「…ん、こんなもんかな」

 一口味見をして、期待通りの味に思わずうなずいてしまう。

 少し贅沢かとは思ったが、まだ少々供物が残っていたので例の「味噌ちゃーはん」なるものを作ってみた。

「…これで、兄上の元気が出てくれるといいのだが」

 自分で言っておきながら、そううまくいくことはないだろうなと思ってしまっている。

 何事も問題なく…というわけにはいかなかったが、結果的にはすべてがうまくいった…ように思われた龍神降臨祭、あれから一週間がたっていた。

 どたばたしまくった降臨祭に比べたら、この一週間は落ち着いたものだったが、それなりに忙しいものだった。祭りの後のさびしさを感じる間もなく、櫓の片づけやら、今後についての相談、育ててくれた司祭様に詳細を報告しに行ったりと、することはいろいろとあったから。

 兄上は、実にそつなくこなしていたと言っていいだろう。そう、端から見た分には、何の問題もないように見えたはずだろう。

 それでも…夜中にただ月を眺めているその横顔は、今にも世を儚んで消えてしまいそうな雰囲気を漂わせていた。

 兄上が感じているのは、寂しさなのだろうか? …いろいろとにぎやかだった祭りのときを、懐かしんでいるだけだろうか?

 兄上が感じているのは、倦怠感なのだろうか? …長年の悲願であった龍神降臨祭を万事滞りなく終え、ただぼんやりと一休みをしているだけだろうか?

 …だったらいいと思いつつも、そんな簡単なことであるはずがないとわかっている。

 

 …わかっているから、つらかった。

 

 

 

 

「兄上ー!」

「…ん?」

 ぼんやりと風に当たっていた兄上が、私の呼びかけに気づいて顔をこちらに向けてくる。

 最近の兄上は中庭に面した縁側に腰掛けて、ぼんやりとしていることが多い。やるべきことはキチンとこなしている分、ますますその差を感じてしまう。

「どうした、鳳仙?」

「あ、ああ、お昼ができたんで呼びに来たんだ」

「そうか。…うん、わかった」

 兄上はゆっくりと立ち上がると、なんでもないように笑顔を浮かべた。

 その笑顔は、私を心配させないためにしてくれたものだったのだろうか? …だとしたらこれほど失敗したモノはないだろう、そんな寂しそうな笑顔を見せられて安心できるほど、私は脳天気じゃないんだから。

「ん、行かないのか、鳳仙?」

 じっと兄上の顔を見つめていた…ひょっとしたら睨んでいたかもしれない…私に、どうしたんだというように兄上が声をかけてきた。

「いや、当然行くぞ」

 私を見つめる兄上の表情に、私を心配する色を見つけて、ひどく複雑な気分になる。

 私の心配している場合ではないだろ! …と、どやしつけたくなるが、それが兄上なんだと思うと、本当に複雑だ。鈍感なくせにいろいろな人の気持ちを考えて、抱え込んでしまう兄上を腹立たしく思うと同時に…心配してもらえて嬉しく思ってしまっている自分がいて…それでも!

 

 …願わずにいられない。…何を?

 …願わずにいられない。…だれに?

 …願わずにいられない。…どうして?

 …願わずにいられない。…どうやって?

 

 …ああ、ゆっくりと死んでいっているような兄上に、私に何かできることはないのだろうか…

 

 

 

 

「ふぅ…」

 風呂上がりにため息なんてつきたくもないのだが、出てしまうのだからしょうがない。

 気を引き締めるように、巫女装束の袴の紐をきゅっと結ぶ。…それにしても、寝間着までこれというのはちょっとどうかと思わなくもないが、今は兄上のことだ。

 風呂から出たことを兄上に知らせるために、縁側のいつもの場所へと向かう。

「…兄…うえ…」

 月をぼんやりと見上げるその姿は、どうしようもなく儚かった。月の魔力にとらわれたか、月に命を吸われているのか、病的なほど哀しく…美しい光景だった。

「…兄上」

「ん…」

 私の言葉にも、兄上は視線をそらさない。月のかぐや姫を想うように…いや、あながち間違いでもないかもしれない。…きっと、想っているんだ…龍神の姫のことを。

「…兄上、…私には、どうしようもないのか?」

 これまでどうしてもためらっていたことを、どうしようもなくなって口にする。

「…兄上、…私では、どうにもできないのか?」

「鳳仙…」

「祭りのあとから、兄上がおかしくなっていたのは知っていた。…ううん、祭りのときもおかしいことはおかしかった、でも、それとも! やっぱり、あのおかしい兄上が原因なのか!?」

