★ 近況(2002年1月〜4月)★ 

  

2002年1月1日(火)
新年のニュースでとても印象的なものがありました。EUの通貨統合で,ユーロの流通が始まったことです。排他的な巨大経済圏の出現を危惧する意見もあるようですが,共同体が世界を変えていくという流れが確定したということです。旧来のナショナリズムが通用しない世界の動きを理解する必要があります。遅れているのは科学教育だけではないようです。
2001年1月4日(金)
仕事始めです。新春のご挨拶に近いのですが,11日の講座準備で1人大忙しでした。実験器具の見本ができたのが年末の27日で,28日から年末休暇をとりました。つまり,ぎりぎりまで追い込まれているのです。   
2002年1月11日(金)
私が担当になっている教員研修講座を実施しました。新年を挟んだため案内が伝わりにくかったことと,新学期の始めということもあり参加者数が気になりました。しかし,かなりの先生に来ていただき嬉しいことでした。講座内容は,「水道水の電気分解」を参照してください。
家に帰ると,父の病気再発と入院しなければならないことがわかり「ガーン!」。本日は,定期検診日だったのです。一難去ってまた一難,厳しい日々が続きます。
2002年1月14日(月)
岡山の杉原尚示さんが来られました。尚示さんは,「杉原姓物語」というホームページを開設されており,その取材ということです。なぜ私が取材対象になるのか?ですが,とにかくお会いすることにしました。杉原姓物語ですが,「こんなテーマでどうなるんだ?」と疑問に思っていましたが,インターネットの力は素晴らしく,興味深いページに発展しています。父の入院に伴う準備などが気になり,十分な応対が出来なかったことが気になりました。   
2002年1月16日(水)
父が入院するので,午前中だけお休みをもらいました。私が休むことはめったになく,それだけで異常に気付かれた方もおられました。嬉しいことです。
昨日の夜は,永松記念教育センターで「小中科学教育セミナー京都大会」の開催に向けた実行委員会がありました。勤務先の代表として出席したのですが,講座の一つを私が受け持つ事になりそうです。午前・午後の2回講演で,それぞれ3時間というのは経験がなく不安なことです。
2001年1月20日(日)
勤務先で「楽しい台所電池」という講座が開催されました。担当者でなかったことと父の入院関連で忙しく,見に行けませんでした。心配していましたが,連絡がなかったことをみるとうまくいったようです。私の提案ということもあり,できれば覗きたかったのですが…。
本日は父の主治医との懇談があり,厳しい病状を聞かされました。   
2002年1月24日(木)
数日前から「パスカル電線無料プレゼント」に3件の申し込みがありました。嬉しい事ですが,梱包して送付するのに1件あたり2時間ほどかかり,その時間の確保が難しい状況であることを実感しました。また,HPからくる「質問」へのお答えにも,毎日相変わらず30分〜1時間程度かかります。父の入院に加え,2月11日〜3月5日まで筑波へ研修に行かねばなりません。そこで,申しわけないのですが「プレゼント」と「質問」の一時休止を掲載しました。
※3年間のプレゼントの申し込み状況は,平均するとほぼ1ケ月2件です。私にとっては,金銭的にも手間としてもちょうどよいものでした。家や仕事が落ち着けば,できるだけ早期に再開したいと思います。
2002年1月25日(金)
父が初めて輸血(ヘモグロビンと血小板)をしました。骨髄での造血機能が低下し,危険ラインを割ったのです。意外な急展開で不安です。厳しい状況です。本人はとてもしんどいのですが,どこが痛いとか苦しいとかいうことではなく,そこが救いです。   
2002年1月26日(土)
午後1時30分〜5時20分まで京都教育大学で公開講演会・シンポジウム「授業を考える」が開催されました。メインは板倉聖宣先生(国立教育政策研究所名誉所員)の講演で,参加者は大講堂にいっぱいとなりました。北海道からの参加などを含め330名という数は,公開講演会としては過去最大ではないかという主催者のコメントがありました。板倉先生は尊敬する先生ですが,かなり異端な面があり大学が招待したことは高く評価できます。会場で学長と会いましたが,教育危機でさまざまな取組みが必要なことを力説されました。学長も巻き込んだ企画であることがわかり嬉しく思いました。参加された先生方には知人も多く,いずれも熱意あふれる方々ばかりでした。
2002年1月28日(月)
父の白血球数が少し持ち直し(1400→1600),抗癌剤の治療ができるようになったそうです。しかし,弱い飲み薬程度であり,あまり期待できないことはわかります。また,病名でインターネット検索してもかなりのことがわかり,主治医の真意もほぼ理解できます。インターネットは便利ですが,だからといって父の病がどうなるわけでもありません…   
2002年1月30日(水)
昨日の夕方,父の歯茎から出血が始まり,なかなか止まらなくなりました。面会時間の終了時も出血が続き,気になりながら帰りました。結局,どうもしようがなくなり,深夜の11頃から始めた点滴でようやく止まったそうです。血小板が減少し,小さな傷も大きな問題となるようです。
2002年2月3日(日)
今日は節分,昨日は父にも豆を届けました。抗癌剤の副作用と入れ歯の関係で「こんなもの食べられん!」ということでしたが,「病の鬼よ去れ!という飾りだよ。」ということで置いてきました。隣りのベッドの入院患者さんのご近所の知人が,偶然にも勤務先の同僚という事がわかりました。世間は狭いものです。一週間後からは,筑波へ22日間の”謎”の研修出張。父の病,家庭の混乱,勤務先の仕事のことなど,事態は最悪です。
「杉原姓物語」に,私が掲載されました。   
2002年2月8日(金)
昨日は,父のお見舞いに,岐阜の故郷から伯父さんが来られました。その日は元気だったのですが,今日の午後から熱が出て大変な状況だったようです。夜の8時頃に行った時は落ち着いていましたが,かなりぐったりしていました。白血球数が極めて少なく,簡単な風邪でも普通では治まらなくなります。
月曜日からの出張の関係で,今日は勤務先の残務整理で大忙しでした。といって,結局は,あちこちに仕事を頼むだけでした。望んで行く出張ではないのでドライに対応すべきですが,申し訳ない気持ちでいっぱいです。
2002年2月9日(土)
朝,父にスープを届けましたが,発熱が続きかなり大変だったようです。薬で押さえているような状況で,立ち上がる元気もないようです。
私は,出張準備で大忙しです。課長から借りた携帯用プリンタの赤外線通信の設定で手間取り,荷物に入れて送付できたのは,今朝の4時でした。まだ準備は残っており,家庭内の残務も多く大変です。正直なところ出張を拒否したいのですが,昨日,旅費を現金でいただき,難しそうなことを感じました。私は,教師の研修は自費で賄うべきだという持論があります。現金を手にし,再び,そう思いました。   
  
