「たたら」の歴史と日本刀

ここでは大まかな「たたら」製鉄の変遷と、その時代の刀の地鉄について、簡単に説明いたします。

古墳時代

日本がまだ邪馬台国であった頃、鉄の多くは朝鮮半島から輸入されていました。鉄は現在では考えられないほど貴重品だったわけです。それで鉄の生産方法が伝えられると。各地の豪族は鉄の生産に乗り出しました。鉄は農地を広げるのに必要であり、武器を作るのに欠かせない当時の最先端技術でした。北九州、出雲、吉備、などはいずれも鉄の産地として有名です。これら地方豪族は鉄を作ることによって、農地を広げ武装を近代化し勢力を広げたと考えられます。スサノヲの命のオロチ退治の伝説などは、大和政権が出雲の製鉄を行っている部族を吸収したことが神話になったのではないかと、容易に想像できます。当時の「たたら」は川や谷筋に面した斜面に作られ、鞴(ふいご=送風装置)を用いず地形による強い風を利用して、空気を炉の中に導いたと考えられています。しかしこの様な「たたら」でどの程度の鉄が出来たかは良く判りません。おそらく「のろ」(鉄を作るときに出来る不純物)を多く含む鉄の塊や、海綿鉄状態の鉄が作られたのではないかと思われます。それらは二次精錬され製品に加工されたことでしょう。しかしこの頃の時代を正確に特定出来る製鉄遺跡は未だに発見されておらず、これらの話しも想像の域を脱し切れません。

飛鳥時代から天平時代

現在、日本で時代の特定ができるもっとも古い製鉄遺跡は、6世紀後半の大和朝廷が力を持った頃からのものです。それらは官営と思われる製鉄基地で、全国に作られました。その当時の「たたら」炉には直径1メートル位の円筒状の縦型炉と、巾1〜1.5メートル長さ2〜4メートル位の箱型炉が有り、近世の「たたら」のような大規模な地下構造は無いものの、湿気を防ぐ溝が炉の周りに有り、すでに足踏み式の鞴も備わっていたと考えられています。

上の図は福島県で発掘された8世紀の遺構で、B−B’の線上に足踏み式の鞴があったと考えられています。その左の円い遺構が製鉄炉本体、それに接する大きな三角の窪みが「のろ」の排出場所と考えられています。

こういった「たたら」炉の周りには炭焼き竃、鍛造用の施設や鋳造用の施設が複合的に配置され、当時の製鉄コンビナートといった感が有った様です。この様な遺跡は9世紀頃まで存在します。この時代にこの様な遺跡が突然出現したのは、大和政権が大陸から技術者集団を招来した事に因るのではないかと思われます。又、この様な規模で製鉄や鋳造、鍛造といった作業を行うと、大量の炭を必要とします。製鉄遺跡の周りでは、当時すでに森林伐採による環境破壊が行われたのではないかと想像できます。

一方、そのころに作られた正倉院に伝わる刀剣などを見ると、一部の中国製と見られる刀剣類を除き、地鉄はまだまだ精錬が十分ではなく、「のろ」を多く含み、姿形も反りの無い平造り又は切り刃造りの刀で、技術的にも後世の刀剣とは少し隔たりがあるように思われます。

平安時代

平安時代の「たたら」炉は、中国地方では箱型の大型炉が主流になり、大がかりなな地下構造は持たないものの、製鉄炉の両脇には湿気を防ぐ小舟と呼ばれる溝を完備し、近世の「たたら」に匹敵する規模となります。一方関東、東北地方では前時代と同じく直径が1メートルぐらいの円筒形の縦型炉が主流で地方的な違いがはっきりしてきます。

上の図は広島県豊平町で発掘された10世紀〜11世紀の遺構を元に考えられた復元想定図で、炉本体の長さ3.4メートル幅1.3メートルと後世の「高殿たたら」と変わらない規模になっています。

この時代の製鉄コンビナートに異変が起きます。官営の製鉄所は少なくなり、貴族や地方豪族の所有する民営の製鉄所が増えてきます。山で「たたら」を行う人々と、鉄を材料に身の回りの道具や金具を作る小鍛冶(こかじ)や鋳物師(いもじ)は分かれて、仕事をするようになます。小鍛冶や鋳物師は町に移住したり、荘園内に囲い込まれたりして仕事をするようになります。

この頃に作られた刀剣類は現存するものが少なく、まして実物をじっくり観察することは困難ですが、写真などを参考に考えると、平安時代の初期は、刀の姿も地鉄の感じも前時代のままであまり変わらず、平安末期の作は、姿も地鉄も後世の鎌倉期の作品に近い技術水準で作られたのではないかと思われます。10世紀の初めに書かれた延喜式の刀剣製作に関する部分では、最初に鋼塊を打ち延ばし、それを砕いて積み沸かしをすると想像できる部分があります。おそらく後の時代の刀鍛冶と同じように、製鉄業者から購入した材料を使って、刀剣を作っていたのではないでしょうか。それらを考え合わせると、刀剣制作の上からは、基本的な製鉄技術や加工技術は、平安時代の終わり頃にはほぼ完成していたのではないかと思われます。

鎌倉時代から南北朝時代

現在調査されている、この頃の「たたら」は、形態的に前時代とほとんど変わっていません。中国地方では大型の箱型炉、また関東、東北地方では縦型炉と地域的な違いが目立ちます。又、小鍛治や鋳物師も前時代と同じように町で仕事をしたり、荘園で囲われたまま仕事をしていました。

