トップページ   わがまち紹介   ふるさと宿南広報   草庵先生紹介  フェイスブック 
  ふるさと自立計画 アクセス   リンク集   宿南地区自治協議会とは 移住定住とりくみ
そうあんくん
 青山地区 宿南地区イラストマップ  川東地区 
 三谷地区  川西地区
 寄宮地区  門前地区 
 町 地 区  宿 南 城
兵庫県地図
 
〒667-0003 兵庫県養父市八鹿町宿南1187-1
TEL&FAX 079-662-3400  
       
     
 寄宮地区
寄宮のお宮さん(正一位寄宮大明神)について
寄宮神社

木村久米治郎の石碑
寄宮のお宮さん(正一位寄宮大明神)について

寄宮神社ができたのは (寛永元年=1625に由緒及記載とある)
むかしから産土神(うぶすなかみ)として、 寄宮と町の人々が敬い親しんできた。 言い伝えでは、むかし洪水の時、寄宮坂下の川の中に浮かび出た馬の背状 の岩の上に、 社殿が流れ寄っているのを里人が見つけた。 もったいなく思い 人々はその上の森にお社をつくり、うやうやしくおまつりした。それがいつ しか寄宮明神とよばれるようになり、字名も寄宮と名づけられた。

社殿の改築 宝永元年(1704)8月には社を改築し、現在の姿となった。
田中神社も同じ年9月に移転して完成した。(高月前→宮の本→現在地)

正一位の神位を受け、境内の整備も進む
寛政10年(1798)2月22日 『正一位寄宮大明神』の許状が交付される。
寛政元年(1789) 社殿に石灯籠一対を寄進 (町 山下茂右衛門)
同年 本殿前の石段を寄進 (町・寄宮若連中)
享和年中(1801〜1803) 石鳥居を寄進 (町若連中)
文化6年(1809) 鳥居外の石段を寄進 (寄宮若中)
文化9年(1812) こもり堂横の石段を寄進 (寄宮村)
同年 鳥居内石段を寄進 (町老)
同年 鳥居外石段を寄進 (町若中)
文化10年(1813) 水鉢を寄進 (寄宮若連中)
文政6年(1823) 『正一位寄宮大明神』の篇額を鳥居に掲げる
(後に豊岡藩の京極殿様より申し入れがあり、 篇額を本殿正面上に移転する) 明治28年(1895)10月24日上棟 本殿修繕、 こもり堂新築(町寄宮の世話した人の名が棟札に記してある) 大正10年(1916) 鳥居を再建 (町中)
明治以降の寄進 出雲石丸柱灯籠(本井市左衛門)、 温石大灯籠(明治9年)、 丸柱灯籠 (明治18年)、 出雲石唐獅子(藤本惣治郎 明治36年)、 出雲石角柱灯籠(山下理一 昭和3年)


相撲の番付表と木村久米治郎石碑のこと
本殿のひさしを見上げると相撲の番付表板がかけてある。 明治の中頃、 町 に伝七さんという相撲愛好者がいて、 相撲の勧進元をするようになった。 但 馬はもとより丹後、播磨の方面まで回って相撲取りを集めて来て10月17日の 秋祭りの当日 盛大な相撲が行われた。 これは、 その時の番付表である。
また 山下粂次郎さん(山下久光氏曾祖父)という行司の上手な人がいて、行 司衣裳を身につけ鮮やかな行司ぶりで、 寄宮神社の相撲は広く評判になった。 相当大物力士も来たという。 それが東京の木村家に知れ、 木村家より軍配を 与えられた。 それが宮総代の代々に伝えられて、 今も秋祭りに使われている。 堤防の上にたつ軍配型の石碑は、 その当時の力士有志が残したものである。

氏子の大部分は町に住んでいた
寄宮の家は、 昔は殆どが町にあった。 町の田圃の中にある地蔵堂の辺りに 住んでいた(『土居の内』と接して北側に『町』があった)。 鎌倉時代から武士の 『館』があっ たと伝えられている (『土居の内』の西側に『庄』があった)。
江戸時代の初期の宿南全体の戸数は138戸。人口は695人だった。こ の中の40〜50戸が町に住んでいた。ところが、度々洪水にあった。寛延
2年(1749)には、8軒も流されたという。それで現在地に少しずつ移転して行 った。 明治11年ごろには5軒程になり、 最後の1軒も大正のころには移転 した。
※参考文献 『 寄宮神社誌』 昭和55年8月15日発行 (寄宮神社氏子中共著) 及び 寄宮神社関係の 『古文書』 のコピー資料多数
寄宮のみろくさん(弥勒大菩薩)について

