■手束正昭著「命の宗教の回復」より
           (キリスト新聞社刊)

カリスマによるいやしと解放
病める者いやされ − いやしを体験する為の諸条件 (1/5頁)

      朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、
     そこで祈っておられた。すると、シモンとその仲間とが、あとを追ってきた。
     そしてイエスを見つけて、「みんなが、あなたを捜しています」と言った。
     イエスは彼らに言われた、「ほかの、附近の町々にみんなで行って、そこ
     でも教を宣べ伝えよう。わたしはこのために出てきたのだから」。そして、
     ガリラヤ全地を巡りあるいて、諸会堂で教えを宣べ伝え、また悪霊を追い 
     出された。

      ひとりの重い皮膚病にかかった人が、イエスのところに願いにきて、ひざ
     まずいて言った、「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。イエス
     は深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」
     と言われた。すると、重い皮膚病が直ちに去って、その人はきよくなった。
     イエスは彼をきびしく戒めて、すぐにそこを去らせ、こう言い聞かせられた、
     「何も人に話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司
     に見せ、それから、モーセが命じた物をあなたのきよめのためにささげて、
     人々に証明しなさい」。しかし、彼は出て行って、自分の身に起ったことを
     盛んに語り、また言いひろめはじめたので、イエスはもはや表立っては町に、
     はいることができなくなり、外の寂しにとどまっておられた。しかし、人々は
     方々から、イエスのところにぞくぞくと集まってきた。
                           (マルコによる福音書1:35−45)

 
    土曜日の晩になると、教会にはよく電話がかかってくる。子供が病気にかかり、
    礼拝に出席ができないと言う。自分の体調がすぐれず、礼拝の奉仕の務めを果
    たすことができない、などとも言う。これは悪魔の妨害である。悪魔がその教会
    の働き、務め、奉仕という業を妨げてくるのである。特に土曜日の晩などには、
    礼拝を妨げようとする悪魔の働きが強く、普段余り病気にかからない子供などが
    急に熱を出すなどというように、足を引っぱることが多い。私達はこのことをしっ
    かりと認識し、イエス・キリストの名によって、この悪魔、悪霊、病の霊を追い出さ
    なくてはならない。そこで私は、聖書のマルコによる福音書の御言葉を示し、助言
    を与えるのを常としている。すなわち、「信じる者には、このようなしるしが伴う。
    すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむ
    であろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやさ
    れる」(16・17〜1 8)。この御言葉のごとくに手を置いて祈ることを勧めるので
    ある。そうすると、果たせるかな、その翌朝、ほとんどの方は元気な顔を見せる。
    子供に手を置いて祈ったら、朝になるといやされていたとか、自分自身の体調も
    すっかり良くなったとか、嬉しい報告を聞くのである。
 
     今日、教会において、病気ということに関して誤った信仰理解というものがある。
    その一つは、信仰と祈りによって病を治そうとするのは邪道であるという考え方
    である。病は医者や薬の力によって治すものであって、今日では信仰によって、
    または祈りによって、病がいやされるということは有り得ない。それは科学ある
    いは医学というものが発達していなかった昔の時代に行なわれた呪術的事柄で
    あって、時代遅れ、時代錯誤であると、ある人々は言う。
 
     確かに医師の働き、薬の働きというものも大切なものである。このことを決して
    軽視したり、無視するということがあってはならない。しかし聖書で見る通り、神が
    直接的に働きかけていやすということも事実である。言うならば、医師や薬による
    いやしは神の間接的ないやしであり、信仰、祈りによるいやしは神のなされるい
    やしなのである。もっと言うならば、医学や薬学というものは神の直接的ないやし
    の働きを補うというのがその基本的な務めなのであって、病をいやすのは根源的
    に神なのである。このことが理解されていないために、医学や薬学というものが
    傲りに陥り、人間をいやすどころか、逆に破滅させていくということもしばしば起こ
    るのである。
 
     聖書は霊的な救いのみを説いているのではない。同時に肉体的な救いをも説い
    ている。すなわち、全体的トータルに人間の救いを完成していくのである。教会で
    教えるのは霊的な救いなのであって、肉体的な救いについては関係ない、それは
    医者や看護師の仕事である、と言うならば、それは間違いである。人間がトータル
    に神に在って恵みを受ける、祝福を受けるということが聖書の説くところであり、
    神のみこころなのである。
 
     最近、心身医学という言葉を時々耳にする。これは、病気というものはその根本
    において、人間の持っている精神、特に無意識というものと密接にかかわっている
    という主張であり、今日の医学も、私達の深い無意識(霊)の部分が肉体的な病と
    深くかかわり、その無意識(霊)の部分に対する治療ということが、肉体的ないやし
    にとっても必要であるということを認め、取り入れるようになったというのである。

                    1/5頁