2002年2月10日(日)
昨夜のロズウェルは,マックスがクリスマスの奇跡をおこすというもので,心なごむSFとなりました。骨髄の癌の子供達への奇跡ということですから,京都でも期待したいところです。父の発熱は止まらず,かなり弱っていることがわかります。明日から筑波で22日間の中央研修です。少なくとも,帰るまでは元気でいてくれないと困ります。
2002年2月11日(月)
中央研修は明日からですが,近所に前泊しないと間に合いません。そこで,土浦駅前のホテルに宿泊しました。インターネットで予約しましたが,場所の地図,部屋の内部写真,空室状況なども表示され,ボタン一発予約完了というのは便利なものです。
秋葉原の「秋月電子通商」に寄り道しましたが,欲しいものはほとんど購入済みで,めぼしいものは見つかりませんでした。秋月製の組み立てキットはダンボール箱一杯あります。悲しいかな,退職後の楽しみといったところです。
2002年2月12日(火)
土浦駅前からの専用のバス(といってもバス会社の特別便で,無料ということではありません。)に乗って,教員研修センターに向かいました。だだっ広いところで,筑波山だけがちょこんと見えます。国土地理院の大きなパラボラアンテナを右に見て,しばらく行くと到着です。
午前中は,オリエンテーションで,担当者や生活についての説明がありました。午後,講堂で開講式をした後,記念撮影などをして放課後となりました。とにかく,精神的に疲れました。
部屋でAir Hを使ってインターネットに接続可能かどうかを調べると反応なし!‥エーと悲鳴をあげたい気持ちです。しかし,部屋のあちこちを移動して調べると,ベッドの足元あたりで感度があり,ほっとしました。しかし,電波状態は悪く,難しい時間帯もかなりあり,さらにAir Hの遅さもあって厳しい状況です。
2002年2月13日(水)
この研修会の正式名称は「平成13年度教職員等中央研修講座:第4回校長・教頭等研修講座(255回)」です。場所は「独立行政法人 教員研修センター」というところで,昨年の省庁再編に伴って衣替えした組織です。昨年度までは「国立教育会館学校教育研修所」という名称でした。平成13年度のつくばの教員研修センターでは,これ以外にもいくつかの研修会が開催されております。また,つくば以外でも,教員研修センター名でたくさんの講座が開かれています。つまり,教員研修センターというのは法人名で,場所を指す名称ではありません。しかし,つくばだけは,場所を指す名称でもあります。ちょっと,ややこしい‥
参加者は198名で,「小学校教頭部会A・B・C班」「幼稚園部会」「指導主事部会A・B班」と,私の所属する「センター指導主事部会A・B班」の4部会に分かれています。
  
