亡父 「政二」  

  

政二
亡父「政二」

  父「政二」は、大正11年5月7日に岐阜県(揖斐川と根尾川の中州付近)で生まれました。幼い頃に大工と農業をしていた父を亡くし,母に育てられました。末っ子であったため大阪で就職し,出征しました。軍隊では旧関東軍の989部隊に所属していました。この部隊は「防疫給水部」と呼ばれ,731部隊が親部隊にあたります。つまり、森村誠一著「悪魔の飽食」で有名になった細菌部隊です。その関係もあって,シベリア抑留は長期となり生死の狭間をくぐりぬけました。「武器があるから戦争になるんだ。武器を作ったらあかん。」というのが口癖でした。「武器よさらば」という平和への願いはとてもわかりやすいものです。武力で国を守ることが当然とされつつある現状に疑問を感じます。

  昭和25年にようやく帰国し,5月1日,「みつ」と結婚し,翌年10月2日に長男の私が生まれました。ちょうど講和条約が締結された年でもあり,平和を願って和男と命名されました。それだけに平和である(争わない)ことには強い信念の持ち主で,暴力をふるったことは一度もありません。これは父母の合意に基づく意図的なものであったことを成人してから知りました。私は「暴力は処罰から生まれる。」,つまり(処罰をしないこと!)という信念があります。これは,家庭でも教育現場でも国家・民族間でも共通する原則だと思います。こういった考えには父母の影響があったのです。

  父母の平和への願いを託された私ですが,とんでもない病弱で,病院通いが続きます。父母の背中におぶわれ,あちこちの病院に行きました。父の給料の多くは治療代に消え,かなりの生活苦だったようです。しかし,ものすごく大切にされました。自分の幸せをすべて捨て,出来の悪い我が子にかける親心のすごさを実体験しました。結果、両親には全く頭が上らなくなくなりました。

  母が亡くなったのは16年前(1986年5月15日,58歳)ですが,その後,父には仕事を辞めてもらいました。私の妻の仕事を優先したのです。父の仕事は,ロータリー式真空ポンプの製造でした。心臓部は極めて精密な加工が必要で,ハイテク日本の基礎を担ったことと思います。私は,幼稚園の卒園近くまで,この工場の敷地内で生活し,金属加工の大体は何となくわかります。私は手先が器用だと思いますが,この頃の日々が影響しているように思います。

  仕事をやめてからの父は見事なまでに主夫業をこなしてくれました。母は,父が台所に近づく事を嫌っていたので,全く家事の経験がありません。しかし,戸惑う事もなく,嬉々として台所で頑張る父に驚くとともに感動しました。炊事や掃除や洗濯や買い物など,何でも上手に見事にこなしてくれました。ちょうど,上の孫は小学校に入学しましたが,下の孫は幼稚園で,その送迎もしました。人付き合いが苦手だったはずの父が,同じ送迎をするお母さん方とすっかり親しくなりました。

  下の娘が小学校に入学して手がかからなくなると,老人会のさまざまな活動に参加するようになり,いつの間にか中心メンバーの一人になっていました。ゲートボールで京都1位になったことをきっかけに,興味を囲碁に転向しました。そして,多くの老人仲間が我が家を訪れるようになり,碁会所のようでした。いくつかの碁盤があり,パソコンでの碁もできるようになっていました。また,スズムシやセキセイインコやグッピーなどを飼育し,それがどんどんと増え,仲間にプレゼントを続けました。キンギョやヒゴイも飼育していましたが,いつのまにか60cmの水槽での方向転換が難しいほどに成長しました。生き物との不思議なほどのコミュニケーションが可能でした。

  最も熱中したのは,自宅前に借りた畑での野菜や植木の栽培で,「杉原ミニ植物園」というプレートを掲げ,さまざまな工夫と研究を続けました。そして,収穫した野菜や挿し木で増やした樹木を近所の人や道行く人にプレゼントするのを楽しみにしていました。クリスマスの時は,家と植木と畑の10数mを点滅電球のイルミネーションで美しく飾り,それは地域で最も華やかなものでした。父は,人の喜ぶのを見るのが大好きになったのです。「人の喜びを我が喜びとなす。」これを信念としていたようです。どんどんと優しく穏やかで心が大きくなっていく父を見ると,いつの間にか偉いなあと感動するようになりました。学歴とか肩書とか,そんなものはなにもありませんが,とても立派でした。2年前に悪性リンパ腫で最初の入院をし,人生の終わりを悟ったことが大きかったのかもしれません。しかし,同じ立場に私がなったとしたら,父のように生きられるかどうか自信がありません。

  80歳まであと1ケ月あまりとなった3月25日の突然の死でしたが,上の孫も大学を卒業して就職し,故郷の家の改修工事も完成した年度末,多忙な家族にとってわずかな余裕の日でした。父は自らの最期の日まで考えていたようで,一切の迷惑をかけませんでした。その顔は,わずかに笑みを浮かべ,眠っているような穏やかなものでした。「ありがとう」…私の贈る言葉はこれしかありませんでした。

  「父は,亡くなって仏になったのではない。仏になって亡くなったんだ。」
…このことに気付いたのは,先立っていた母の元へ,大好きな父が旅立った後でした。