■手束正昭著「命の宗教の回復」より
           (キリスト新聞社刊)

カリスマによるいやしと解放
病める者いやされ − いやしを体験する為の諸条件 (4/5頁)
  
    それでは、いかにしたら、いやす者となり得るのであろうか。このところで
    与えられている聖書の御言葉は、そのことを私達に教えている。

     その第一は、いやしこそ神の御旨であるとはっきり認識することである。
    重い皮膚病の病人が主イエスの所へ願いに来て言った。「みこころでした
    らきよめていただけるのですが」(40節)。主イエスは「そうしてあげよう、
    きよくなれ」(41節)。新改訳聖書によると「わたしの心だ、きよくなれ」と
    訳されているのであるが、この方が適訳である。
    ドイツの神学者、エドワード・シュヴァイツアーは、この箇所を更に強調して
    「わたしの意志だ、きよくなれ」と訳している。いやされるということは神の
    意志であり、キリストの意志である、というのである。キリストはこのために
    来られ、そしてこのために死なれたのである。すなわち、イエス・キリストの
    十字架は私達を罪から贖い、呪いから贖い、悪魔に勝利するものであると
    共に、私達を病からいやし、解放するためのものなのである。「その打たれ
    た傷によってわれわれはいやされたのだ」(イザヤ53・5)とイザヤは語った。
    いやしこそ神の御旨であり、キリストの御意(みこころ)であることをしっかり
    と認識することが、まず第一に重要なことである。御意か、御意でないか、
    御意だったらいやされ、御意でなかったらいやされない、そのようなことでは
    ない。どんな病もいやされることが神の御意だという前提にまず立たなけれ
    ばならないのである。

     そして、いやされることが神の御意であるという信仰に堅く立ったならば、
    次に必要なことは大胆に手を置いて祈ることである。「イエスは手を伸ばし
    て彼にさわった」(41節)。すなわち手を置いた、按手したということである。
    なぜ手を置くのであろうか。それは、手というものが神のいやしの力を注ぎ
    込む媒体になるからである。「手当て」という言葉の語源は、まさにこの意味
    である。古代の人達がその病をいやす時に、自分の手を当てていやしていっ
    たというところから生み出されたのであろう。手を当てるのは、その手の平を
    通して、いやしの力が流れ込んでくるからである。手の平というのは、頭と
    同様に私達人間の霊の座なのである。頭の上と手の平のうちには特別な
    霊の座が与えられており、この所から強力な霊的働きというものが伝播さ
    れてくると考えられる。それ故に手の平というのは、いやしの力を解放する
    媒体となり、仲介となる役割を果たすことができるのである。従って私達は
    病んでいる人の、その病める部分に手を置いて祈ることが大切である。

     しかし、そのためにはまず祈る側自らが信仰に満たされ、聖霊に満たさ
    れていなければならない。信仰と聖霊に満たされている時に、その手の平
    を通して私達の肉体の内に強くほとばしっているいやしの霊が注ぎ込まれ
    ていくのである。いやしの素晴らしい力がそこから注ぎ込まれていくのである。
    もし、祈る私達の方が信仰に満たされず、聖霊に満たされていないならば、
    気を付けなければならない。何故ならば、そういう時に不用意に手を置いた
    ならば、相手の側の病の霊がその手を通して私達の方に入ってくることに
    なるからである。確かに私自身の体験からもそのことは真実である。病の
    人のために手を置いて祈り始めると、その置いた手が痛み出すことが時々
    ある。それは、その人の持っている病の霊がその置いた手を通して私の方
    に入ってこようとして、そこで霊的な戦いが起こっているというしるしなので
    ある。それ故に、むやみに手を置いてはならない。不用意に手を置いては
    ならない(Tテモテ1・6)。しかし信仰に溢れ、聖霊に満たされている時には、
    私達は手を置いて大胆に祈っていかなければならない。その時にこそ素晴
    らしい、いやしの業が起こされて、神様の栄光を現わすことができるのである。

     三番目に大切なことは、神の応答、神よりの確信を受け取るということで
    ある。以前、私の所にある教会の婦人から電話がかかってきた。「先生、主
    人がくも膜下出血で倒れました。もう死にそうです。すぐ来て下さい。意識が
    なく危険な状態です」と泣きながら呼びかけてきたのである。私は急いで車
    を手配し、病院に向かった。道中、異言で激しく祈っていったのであるが、
    祈っていくうちに熱いものが私の内側から湧き出てきて体中を行き巡ってい
    くのを覚えた。そしてひとつの言葉が私の内に語りかけてきた。「この病気
    は死ぬほどのものではない」(ヨハネ11・4)と。その時に、「ああいやされる
    のだ。いやされるのだ」、と強い確信が与えられたのであった。

     病院に着いて、その方のために按手して祈ったのであるが、果たせるか
    な、その翌日からその方は快方に向かっていった。このように神の応答を
    受け取ることが必要なのである。按手して祈った時に、あるいはそれ以前
    にいやされるという思いが与えられたならば、それは確信となって、即刻、
    あるいは時を経て、確実にいやされていくのである。このように、神の応答
    がポイントである。応答がないならば、いやしを宣言することはできない。

     ではどうすれば神の応答をいただくことができるのか。どうすれば確信を
    いただくことができるのか。その秘訣は祈りにある。すなわち、日々祈りの
    生活をしていることが大切なのである。「朝はやく、夜の明けるよほど前に、
    イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」(36節)。
    主イエス御自身、早天の祈りを大切にされたのである。それは、早天の祈
    りの絶大なる力を物語っている。他のいかなる時に祈る祈りにも優って、
    早天の祈りは神の力を解放するものなのである。朝の早い時間を主に捧げ
    て祈っていく時に、私達自身も霊的な力に満たされた生活を持続していくこ
    とができる。そして、神との強い関係がいつも保たれ、神からの応答をいた
    だいていくという霊的感受性を持つことができるのである。

                    4/5頁