2002年2月14日(木)
昨夜の地震は,かなりなもので驚きました(震度4)。こんなところで死ねるか!‥と思いました。昨春は「パスカル春の遠足」で,吹屋(べんがらの里)というところの崖っぷちで地震に合い,生きた心地がしませんでした。出かけると,いつも被害にあいます。
寝付きかけた頃,予想とおり,持病の発作です。どうしても回復の見込みがたたず,Doctor callしか手のうちようがなくなりました。しかし,そんなこともあろうかと,主治医にもらっていたステロイド剤を使い,深夜の2時頃になって,ようやく寝付けました。
※薬は11種類も持参しました。頭痛薬とか腹痛の薬とか傷薬などいつでも買えるものは除外した持病用だけです。
2002年2月15日(金)
昨日,課題が出され,その資料集めなどで大忙しです。インターネットを利用できる部屋は夜の7時で閉鎖ですが,私は無線でネット接続できるので助かります。グループ研究ですから,要領のいい方は談話室で酒を飲んでオリンピックと旅行の話をしておられます。しかし,私は,どうしてこうなるんでしょう。
食事ですが,今までは味わって食べているような心の余裕はありませんでした。ほっとしたついでに,食事の話をします。食堂棟は,ここでいちばん新しくてきれいな建物です。朝は,和食・洋食と納豆定食が選べます。さすが,茨城県です。昼食と夕食は「和・洋・中・麺」などが選べます(値段は,400〜600円程度です)。気取らない家庭風で,満足できます。
  
2002年2月16日(土)
午後,大急ぎで研修センターを後にしました。とにかく,父の容態が心配でした。夜の7時頃に丹波口に到着し,奥さんに迎えに来てもらって市立病院に向かいました。
入院中の父は,さらにやつれ,目が落ち窪んでいました。けして愚痴をいわない父ですから,顔を見せない私に何も文句をいいません。また,会ったからといって何ができるわけでもありません。親孝行は元気なうちにとは思ってましたが,「元気なうちに子供を過保護に!」という父の行動のほうが勝ってました。先日まで,家事に大忙しの父でした。
2002年2月17日(日)
京都まで往復する旅費と時間は」かなりなもので,北へ向かうと北海道まで行けそうです。
研修センター→つくばセンター(タクシーで2400円:バスが極めて少ない!),つくばセンター→東京駅八重洲口(1250円),東京→京都(14000円)‥その往復となり,35000円ほどかかります。その上,つくばへのお土産として京都の地酒を2本買いましたから,結局40000円を越えました。期間中に3回帰るとすると,ものすごい出費となります。今回の研修のためだけに買わざるをえなかったったパソコン一式(Air Hの契約料なども込み)や衣類などを含めると,泣けてきます。
  
2002年2月18日(月)
今朝,あたりは霧で包まれていました。霧に見え隠れする松林は幻想的で,冷たい研修センターの雰囲気が少し和らぎました。歩いていくと黒い人影があり,よく見るとどなたもがタバコを吸っています。先日,休憩時間にタバコを吸っている人の数をかぞえると約60名でした。198名の参加者で,瞬間計測で60名ということは過半数近くが喫煙者ということでしょう。タバコの煙が凝結核になって新たな霧がモヤモヤと発生しないかと観察しましたが,そんなことはありませんでした。
昨日は,かなりの人がNASDAの見学に行ったようです。自転車で行かれたそうですが,かなりの距離で大変だったそうです。できれば私も行きたいのですが,その時間がありません。
2002年2月19日(火)
本日は,とてもよい天気でしたが,一日中,ものすごい風が吹いていました。庭に出ることもなく,講堂と研修棟を行き来しておりました。なお,本日から図書館の改修工事で,本を見ることができません。テレビも新聞も見ないことにしていますので,今日が何日で何曜日なのかの感覚がわからなくなりつつあります。メディアは今日を認識する大きな役割を果たしていたようです。
各地のセンターの実情を聞くと,さまざまなことがわかり勉強になります。しかし,すべてが永松記念教育センターにあたる施設で,科学センターのようなところは一つもありません。そのため,よくわからない討議内容が時々あります。
  