弥勒さん

寄進者 (基壇横 右側に書いてある)
村中 伝四郎 庄五郎 六兵衛 清兵衛 嘉左衛門 勘兵衛



仏像背書き   宗恩十三世 定覚  納喜捨  
    石工 但州養父郡大屋谷由良住 元三郎


 時あたかも安政二年、世情混沌として民衆は飢饉に苦しみ時の幕府は安政の改革と称して、後に江戸城桜田門外で水戸の浪士に暗殺される大老井伊直弼を先頭にして大改革を進めていたのですが、その事の善し悪しは別として、民衆の暮らしは良くなりません、この但馬においても例外では無く加えて疫病が蔓延し民百姓は日々おびえて暮らしておりました。
 そこで此の寄宮区の先人達が立ち上がり語り合って浄財を集め下小田郷境の寄宮峠に此の弥勒堂を建立したものでその後二度の変遷を経て現在の区の中心に安置されたものであると先人から聞き伝えられており毎年七月十七日を過ぎない日曜日を大祭の日と定めてお祭りしております。
尚 この弥勒菩薩像は台座を含めて高さ二メートル二十センチ 幅九十センチの立派な温石石彫りでその柔和なお顔にはこれを彫られた方のお心がにじみ出ています。今年も七月十七日夕方には納涼兼ねて是非お参り下さい
御利益  当日は小豆飯のおにぎりが接待されますがこれを頂きますと中風封じ、まむしにも咬まれないという御利益があると言われています、皆様のお参りをお待ちしています

お祭りの日には、 みんなで夕方から「般若心経」と「御詠歌」を読経する。無病息災、 家内安全の祈願をするお祭りである。以前には、村人が入院したり大病をする と、病気の早期治癒や手術が無事に成功するようにと婦人会で「般若心経百巻」 の読経によって早期治癒祈願をしてきました。

弥勒さんが汗をかきます
弥勒大菩薩は、蛇紋岩でできています。だから黒っぽいみどり色をしている。 梅雨どきなどの湿度が高く蒸し暑い日には、夏冷蔵庫から出したビール瓶の ように水滴がつく。(つまり汗をかく)
高さは、像長90cm,蓮台42cm,台座47cm,基壇41cm, 全体で220cmある。
基壇下の台石の周りに経を一字ずつ書いた(一石一字経)丸く薄い小石1万余個が埋まる。

寄宮井堰 について
寄宮井堰


あゆ

宿南区平場の約三十五町歩の水田を潤す「寄宮井堰」について紹介したいと思います。

 昔から目の前に円山川の清流を見ながらその水害だけを受け、米作りに必要な水はその殆どを三谷川、青山川に頼りその他に裏山からの水源は少しの日照りでも水がかれてしまい水喧嘩は日常茶飯事でした。
 今にも残る語りぐさに「田圃の水を見に行くのに提灯をつけていくバカが居るか」なぜかおわかりでしょう「提灯には屋号が書いてあります」誰が水泥棒をしたかがすぐに分かるからです。水喧嘩はその一家が一年間食べていくことが出来るか出来ないかの瀬戸際です。ときには血の雨さえ降ることもありました、とても今では考えられないような時代でした。見かねた時の長老達が語り合い円山川から水を引いてはどうかと話がまとまり、「寄宮井堰」の大工事が出来上がりました。

 今から約300年前の「享保5年」のことです。今ではそれに関連した資料も書類も残ってはいないと思いますがその時の申し合わせで川原畑が水田になるときが来たらいつ水田にしてもよろしい、又、「日照りで畑に水が欲しいときは何時使ってもよろしい」との申し合わせがこの時に出来たそうです。その代わりに「半井(はんゆ)」と言いまして畑農地には半分の農地割が掛かるようにこの時からなったそうです。

その後何十回かの水害の度に痛んだ「寄宮井堰」を村中総出で補修しながら維持してきたのですが「伊勢湾台風」を最後にポンプアップとなり、約300年の「寄宮井堰」はその役目を終えました。「寄宮井堰」補修の度に村中総出で「石場突き」をしたり高い「櫓」を組んで「杭打ち」をしたり休憩時間には世間話をしたり、時には「どこそこの若い衆が戦死をしなったそうな可哀想になぁー」そう言えば煙草もそこでおぼえたな。
川船のこぎ方や大杭の削り方、色々なことを教えてくれた「寄宮井堰」先輩方、今はその殆どの方々はもういない。春はハヤの毛針釣り、夏は鮎の火振り漁、それらの姿さえ見ることが少なくなった。見るのは「川鵜」と「ブラックバス」ばかり「寄宮井堰」の流れにズボンをまくり上げご飯のおひつ(竹ひつ)を(びく)代わりに毛針つりを楽しんだのも今は昔か。父が教えそして言い伝えた「故事来歴」それぞれに意味がある。
       
       RETURN to TOP ●