■手束正昭著「命の宗教の回復」より
           (キリスト新聞社刊)

カリスマによるいやしと解放
病める者いやされ − いやしを体験する為の諸条件 (2/5頁)

   
  一九九〇年六月、第一回目の「『キリスト教の第三の波』著者を囲む会」なる
    ものが、東京早稲田奉仕園において開催された。その会の主催者の一人であ
    る長野県岡谷市の石神勇兄が私共の教会の夏の修養会にも参加された。その
    時に、この兄弟の上に素晴らしい、いやしの業が起こされたのである。石神兄は
    八十三歳を過ぎた高齢の方である。修養会に参加しようと決心し、準備を進めて
    いる時、喉が痛み出し、声を出すことができなくなってしまった。早速病院に行き
    診察を受けた結果、喉の奥にポリープができていることが分かり、声帯の使用を
    禁止され、また毎日通院して吸入器にかかるようにとの指示を受けた。しかし修
    養会の日は迫り、参加したい思いは募り、一大決心の末に参加したのであった。

    
少々の悪化は覚悟の上、無言の行の禁も破ることとし、悪化しても帰ってから
    改めて治療すれば良いと、全てを神に委ねて参加したのである。修養会二日
    目にこの兄弟のいやしのために祈ったところ、見事にいやされたのである。
    悪化してもおかしくない状態であったにもかかわらず、ポリープは跡形もなく
    消えてしまった。

    
主のいやしを初めて自分の肉体をもって体験したこの兄弟は大変に喜んで、
    自分が発行しているアシュラムの機関紙にこのことを詳しく書いて同信の人々
    に送った。すると意外なことに、反発の声が返ってきたというのである。祈りに
    よっていやされるというようなことは言うべきではない。それは危険だ。問題だ。
    いやしを信じないどころか、いやしを口にすることさえキリスト教として邪道で
    ある、というのである。これが今日のキリスト教界の大変に悲しい憂うべき
    現実である。今もなお主が生きて働かれて、いやしの業を起こされるという
    事実を受け入れようとはしない。聖霊を崇め、聖霊を重んじると言いながらも、
    救いを霊的、精神的な事柄にのみ限定してしまう多くの教会がある。残念と
    しか言いようがない。主は今もなお生きておられ、働いておられ、いやしの
    業をなされていくのは事実であるのに。

    
病気ということに関して誤った信仰理解の第二は、病気は祝福の事柄で
    あると捕らえることである。カリスマ刷新運動の端緒を開いたと言われる
    デニス・ベネット司祭の所に、ある一人の婦人がやってきた。その婦人は
    難病をもち、医者から見離されていた。婦人は言った。「先生、私は悟りま
    した。病気というものは神様から来るのです。神様がこの病気を与えられ
    たのです。ですから私はこの病気を喜んで受け入れようと思います」。そこ
    でデニス・ベネット司祭は婦人に言った。「あなたは、今ここにイエス様が
    おいでになられたとしたら、あなたの病を見てどういう風にされると思いま
    すか」。少し詰まってから婦人は答えた。「はい、きっと私の病をいやして
    下さると思います」。司祭は言った。「そうです。あなたの病をいやすのは主
    のみこころです。ですから、今私はあなたの病のいやしのために祈ります。
    あなたも信仰をもって、祈りに唱和して下さい」。そして、その婦人の病は
    いやされていったのである (デニス・ベネット「聖霊とあなた」参照)。

     よく、ある人々が反論して挙げるのは、パウロは自分の病がいやされる
    ために三度祈ったけれどもいやされなかったという聖書の記述についてで
    ある(Uコリント12・7〜10)。パウロの病とは、てんかんであったとも、激
    しい眼病であったとも言われているのであるが、主なる神は「わたしの恵み
    はあなたに対して十分である」とパウロに語った。かくて、そのことが引き
    あいに出され、病というものは祝福の事柄なのだと強調される場合が多く
    ある。しかしこれは正しくない。これは例外的な事柄なのである。

     確かに肉体的病というものを持ち続けることを通して、神様の栄光を現わ
    すという場合があることはある。しかしこれは特異な事柄である。例外的
    特異な事柄を一般化してはならない。むしろ聖書を公平に見ていくならば、
    主イエスはその公生涯の三分の二を病をいやすという業に用いられていった。
    いやしを実行されなかった病というものは何ひとつなく、すべて直接的にい
    やされていったのである。使徒達についても同じことが言える。従って、病
    がいやされることこそ神様の意志であり、祝福の事柄なのである。病の中
    にいることが祝福の事柄なのではない。主なる神は私達の病がいやされ
    健康になることを願っておられるのであって、私達が病気になって苦しむこ
    とを願っておられるのではない。このことを決して間違ってはいけない。

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