2002年2月20日(水)
「文部法令要覧」という分厚い法律書を買わされました。本は好きですが,これだけはいただけません。
夜は,センター主事部会の親睦会がありました。研修生プラザという宴会専用と思われる別棟があり,会費4000円で,料理も酒もたっぷり余るというものでした。各地の地酒が並んでおり(私も京都の地酒2種類を持参),せっかくですから,それぞれを舐めてみました。結果,あまりに味が違うのに驚きました。泡盛もあり,ずいぶんと香り豊かでした。
父が歯を抜いたという連絡が入りました。口内炎と歯痛と微熱というが続いていました。よくある普通の病気のようですが,過去,ほとんど経験のない症状であるところに問題があります。血小板が少なく,抜歯はきわどいものだったようです。感染症が心配です。
2002年2月21日(木)
科学センターに送ったお土産が届いたようです。紫いも(”紅あずま”という品種)のお菓子です。先日の科学センターでの講座「紫いもで実験しよう」を思い出していただければと選びました。
自宅に連絡して「おもしろ実験・ものづくり事典」(東京書籍)が届いていることを確認しました。発行がずいぶんと延び延びになっていました。どんな本になったか楽しみです。
  
2002年2月22日(金)
今日は,歌舞伎座の見学で,朝7時にバスに乗車して出発しました。都心に近づくとかなりの渋滞で,10時過ぎにようやく到着しました。「菅原伝授手習鑑」という出し物で,終了後は,そのまま帰宅することができました。何かお土産はないかと,国立科学博物館のミュージアムショップへ行きました。科学センター同様に5時終了と思い込んでおりましたが4時30分で,ほとんど見られませんでした。
9時30分頃に帰宅し,出版されたばかりの「おもしろ実験・ものづくり事典」(東京書籍)を手にしました。前作と比べると,ずいぶんと立派なものになりました。今後,このレベル以下での出版は難しくなりそうで,筆者は大変です。
2002年2月23日(土)
1週間ぶりの父は,さらに弱っていることがわかりますが,急変の兆候はありません。病院食は食べづらく,毎回,スープを始め,さまざまな食事を家から運んでいます。帝国ホテルのスープとかフランス製のスープなどを混ぜたりして,凝ったものを作っていますが,食は進みません。
新聞などをまとめて見ていると,おもしろい記事に出会います。「千と千尋の神隠し」がベルリン国際映画祭で最優秀作品賞(グランプリ)に当たる金熊賞を受賞。受賞理由が,ニューヨークの事件を受けて,唯一神ではなくやおろずの神々を扱った多様な価値観にあったようで,わが意をえたりと喜びました。ちょうど,姪からメールが届いていました。メキシコへ行く途中にニューヨークに寄ったようで,world trade centerや痛ましい記念碑のことがつづられていました。
学生時代に大好きだったフォーク・クルセダーズの「イムジン河」がようやく発売になるようです。レコード発売中止,放送禁止だったのに,私の世代でご存じない方は稀という不思議な大流行をした歌です。メロディの聴けるサイトがいくつかあります。サーチエンジンで調べてみてください。
  
2002年2月24日(日)
つくばに戻る前に,父の病院に寄りました。歯痛と微熱は相変わらずで,座薬でなんとか寝られる状態です。また,足がかなりむくんでいることがわかりました。いつも前向きで元気な父が,かなり弱気になっていました。
病院を後しに,京都駅で新幹線を乗ろうとホームに出たとき,すぐ横にテレビで見慣れた年配の女性の顔がありました。普通に声をかけられる距離だったのですが,何をしゃべってよいのかわからず,じっと見てました。目つきの厳しい人6人ほどが取り巻き,見送りの和服姿の女性が2名いました。M大臣でした。Web pageで年齢を調べて驚きました。品のよい若々しさを感じさせる服装のセンスはとても素敵でした。
2002年2月25日(月)
「つくば湯ートピア」という結構なお風呂があります。お風呂嫌いですが,準備もせずにすぐに入れるというのはありがたいものです。毎日入ってますが,これは過去に例がないことです。また,洗濯も毎日していますが,一人分だけだと特に苦になりません。
夜の10時過ぎに地震があってびっくりしました(震度3)。宿舎は4階(406)で,すぐには逃げようがなく,金縛りにあったように動けませんでした。開講式の夜も地震で驚かされましたが,このあたりは大丈夫でしょうか?
  