「鳳仙……」

「教えて欲しい、兄上…なんでもいい、なんでもいいから、教えて欲しいんだ」

「…鳳仙、…鳳仙には先見の力があったよね」

「あ、ああ、そ、それが…?」

 急に変わった話題に私が驚いていると、兄上はゆっくりとこちらに顔を向けた。

「私もね、どうも似たような力があったみたいだ」

「え?」

「先見というにはちょっと違うかもしれない…そう、見ていたというよりも知っていた感じだ。…いろいろなことを」

 兄上はそこまで言うと、再び月を見上げる。

「私は知っていた。…菊花様と恋に落ちてしまうことを。

 私は知っていた。…そのことで天から罰を受けることを。

 私は知っていた。…その罰が私たちだけで済まないことを。

 私は知っていた。…その罰が何度となく繰り返されることを。

 私は知っていたのだ、鳳仙。…私にはどうしようもないことを」

「…兄上、…そ、そんなはずは、…だ、だって、兄上はどちらかというとしぐれ様の方を…」

 兄上の突拍子のない話に、私は驚き狼狽する。…兄上が何を言っているのかわからないから。…兄上が言っていることが理解できないから。いいや…兄上が言っていることを理解したくないから!

「気づいているんだろう、鳳仙。…彼が私であって、私ではなかったことを」

 確かに私の知っている兄上ではなかった。私の知らない兄上だった。違う世界の兄上だってわかっていた。…でも、…それでも、間違いなく私の大好きな兄上だったんだ!

「私の願いと、ある方の願いと、他のたくさんの願いのおかげで、私は彼に託すことができ、そして彼は応えてくれた」

「…だったら、それだったら、それでいいじゃないか!」

 私はわかってる、私はわかってるのに、私はもうわかってしまっているのに…それをわかりたくないと叫んでいた。

「確かに、私と菊花が原因となって起こってしまう悲劇は回避されたよ。…私と菊花だけではすまず、しぐれ様も、あさひも、そして鳳仙にもふりかかってしまう天罰は回避されたんだ」

 

 兄上はゆっくりと自嘲気味に笑った。

 

 

 

 

「でもね、やっぱり私は菊花を愛しているんだ」

 

 

 

 

 …その独白は、どこか遠い世界の物語を聞いているようだった…

 

「先見なんだろうか? …それとも、これは何という能力なのだろうか? …そんなことはわからないけど、それは事実なんだよ。

 不思議だよね、私と菊花は見事にすれ違った、もう菊花が私に向くことはないだろうに、菊花を抱きしめた暖かさも、菊花を愛した記憶も、私は持っているんだ」

 私はぼんやりとその独白を聞いていた。それは、暗闇の向こうから流れてくる音楽のようだった。

「同時に、イヤと言うほどの悲劇も知っている。アレはいやだ、たまらない! 天を呪い、恨み、怨嗟の咆吼をあげたよ。…いまだに納得がいかないんだ。ソレはそんなに悪いことだったのか? …そこまでの罰が必要な罪だったのか? …私と菊花のみならず、関わりのあるすべての者に降りかからねばならないほどの、ひどい行いだったのか!?」

 その咆吼は感情的なはずなのに、どこか無感情に響いていた。…それは発する者の心と、聞く者の心が凍りついていたからかもしれない。

「私はね、鳳仙。…菊花のことを愛していると同時に、同じくらいに恐れているんだ。自分でも自分がわからない。どうしたいのか、どうありたいのか? …それがぐるぐるぐるぐると頭の中で回り続けている」

 ハハっと乾いた笑いが聞こえる。

「あの祭りの日前後を、何度も何度も見た気がする、聞いた気がする、触れた気がする。それは夢か悪夢か? …悪夢…なんだろう、とびっきりの悪夢のはずだ。あれほどの悲劇を悪夢と言わずして何を悪夢と呼べるんだろう」

 ああ、なんだろう、これは?

