて、
私達自身の罪を一つ一つ消し去り、自由にされるというのである。
そして更に、私達が赦していく時、私達の祈る祈りは主の御手によって受け入れられ、
神の祝福にどんどん与かるようになるというのがこの箇所の意味である、とレッドパスは解釈するのである
(アラン・レッドパス「勝利の祈り」参照)。
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