2002年2月26日(火)
部会でまとめたレポートを元にしたディスカッションも終わり,精神的に少し余裕ができました。休憩時間は,グループの4名で記念写真を撮りました。夕方は,久々に散歩に出かけ,研修センターの道を挟んで東向かいの大きなスーパーマーケットに行きました。車が2〜3百台停まっていましたが,自転車は,なんと1台‥道を歩いていてもめったに人を見ない,そんなところです。
2002年2月27日(水)
「学校管理運営演習」があり,午前中に与えられた課題を各自がレポートにまとめます。午後,それを元に討論し,最後に文部科学省の役人が答えるというものです。まあ,私でも形式的な判断はできますが,現実は難しいことでしょうね。これで,すべての演習は終了し,一安心です。
  
2002年2月28日(木)
今日の最後の講義は「男女共同参画社会」でした。講師は文部科学省の役人(女性)ですが,「男女共同参画社会基本法」が作られた経過がわかって興味深いものでした。この法律は非常に丁寧なもので,第13条には「男女共同参画計画を定めなければならない。」という条文があり,この計画内容のきめ細かさはあきれます。また,内容を読むだけで感動する法律があることを知りました。
2002年3月1日(金)
本日は館外活動でした。5つのコースから班ごとに選択して見学します。私は,そして班の意向としては「高エネルギー加速器研究機構→国土地理院→筑波宇宙センター(NASDA)→地質標本館」コースに行きたかったのですが,抽選に外れました。結果,ほぼ観光コースとなりました。今回の研修で,唯一といってもよい楽しみが失われ,ショックです。
どこかを見学しようと,数日前から野草を調べてます。とにかく野草が少ないのです。研修センター内の松林は分厚い落ち葉で見かけません。花壇も手入れが行き届いているようで,少数のタネツケバナとハコベとホトケノザ(色はきれい)しかありません。タンポポを見たという川柳が掲載されていましたので,かなり探しました。ようやく見つけたのは運動場の中ほどです。冬枯れの芝生の中に少し島状に緑があり,一つの島にはカンサイタンポポ,もう一つの島にはカントウタンポポがありました。セイヨウタンポポは見つかりませんでした。近所の畑を探しましたが,野草は少ないようです。しかし,研修センターと比べると多く,京都でも見られる早春の野草はかなりありました。土は水分が少なく,ぱさぱさしています。
夜はセンター指導主事部会B班の親睦会がありました。この時,飲めない酒を飲んだのが翌日に響いたようです。
本日は,娘の就職第一日目でした。管理栄養士として病院勤務ですが,正確にはまだ資格を取得していません。卒業式もまだで,あやしげな新米さんです。
  
2002年3月2日(土)
午後,京都に帰る途中,偶然出会った研修参加者がNASDAに行くことを聞き,寄り道のつもりで同行しました。NASDAでは,他にもメンバーが来ていました。ガイドさんによるお決まりの観光コースということもあって,本当に知りたいことはわかりませんでした。
NASDAを出ると夕方で,研修センターに戻るという手もあったのですが,京都よりも近い仙台に行くことにしました。父のことがなければ行く予定だったところです。そして,今の父の容態なら行ける最後のチャンスです。
急遽,初めての東北新幹線に乗り,わずか2時間で仙台市に到着しました。頬が切れるような冷たい空気が爽やかで,人々の表情もとても穏やかで素敵なところです。
2002年3月3日(日)
実は,昨日の午後から具合が悪く,2度もどしました。昨夜からほとんど何も食べていません。そんな状態で「仙台市科学館」と「金属博物館」へ行きました。科学館は,丁寧な展示で感動しました。突然行ったのですが,実験室も見学させていただきました。博物館は,タクシーの運転手さんも知らないというマイナーさでしたが,予想以上におもしろいところです。金属学会の本部で,一つ質問すると10倍ほどになって返ってきます。時間がないので,泣く泣く興味なさそうなふりをして後にしました。島根県の菅谷たたらの違った角度からの話も聞けました。もう一度,訪れたい博物館です。
夜に研修センターに帰りましたが,直後に再びもどしました。もう,ふらふらです。
  
2002年3月4日(月)
最後の講義は,講師の意向で「仰げば尊し」を合唱しての終了となりました。いろんな考えがあるということです。夜は全体のお別れ会でしたが,とても上手に演出され,宴会嫌いの私としても感動しました。ウーロン茶を飲んで,主に果物を食べてました。
夜は,数日前から荷物の発送と最終レポート作成で大変でした。それ以外にも連日多忙で,1時30分頃に寝る日がずーっと続きました(昨日だけは,しんどくて11時に寝ましたが‥)。毎日にように談話室で飲んでいる方もおられますが,少数です。といって,午前まで起きている方もいないようです。いつもながら要領の悪い人間だなあ‥とあきれました。
2002年3月5日(火)
最終日! 8時までに撤収作業をすべて終えなければいけません。細かいチェックリストがあって,その通りにするわけですが大変でした。前日に隅々まで雑巾がけをしましたが,かなり汚れていました。その後,閉講式があり,終了証書をもらって10時15分にはバスが出発です。私は,新しいところになかな慣れず,ようやく昨日くらいから落ち着いたような気分でした。まだこれから‥という気分で研修センターを後にしました。
帰宅して,すぐに父の病院に駆けつけました。「22日間,よくぞ元気でいてくれた!」感謝感激でした。
  