この時代を刀剣の世界から眺めてみますと、元寇の役を経て更に刀を作る技術は向上したたようで、地鉄は力強く変化に富み、刃紋は明るく良く冴えて、それまでの地鉄より洗練され、製作技術は頂点に達し、日本刀の黄金時代を迎えます。

室町時代 安土桃山

発掘された遺跡の上からは、室町時代になっても「たたら」自体の構造や「たたら」を取り巻く社会的な環境の変化はあまり見られないようです。しかし室町時代の初めに日本ではかなり広範囲の工業技術の革新があったようで、その技術の多くは当時の中国からもたらされたようです。一説によると江戸時代より古い「たたら」では銑押(ずくおし)しといわれる銑鉄(炭素を多く含み鋳物などの材料になる鉄。)を生産する「たたら」が多く行われ、その銑鉄を鋼や包丁鉄(ほうちょうてつ=炭素をほとんど含まない軟鉄、分厚い菜切り包丁のような形状に加工されたのでそう呼ばれた。)に加工していたといわれています。こういう鉄の生産方法がいつの頃から定着したのかはっきりしませんが、もしかすると室町時代の初め頃かも知れません。

それと関連づけられる証拠はありませんが、刀剣の世界では室町時代に入り、若干地鉄に変化が表れます。刀の地鉄に前時代ほどの力強い変化が見えなくなってきます。時代的背景もあり、現存する刀の量も飛躍的に増えて、刀が大量生産された事を裏付けているようでもあります。やはりこの時代に鉄の作り方も大きく変化を遂げた可能性があります。       

江戸時代

17世紀になって、いよいよ「高殿たたら」が出現します。この時代の「たたら」は当時としては巨大な(15〜18メートル四方)高殿の建屋内に、製鉄炉の乾燥と保温を目的とした大規模な地下構造を持った製鉄施設です。

上の図は江戸時代の代表的な「高殿たたら」の地下構造の断面図です。湿気を防ぎ品質の良い鉄を作るのに、いかに苦心したかうかがい知れます。

炉自体の平面図の例、寸法は地面に接している所で、幅1〜1.5メートル、長さ3メートル前後、高さ1.1メートル前後です。炉の両側から放射状にたくさんの穴が開けてあり空気を送り込むようになっています。これを羽口といます。この様にたくさんの羽口をつけて、炉全体がうまく働くように工夫されています。

またこの時代になって「銑押たたら」と、「ケラ押たたら」がはっきり分かれてきます。ケラとは玉鋼やその回りにある劣等鋼それに裏銑と呼ばれる銑鉄などを含む、炉の中に出来た鉄の塊のことをいいます。銑押では、銑鉄を主に生産するために、赤目(あこめ)砂鉄を使用しています。又、ケラ押では、上質の鋼である玉鋼(たまはがね)を生産するために、真砂鉄(まささてつ)を主体に使用しています。両者の「たたら」炉は基本的に同じ構造をしていますが、「銑押したたら」炉は若干炉の高さが高く内部の朝顔形の絞りも強く、羽口の位置も低くなっていて、温度を上げて銑鉄を作りやすいように工夫されています。

 

左が「ケラ押たたら」炉、右が「銑押したたら」炉、炉本体の形状が少し違います。操業方法は基本的に同じようですが、「銑押たたら」の技術は現在では亡びてしまいました。

こうしてできたケラを破砕して選別する鉄作(かねつくり)や、銑鉄やケラに付随して出来た鉄を加工して包丁鉄を作る大鍛治など、職業も細分化されて産業としての形が確立してゆきます。社会的には「たたら」業者は領主の支配から離れて、生産された鉄は貨幣経済の中で商品として取り引きされ、近世の「高殿たたら」が形作られて行きました。

この時代は歴史的に大きな変化のあった時代ですが、刀の世界でも又、大変大きな変化が訪れました。刀の世界では、慶長時代(17世紀初頭)を境にそれまでの時代の刀を古刀(ことう)、それ以降の刀を新刀(しんとう)と区別して呼んでいます。この頃を境に、刀の材料が当時市場に出回り始めた玉鋼に徐々に変わっていったのです。江戸時代の玉鋼は現在でも驚異的な品質で、「のろ」などほとんど含まない純度の高い鋼です。それゆえ刀にした場合、地鉄はきれいで、明るく華やかな刃紋を表現できますが、反面、前時代の地鉄に比べ変化に乏しく味わい欠けます。又、保有する炭素の量が多いため、焼きを入れると非常に硬くなり、切れ味は鋭いのですが、扱いを間違えると刃毀れがしたり、刀自体が折れてしまう危険性があります。江戸時代の刀鍛冶はその特性を十分熟知して、刃毀れを防ぎ刀が折れないように工夫を凝らした、刀の作り方を編み出しています。

現在

「高殿たたら」は明治時代の西洋式の製鉄法の導入で衰退して行き、今日では日本でただ一カ所、島根県内で「日本美術刀剣保存協会」が、現在も刀を作り続けている刀鍛冶に、その材料を供給する目的で操業しているのみです。

終わりに

いかがですか、神代の時代から現在まで短い時間でお話ししましたが、日本の製鉄の歴史を、現在残っている刀剣類を通して見てみるのも、おもしろいと思いませんか? 日本刀は今日に残された日本の製鉄史のタイムカプセルなのですから。

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97.7.28

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