東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)
江戸時代寛政年間、羽州土崎の秋田孝季、その親類で奥州東日流の和田長三郎の両名が、津軽家により抹殺された津軽の「真の歴史」を後世に伝えようと諸国を廻り調べた古文献や伝説。

古老の覚え語り等を収録したもので、両家に伝えられてきたものである。
昭和46年市浦村村史編纂事業発足の際、長三郎の子孫、五所川原市飯詰和田喜八郎が資料の提供を申し出て世に知られるようになった。

約300巻より成り、そのぅち約3分の1が、『市浦村史資料編上巻』として公表されている。

『東日流外三郡誌』によると、津軽の歴史は古く、遠くは中国の三皇の時代にさかのぼり、
山海の幸を採集する阿曽部(あおべ)族が居住していたが、伏義の時代になると、
中国から農狩漁を求めて漂着・渡来して釆た民族があり、海岸近くに住み津保化(つぼけ)族と呼ばれた。

二つの民族はそれぞれ山間部、海岸部に棲み、時に争い、時に交わっていたが、
ある時山間部に大地震があり、阿曽部族はほとんど滅んでしまい、残った人々も、津保化族に制せられてしまう。

中国で五帝の時代に入った頃、津軽地方は天変地異が度重なり、多くの人々が列島を西南に移動し、
また九州地方にほ南方系の民族が移ってきたりして、各地に小国ができた。

中国での殷の時代頃には、日本列島は奥州に津保化族、関東に宇津味族、北陸に長三毛族、中部に津弥奈族、近畿に津止三毛族、奈津三毛野族、中国地方に賀止利族、宇津奴族、亜羅三毛族、北九州には猿田族、南九州に日向族が小国家を作り分立する。
東周時代になると、南九州の日向族が勢いをまし猿田族を滅ぼし九州・半島地帯に進出する一方、近畿では津止三毛族が一帯を統一しはじめ、中国戦国時代末頃には、ナガスネヒコと安日彦の兄弟が耶馬台五畿七道を統一する。

九州の日向族が神日本磐余彦に率いられ、耶馬台に攻めのばったのが、いわゆる神武東征で、
ナガスネヒコ・安日彦の耶馬台族は敗れ、東北津軽の地に移動、先住の津保化族と混血し、
荒吐族となり奥州を統一、五王制と称する古代共産主義的な政治を敷く。
ナガスネヒコの子孫は安倍氏となり、大和政権に対しては、奈良・平安時代に到るまで砥抗するが、前九年・後三年の役で敗北する。
本書の編纂者、秋田孝季ほ安倍氏を祖とする安東氏の後胤だという。

古代津軽の各種族は、縄結法・石置法・象形等を淵源とする数種類の、独得の古代文字をもっていた。

また、遮光器土偶は、荒吐族の崇拝した「荒吐神」の神像だという。

荒吐神は、日神・月神の陰陽二柱になっている。
天地万物はこの二柱により造られ、祖天神七代(計十四柱)の神々を配下におく。

荒吐神は世の正邪を天坪にかけて、すべてを審す神でもあり、人間は荒吐神の審判により輪廻転生するというのが、荒吐族の宗教観であった。
HP作成者一言
「宮下文書」とこの「津軽外三群誌」はスーパー叙事詩のようで、偽書と呼ばれものの中で、好きな書です。