2002年3月6日(火)
久々の出勤でした。あちこちにお土産を届けたり,簡単な挨拶をしているうちに1日が過ぎてしまいました。化学領域の皆さんは,昨日,共同研究発表を無事に終えたようです。筑波で夢にまで見ましたから,嬉しくてほっとしました。ただ,他にやらねばならない積み残しがどっさりあるようで(迷惑をかけたので聞きにくい!),不安でゾーとしています。
昨日,このweb pageのアクセスが10万を越えました。嬉しいのですが,こんな怪しげなpageのアクセスが増えるということは,大した情報がネットに流れていないという証拠かもしれません。
2002年3月7日(木)
「鴨川の水で電気分解」というテーマで個人研究発表を行いました。教師になって以来,約25年!,これほど執念深く自身のすべてをかけるような勢いで取り組んだ成果が15分の発表で終了するとは…。教育の世界の,それも中学校の化学分野のハイライトの問題点を指摘するのは,とてもとても大変なことです。
  
2002年3月15日(金)
今日は,大学生の娘の卒業式でした。昨日,買い込んだ11包みの菓子折りを下の娘と3人で抱え,守衛さんや図書館司書さんや研究室の先生へのご挨拶をしました。とにかく学校の好きな娘で,4回生の時はお正月に2日ほど休んだだけで,日祝日も連日夜遅くまで研究室におりました。それだけに,お礼するのは当然です。また,こういったお礼ができるというのは嬉しいものです。かなり時間がかかりましたが,その間,似たことをしている家族には1組も出会いませんでした。いつもながら,変な一家だったようです。
初めて見る娘の研究室は化学実験室そのもので,実験器具を見るだけでわくわくしました。懐かしさを感じます。
女子大の卒業式は華やかなもので,羽織袴や振袖がほとんどですが,チャイナドレス・チマチョゴリ・アオザイ姿もありました。どの民族衣装も素晴らしいものですが,娘は指導教官の意見もあって地味なスーツ姿(とても珍しい!)でした。そんなことは全く気にしてないところが娘の立派なところですが,少々不思議でもあります。
2002年3月18日(月)
京都市の社会福祉施設の職員さんを対象とした研修会の講師をしました。このような会は初めてで,反応をうかがいながらの手探り講演でした。いくつかの勘違いと思い込みがあり,内容構成で申し訳なかったと反省しております。しかし,とても気持ちのよい研修会でした。
昨日(日)は,吐き気と頭痛で一日中大変でした。筑波の時と同様の症状で,また新たな病気ではないかと不安になっています。
父は,血しょう板の輸血をしていました。single donorということで,唯一の提供者に心から感謝します。
  