「…兄…うえ…」

 …自分の発した言葉が、自分が出したとは思えない。本当にどこか遠い世界の物語のようだ…

「…でもね、鳳仙。夢のような幸せだってあるんだ。あの幸せを味わうために、あのとびっきりの悪夢を見てもいいかな…とか思ってしまうときだってあるんだよ」

 つつーっと、ほおに水が流れるのを感じる。凍りついたと思われていた感情が実は働いていたのか? それとも人の体がそのように出来ているだけなのだろうか?

「鳳仙、来年はどうするんだろうね? いや、来年まで私は狂わずにいられるだろうか? はははっ、私はまだ狂っていないと思ってるんだ?」

 ひどく耳障りだった。こんなのおかしい、狂っている!

 

「私は! 私はっ!!」

 

 

 そっ…と、ぬくもりに包まれる…

 

 

「…兄上、それは本当につらいことなんだ。…もっと大声で泣いていいんだ。…私が、私がいつでも抱きしめてあげるから、そんな哀しい顔をして笑わないでくれ」

 震える声が、優しくなでられる手とともに感じられる。それは、凍てついていた心を溶かすように…この暗闇に光をともすように…ああ…

「…鳳仙、私は、私はっ!」

「いいんだ、兄上、今は泣くときなんだ、考えなくていいんだ、感じるままに、泣いて欲しいんだ」

 暗闇の向こう…いや、もっと近く、すごく近いところから鳳仙の声が聞こえる。…本当に近く、心のすぐそばから染みこんでくるように…それは、さっきまでの自分自身の独白よりも近いところから聞こえてきた。

 

 …声にならない声をあげて、ただ泣いた…

 

 

 

 

 泣きじゃくる兄上の頭を抱きかかえ、子供をあやすように頭や背中をなでる。

 それは先見か…いつか遠い未来、あるいは既視感か…はるか遠い昔に、同じようなことをしたような気がする。

 はらはらと流す兄上の涙で胸元をぬらし、その冷たさに胸が締め付けられるようになる。

 兄上、…兄上の願いは叶ったのだろう? …自分のことは何も願わなかったのか? …兄上らしい。…兄上らしいよ。

 天よ、…私の願いも叶えて欲しい。…兄上の代わりに、私が兄上のことを願うから。

 

 やがて、胸元から聞こえる嗚咽も小さくなっていく。

 涙とともに、兄上の悲しみが少しでも流されたのならいいのに。

 嗚咽とともに、兄上の苦しみが少しでも吐き出されたのならいいのに。

 すーすーと聞こえてくる吐息に、兄上が泣き疲れて眠ったことに気づく。

 兄上の頭をそっと膝の上にのせる。きっと、ここのところぐっすり眠っていなかったのだろう。涙を浮かべながらも見せてくれる、そのあどけない表情にやっと安堵の気持ちが広がってくる。

「兄上…」

 眠る兄上の頭をそっとなでながら、うたうように語りかける。

 

「兄上、一人で抱えるのが重かったら、二人で抱えていこう。私はずっと、兄上のそばにいるから」

 

 

 そのことを、改めて自分と兄上と、私たちを見守ってくれている月に誓うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…それは、遠い昔の記憶…

「そなた達の両親は、いとこ同士だったのじゃよ」

…戯れに語られた、ただの茶飲み話…

「ほほっ、そなたの兄君はなかなかの美丈夫じゃが、かなりの唐変木じゃからの」

…にもかかわらず、真剣に聞いていた記憶がある…

「ほっほっほっ、どうにも、いい相手が見つからんかったら、しょーがないから、そなたが嫁になってやるか?」

…今も願っていると言うと、叔父上は驚くだろうか…

 

 

…神職と禁忌は、近くて遠き、遠くて近きものなり…

 

 

「…私がそばにいるよ」

 

 

 

次回

 

鳳桜降舞

 

 

…それを禁忌と呼ぶのなら、二人でおかそう…

 

 

 

 

 


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