次に、いやしを受ける側についてはどうであろうか。いやす側の条件は整って
いても、いやされる側の条件が整っていなければ、神のいやしの力を妨げられ
るのである。それ故に、いやされる側の条件、姿勢というものも同様に大切な
ものである。
何よりも必要なことは、いやしへの熱望ということである。いやされたいという
切なる願いを持っているということである。いやされてもいやされなくてもどちら
でも良い、いやされるなら、いやして下さいというようないい加減な気持ちならば、
いやしは中々起こらない。四〇節のところに重い皮膚病の病人がいやされた
記事がある。当時の重い皮膚病の病人は、ゲヘナという谷で全く隔離されて
生活しなければならず、公の場へ行くことを禁じられていたのであるが、しかし
その禁を破ってでも、何としてもいやされたいと、この重い皮膚病の病人は願
ったのであった。この熱意が重要である。この点について「ツロ・フェニキヤの
女」(マタイ15・21−28)の姿は私達の模範である。拒絶されつつも尚、必死
にすがってくる姿勢は、ついに主イエスの心を動かし、彼女の願い通り、娘の
不治の病はいやされていったのである。
二番目に罪を悔い改め、主の血潮を受けるということである。私達の内の罪、
罪責感というものがあると、神の働きを妨げることになる。人間は皆罪人である。
人間である以上、罪がなくなるということは有り得ず、罪を犯さないということも
有り得ない。しかし私達は主の十字架の血潮によって、その罪のすべてを潔め
ていただくことができるのである。ことごとく洗い潔めていただいて、主の前に
出るということが大切なことなのである。
私自身、以前、腸の潰瘍に悩まされていた。カリスマ刷新の是否を巡って、
教会内に紛争が起こり、色々な攻撃が加えられ、神経性腸潰瘍となったの
である。役員会に臨むと腸がキリキリと痛み苦しんだ。その苦痛の中で、私
はいやしの祈りをしたのであったが、熱心に祈り求めたにもかかわらずいや
されない。「なぜか」と私は問い続けた。ある時、私の心の内に一つの悔い
改めが示された。それは、私に攻撃を加える人々、また問題を提起してくる
人々に対する怒りや憎しみが、私自身の中にあるということであった。特に
人を憎み赦さないところには、神の働きも十分には起こされ得ない。そのこ
とを示され、主の前にこの罪、悪しき思いを悔い改め祈っていったのである。
そうする中で、私の腸の潰瘍は完全にいやされていったのであった。このよ
うに、主の前に自分自身の罪を悔い改める、それが、いやしの霊が働かれ
る大切な条件である。
三番目の条件として、創造の信仰を持つということである。救いの信仰、
それは主イエスの十字架を信じて救われることである。しかし、創造の
信仰というのは、奇蹟を認め、求める信仰である。まだ持っていないもの
を心に描いて、口で告白してそれが成ると信じる、そのような信仰である。
ヘブル書の「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実
を確認することである」(11章1節)という信仰、この創造の信仰が大切
なのである。私達はいやしを受ける時、自分が元気になっているその姿
を思い浮かべなければならない。思い浮かべ、しっかりと心に描いて祈っ
ていただくのである。そうするならば、その祈りの力は激しく働き、そして
いやしの力は素晴らしく注ぎ込まれていくのである。
いやす側、いやされる側についての条件、姿勢というものについて述べ
てきたが、さて、次にいやされた後私達はどうすればよいのであろうか。
二度と再発しないために、またいやしが持続されるために、私達が気を付
けなければならないことはどんなことなのであろうか。
主イエスは「自分の体を祭司に見せなさい」と言われた。すなわち、本当
にいやされているか否かを医者の所へ行って確かめよということである。
前述の喉のポリープがいやされた石神兄も、修養会を終えて帰られる時、
帰ったらすぐに病院の診療を受けるようにと勧めた。「これで治っていたら
すごいねー」と言いながら帰り、翌朝一番に受診したのであったが、医者が
首をかしげ、「いったいあなたは何かしたのですか。もうすっかりあなたはい
やされています。通院もお薬も必要ありません」と言ったという。ハレルヤ!
このように医者の所へ行って確かめることが必要である。
そして二番目、感謝の捧げ物をすることである。「モーセが命じた物をあな
たのきよめのためにささげなさい」(44節)と主イエスは勧めている。いやさ
れたならば主に栄光を帰すために、私達は捧げ物をしなければならないの
である。主の前に心から喜んで献げることによって、主がなして下さったい
やしの業に感謝を表明し、すべての栄光を主に帰していくのである。
三番目。その後の信仰生活において、従順であらねばならない。病や悪霊
は油断するとすぐに舞い戻って来るばかりでなく、往々にして前よりももっと
悪い状態になってしまう場合がある。これは決して脅しではなく真実である。
私自身、実際にいくつもの例を見てきた。それ故に、私達は油断せず、その後
も信仰生活をきちんと守り続け、いやされたその体を主のために用いていくと
いう謙遜な姿勢が大切である。主に対する忠実さ、従順さを一層保持すること
が大切なのである。そして、いやしを受けた者達は、今度は他の人々のために
いやしの祈りをすることを通して、主の素晴らしい御業を人々の前で証しをして
いきたいものである。
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