2002年4月13日(土)
ずいぶんと「近況」を書いておりませんでした。父が亡くなり,その余裕がありませんでした。葬儀はあっというまに終わりましたが,さまざまな後処理があり,また,仕事が滞り多忙な日々が続きました。
本日は,もう三七日となり少し落ち着きましたので,父の死の前後を簡単にまとめました。
クリック→亡父「政二」について
3月21日(木)「岐阜の里へ」
  昨夜から岐阜に行きました。父の容態が安定しているため,改修工事の終わった家を見に行ったのです。完成した合併浄化槽やフェンスをデジカメに写し,父に見せるのも目的でした。また,父の依頼で京都の家からヒメヒイラギの木を持っていって植えました。スイセンが満開で,とてもきれいでした。その中で,母の好きだったスズランズイセンを持ち帰りました。
3月22日(金)「スズランズイセン」
  岐阜の家の浄化槽の蓋やフェンスや植え替えたヒメヒイラギなどの写真とともにスズランズイセンを持ってお見舞いに行きました。枕もとにかわいいスズランズイセンを飾ると,亡き母が覗きにきているような感じがしました。というより,母が花と供に父を迎えにきたのかもしれません。満足そうに花と写真を見ている父の笑顔が忘れられません。
3月24日(日)「父の死の前日」
  午後1時頃,奥さんが病院へ行き,早朝のいつもの発熱が39.5℃もあったことを知りました。白血球数が少ないので感染症に要注意で,不安な高熱でした。坐薬ですでに熱は下がっており,いつもと変わりない状態でした。ただ,「ベッドの上で柔軟体操のつもりで足をばたつかせたら,左足のふくらはぎがものすごく痛くなった。」ということでした。4月半ばで入院3ヶ月目となるので,その時に退院できると信じ,準備を始めたらしいのです。恥ずかしかったようで,「日にち薬や!」と,看護婦さんへの連絡をいやがりました。そこで,奥さんが湿布薬を買ってきて,貼りました。
  夕方の6時少し前に,上の娘の作った「かぼちゃプリン」を持って病院に行きました。娘が「あんまり美味しくないよ…」と言いましたが,食べてくれました。病院の夕食は,煮物の汁をすするだけでした。その後,私が湿布薬を替えました。父の足は暖かでしたが,ほとんど筋肉のないことに気付きました。骨と皮だけといった状態です。体重は,39kgに低下していました。その瞬間,不吉なものを初めて感じました。「また来るよ!」「オウッ!」といつもの調子で別れましたが,私の顔はこわばり笑顔をつくることができませんでした。
3月25日(月)「父の死」
  朝,5時30分頃,病院から「すぐ来てほしい!」という緊急連絡が入りました。6時前には着きましたが,すでに心肺は停止しており心臓マッサージ中でした。顔は,とても穏やかで,どうみても寝ているようにしか見えません。早朝,足の痛みを訴えたため主治医の指示で足のCTを準備中に容態が急変したそうです。そして,6時24分には死亡宣告されました。「ありがとう」それが私の気持ちのすべてでした。本当に素敵な父でした。親子の間にわだかまりは全くなく,親子であり友人であり何でも頼れる先輩でした。職場で何があろうと,父のおかげで心配のない楽しい家庭でした。「精一杯生き,思い残すこともなくなったからお母ちゃんのもとへ行くよ!」「誰にも迷惑をかけなかったぞ! かっこよく最期を締めくくったよ。」そんなことを語っているような,少し笑みを含んだ口元でした。
3月25日(月)「葬儀まで」
  父の死は急なもので,主治医も真相を知りたいということです。病理解剖を依頼され,躊躇しましたが合意しました。父は何と闘っていたのかを明らかにしたかったのです。解剖の間に,お寺さんへの報告と葬儀日程の調整,親戚や職場への報告,葬儀社への連絡をしましたが簡単ではありませんでした。家の片付けは大変でしたが,孫4人でやってくれました。父のことより,そういった準備と段取りで頭がいっぱいになり,感傷に浸っている余裕はありません。これは,束の間の心の救いとなりました。
  病理解剖の結果,顕著な病変はなく「細菌感染による多臓器不全のショック死」ということでした。父の苦しみはほとんどなかったようで,これは父にとってよかったのでしょうが,私にとっては心残りとなりました。お昼に自宅に帰り,父の部屋に寝かせました。
  午後に葬儀社と打ち合わせ,次々と親戚や知人が弔問に来られました。そんな中,私は依頼されていた原稿があり,焦っていました。夜に仕上げの執筆を始め,朝の4時にようやく完成しました。パソコンに向かっている私のそばに父がいます。きっと笑っているだろうな…などと最期の語らいをしました。
3月26日(火)「通夜」
  朝から次々に親戚やご近所の方が来られました。ご挨拶などで,大忙しです。また,香典や供花はご辞退させていただきましたが,親戚からのお花だけはいただくことにしました。葬儀の部屋が最大の場所である事と,父が大好きな花で飾ってやりたかったからです。祭壇の花も,特別なフラワーアレンジメントを頼み見事なものとなりました。そして,祭壇中央の写真は,2年程前に制作した絹の綴れ織製という立派なものです。写真をコンピュータに取り込み,自動織機で織り出したものです。妹夫婦のプレゼントで,父が自慢していたものです。
  通夜は午後7〜8時に行いました。お忙しい中,多くの方に来ていただき,心から感謝します。虚礼は廃止すべきと思いますが,写真や墓や仏壇や葬儀費用などきちんと準備をしていた父を意識するとそういうわけにはいきませんでした。ありがとうございました。また,職場の方に立礼や受付などをお願いし,心から感謝します。
3月27日(水)「告別式」
  朝11〜12時に告別式を行いました。久々に親戚が一同に会し,ありがたく,またとても嬉しく思いました。父の大好きな花を棺おけにぎっしり詰め込み,葬儀社の担当者の配慮で同じく大好きな日本酒を口に含ませました。私の挨拶の後,火葬場へと出発しました。棺の蓋が閉じられ,孫の直樹が花束を置いたとき初めて別れを意識しました。
  「ありがとう」心の中で,これ以上ない大きな声で叫びました。

