■手束正昭著「命の宗教の回復」より
           (キリスト新聞社刊)

カリスマによるいやしと解放
病める者いやされ − いやしを体験する為の諸条件 (3/5頁)
     
     ではなぜ、主イエスはこんなにも、いやしのためにその力を注がれたので
    あろうか。第一の理由は、神の慈しみの本質を示すためである。主は慈しみ
    深い方、愛の方である。子供を愛する親が、病で苦しでいる子供を見て、治ら
    なくても良いと放っておくであろうか。子供を愛するが故に、この病がいやされ
    てほしい、元気になって欲しいと切に願って当然である。


     
 主イエスもまさにその通り、私達を子供のように愛し、憐れみ、心を注いで
    病をいやして下さるのである。このように、いやすという具体的な手段を通して、
    主なる神は慈しみ深く、愛なるお方であることを私達に示されているのである。
    当時のユダヤ人達は、神様に対して恐ろしい方というイメージを持っていた。
    これは律法主義の結果生じたことであるが、それを打破し、転換して、神は
    愛の方、慈しみ深い方、恵みの方であることを具体的に告げ知らせるために、
    主イエスはいやしの業を行なっていかれたのである。

     カトリックのカリスマ運動の指導者として有名なフランシス・マクナット神父は
    次のように語っている。「病気を神の御旨ととらえる考え方から、健康といやし
    こそ神の意志ととらえる考え方に転換することは、しばしば神に対する我々の
    態度を劇的に変化させる」。すなわち神は、峻厳な審きの神ではなくて、愛と
    慈しみの神であるということを、いやすという現実を通して私達は体験していく
    というのである。


   
 主イエスがいやしの力を注がれる第二番目の理由は、自分がメシヤであると
    いうことを示す為である。バプテスマのヨハネは牢の中からその弟子を遣わし
    て、主イエスに「あなたは私達の待っていた方ですか。あなたは救い主なので
    すか。待っていたキリストなのですか」と問わせた。それに対して、主イエスは
    直接には答えずこう語った。「盲人は見え、足なえは歩き、重い皮膚病にかか
    った人はきよまり、耳の聞こえない人は聞き、死人は生きかえり、貧しい人々
    は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者はさいわいである」
    (ルカ7・22〜23)。
 
     メシアであるというその証拠は、いやしが起こっているということによって分
    かるはずだというのである。なぜなら神の国というのは、いやしが満ちている
    国のことだからである。ティリッヒもまた、次のごとく喝破してやまない。「もち
    ろん、イエス像からこの"いやし"の能力が消失したことについては、福音書
    に責任があるわけではありません。福音書はいやしの物語に満ちています。
    責任は私たち、すなわち『救い主』とは『いやし主』を意味するのだということ
    を忘れた牧師や平信徒や神学者たちにあるのです。救い主とは、肉体的に
    精神的に破綻をきたし、異常になっている者を健全にし、正常にする人をいう
    のです」(説教集「新しき存在」)。初代の教会には洗礼式、聖餐式の他に、
    いやしの儀式もあったと言われている。しかし今日、いやしの儀式は教会の
    中では行なわれなくなった。そこに今日の教会の問題があると思われる。
    今日、多くの人々が病んだままでいる。それが、本来あるべき姿が失われ
    ている現状である。教会は「いやし」を回復しなくてはならない。それはもち
    ろん、肉体的いやしにとどまるものではない。精神的にも霊的にも、全体と
    しての人間がいやされていかなければならないのである。

     私達クリスチャンは、主の十字架のその贖いの御力の故に、また聖霊の
    力の故に、人々をいやすことができるのである。主イエスは自らがいやし主
    であっただけではなくて、私達にも、いやすことを求めておられる。いやしを
    認めるだけでなく、私達は自分自身もいやす者となり、そのことを通して神の
    愛と憐れみというものを目の前に具体的に人々に示していきたい。同時に
    主イエスが確かにメシヤであることを現実に証していきたいと思う。

     
               3/5頁