2002年3月30日(土)
本日は,もう初七日ですが,告別式の日に初七日を終えていました。岐阜から再び来ていただくのは大変だからです。この,28・29・30日の3日間は大変でした。家の荷物が大移動しており,生活できる環境ではありませんでした。また,葬儀社への支払いや父に関する様々な書類作成などで忙殺されました。遺骨に手を合わせる余裕はほとんどありません。そんな私たちを見て,父が笑っているような感じがします。
しかし,父の死と葬儀,その後の作業が年度末の一週間でほぼ終了しました。あまりに絶妙なタイミングに,父の予定の行動だったのではないかと勘ぐりたくなるほどです。介護もなく,家族の仕事や学業に一切の迷惑をかけなかった父に驚き,心から感謝します。
  
2002年4月1日(月)
今日から新年度が始まります。食卓の父の椅子が空いていることを気にしつつ,いつも通りに出勤しました。家に帰ると外灯が点灯していません。暗い冷っとした家の入るのは気分の悪いものです。流しの食器は,朝のままです。洗濯物もそのままです。これからの厳しい生活と父のありがたさがわかりました。
2002年4月16日(火)
今日は新センター実験室学習の初日でした。今春は,つくばへの長期研修,父の死,同僚の転勤などで準備が遅々として進みませんでした。それでも,けしていい加減なことはできません。センターに異動して以来,最も辛い日々でした。祈るような気持ちで「白さの秘密」という漂白の化学に関する学習を無事に終えました。一応,これで一安心です。
2002年4月20日(土)
朝,キンギョが死んでいました。父がとても大きく育てたものでした。父と生き物のコミュニケーションは素晴らしく,真似の出来るものではありませんでした。同じく感の鋭い上の娘が受け継ぎましたが,難しかったようです。また一つ,父の思い出が消えました。
大輪のボタンの花が見事に咲きました。近所の方によると,「今までで最高の出来だよ。」ということでした。育てていた父を見送っているようです。また,サツキも赤と白の花をいっぱいに咲かせ,見事です。
2002年4月24日(水)
午前中,検査のために眼科へ行きました。もう1ヶ月近く前になりますが,突然,目の前に光が輝きドーナツ状に画像が歪んでしまったのです。きれいに見えるのは中央部だけでした。不安でパニックになりましたが15分ほどで回復し,父のこともあり,そのまま放置しました。しかし,網膜はく離になった同僚の先生に症状を聞くとよく似ていることがわかり,あわてました。検査の結果,一時的に脳に行く血液が減った事が原因であろうということで,網膜は異常なしでした。そして「脳神経科に行ってください…」ということでした。勤務先では,「マザーボードの交換ですか…」と言われました。
  
2002年4月27日(土)
もう父の五七日となりました。お寺さんに何度も来ていただくうちに,これが日常であったような錯覚に陥ります。父が亡くなって,まだ1ケ月が過ぎただけなのに…
父の遺した「杉原ミニ植物園」は,春の花盛りを終わろうとしています。立派な花は少ししかありませんが,種類はずいぶんとたくさん見られます。ボタン(赤),シンピジウム(白・赤),グレビレア(赤),アッツザクラ(赤),サツキ(赤・白),テッセン(紫),ハナミズキ(ピンク),スズラン(白),シラン(紫),アマリリス(赤),ツバキ(ピンク),シャガ(白),パンジー(紫・黄・赤・白),マリーゴールド(黄),シャクナゲ(ピンク),サラサドウダン(赤),ナルコユリ(白),シュンラン(淡緑)などが咲いています。恐らく,今年の春が最高の花盛りだったことと思います。この素敵な父のお花畑をいつまでも維持したいのですが,残念ながら整理縮小を進めなければいけません。
午後,植木を車一杯に積んで奥さんの里へ送り出しました。「元気で育てよ!」と心の中で声をかけながらも,寂しさでいっぱいでした。
2002年4月28日(日)
昨日の新聞で,3月期の連結決算でソニーの売上が松下を抜いたという記事が目に付きました。「S社の秘密」以来,ソニー関連のほとんどの本を読み続けてきましたが,松下などとの比較が多く,これからの企業はどうあるべきかを広い視野で考えるきっかけとなってきました。それだけに「すごいな!」と心から拍手を贈りたい気分ですが,大きくなり過ぎたベンチャー企業「ソニー」に青春の夢とロマンを求めるのは難しくなりました。
  
2002年4月29日(月)
昨日の夜,奥さんと下の娘の3人で,岐阜の家まで10本の植木を車で運びました。父が育てていたものですが,借りている畑にいつまでも植えておくことができません。ほとんどは近所や親戚の方にもらっていただく予定ですが,スギやヒノキの仲間は貰い手がないと考えました。大きくなるばかりで,きれいな花も咲かないからです。朝早くから庭に穴を掘って,植えつけました。とにかく疲れました。
二期目の町長に立候補を予定している叔父さんの選挙事務所に寄ってから帰りました。