パニック障害 〜私の場合 その2 通院の日々〜
▲最初に訪れた心療内科▲
タウンページを広げ、何も分からず飛び込んだ心療内科。初診では殆ど何も話すことなく、とりあえず
安定剤らしきお薬を2種類渡され、それを飲んだところ眠ることはできた。久しぶりに眠ったという
感覚にもなった。二ヶ月間通ったが、先生が殆ど話しを聞いてくれない、お薬が効き過ぎで
日中も眠気が取れずだるくて仕方ないにも関わらず対応もしてくれない、と言ったような理由から、転院
をすることになった。ここで一番ショックだったのは、“治りますか?”とたずねたことに対し、
“5年かかる人もいれば、10年かかる人もいる。”と言われたことだ。今ならそれも理解できる。
決して間違ってはいない答えではあるが、しんどくてたまらない状態の時に、その結論だけをストレート
に言われると、この地獄のような感覚がそんなに長くかかるのかと、かなり落ち込んでしまった。
もう少し、ショックを与えないような言い方が出来なかったのかと、今でも思う。
●現在通院中の心療内科●
ある知人から、“ここの先生は本当にいい先生よ”と紹介を受け、転院したのが平成14年1月末だった。
初診では、まずは看護師さんが聞き取りをおこない、その後カルテに清書してから先生に診て頂いた。
その内容を丁寧に読みながら、気になるところは質問をされ、また手足のしびれがないかを確認された。
そして、必要なお薬とその効能について説明して下さった。お薬の名前は覚えていないが、安定剤を2種類、
手足のしびれに対応するもの、睡眠薬などを処方された。約40分もの時間をかけて、話しも聞いて下さった。
その中で、“治りますか?”とやはりたずねたのだが、“はい、治りますよ。”と答えて下さり
とにかく嬉しかったことを覚えている。その後、週に1度のペースで通院し3年半経った辺りから2週間に
1度のペースになった。
●現れた症状●
“パニック障害”と一口に言っても、人によって症状が違う。私の場合、次のようなものであった。
・歯磨きをしていると、突然動悸がして怖くなり、涙が出てきた。
・身体がだるく、何もする気が起きない。しようとすると嫌で嫌でたまらない。(鬱症状を併発?)
・何か落ち着かない感じで、常にソワソワしている。
・手足のしびれがあった。特に足はひどく、しゃがむとガクガク震えた。
・表情が全くない。何を見ても聞いても面白くない。楽しい・嬉しいといった感情が消えていた。
・先のことを考えては予期不安に襲われた。例えば、夕飯を作る、と考えただけでも怖くなった。
・車に乗ること自体が怖い。赤信号で止まる、右折レーンで待つ、渋滞に巻き込まれるなどもダメであった。
・一人で外出することが出来ない。病院に行くのも付き添いを要した。
・家で一人でいるのが辛く、友人・知人に電話をして気を紛らした。
・スーパーのレジ待ちなど、自分の順番が来るまでじっと待っているのが辛く、奥歯を噛み締めて我慢していた。
・行ったことのない場所へ行こうと考えるだけで、予期不安に襲われる。
・電車で出かけるのも、範囲が限られる。遠くへ一人で行くことは出来ない。
思い出す限り挙げてみたが、予期不安、広場恐怖、鬱症状があったことが分かる。今は普段の生活
には殆ど支障がないくらい回復している。手足のしびれは約2年くらいでなくなった。車は毎日運転しており、
喜怒哀楽もごく自然に表現できるようになった。非日常的なことがない限り、落ち着いて生活を送れている。
●リハビリとして取り組んだこと●
主治医の先生からよく言われたのは、“生活を楽しみなさい。そうすると、仕事に行きたいなぁ、
行けるかなぁ、という気持ちが自然に出てくる。その時が仕事に復帰できる時期ですよ”ということでした。
早く仕事に戻りたい、という気持ちが強かったため、そのアドバイスを実行するべく始めたのが“体操”だった。
平成14年4月から“リズム体操”“健美操”に通うことにした。また、平成15年7月からは“陶芸”を習い始め、
平成16年4月からは“ダンベル体操”も追加した。体操3種類は、全て市の講座で自宅から数分の会場で
おこなわれている。陶芸はバスと電車を乗り継いで約1時間かけて月2回通っている。始めた頃は、頓服を飲みながらの時もあったが、
今はそれぞれの講座でお友達もでき楽しみながら取り組んでいる。
●職場復帰トレーニングへの参加●
平成14年9月から11月までの2ヶ月間、“職場復帰トレーニング”に参加した。これは、兵庫県(神戸市を除く)
の公立学校教職員で、精神疾患等で休職中の職員が、スムーズに職場に復帰出来るようにと始められた取り組みで、当時は
東京都以外はおこなわれていないものであった。そして、私はこの第1期生となった。会場となったのは近畿中央病院で、心療内科医、心理療法士の元
集団精神療法、音楽療法、芸術療法、ストレッチ、模擬授業、院内ボランティアなどといったプログラムが組まれていた。言葉にすると堅苦しいが、
要は参加している皆さんと色々とお話しをし、自分の気持ちを伝えたり、他の方の話しを聞いてアドバイスをしたり、絵を描く、ハンドベルや陶芸を楽しむ、
ゲームなどをして親睦を図る、などといった、現場へ自然に戻ることが出来るように手助けをしてくれるものであった。
自分の気持ちが分かって貰えることの嬉しさを感じることもあった。また、お腹から笑うことができるなど、人としての自然な感情も取り戻すこともできた。
私の場合、車で会場の病院まで通ったのであるが、後半は車を運転することへの予期不安で緊張がひどくなったために辛くなった部分はあったが、
それでも最後まで休むことなく参加し続けたのは、有意義であったと思う。ちなみに、陶芸を本格的に習い始めたのは、このプログラムの中で体験したことによるもので、今でも感謝している。
●職場復帰に向けて試みたこと●
職場である学校へは、休み始めてから1年半以上行くことが出来なかった。学校のことを考えただけで予期不安に襲われていたからである。
しかし、ある時、関わっていた部活動の試合が在籍校であるというので、車で連れて行ってもらうことにした。予期不安で潰されそうになった
が、頓服を飲んで目をつぶって我慢をし、なんとか到着できた。車から降りてグランドや校舎を見渡したが、緊張は全くなかった。まさに予期不安
とはこのことだと実感した。その後、電車とバスで一人で行く機会を作った。それも無事に行って帰ってくることが出来たので、次は車を運転して
行ってみた。なんとか上手く乗り切ることができた。このようにして、月に一度学校へ行くことで少しでも慣れるように努力をした。しかし、
全てが上手くいった訳ではなく、予期不安からパニック発作を起こしたこともあった。それでも、頓服を飲んで効いているのか効いていないのか
分からない状態なども経験しながら、月に一度行くということは続けた。これは場所に慣れるということ、車の運転にも慣れるということに繋がったように思う。
●退職の決意●
日常生活には殆ど支障がない、初対面の人は私がパニック障害であるということは言わなければ分からない、
保育所では役員として仕事もさせてもらっている。そんな状態ではあるが、たった1時間ほど電車に乗って初めての場所へ行くことが出来ない。
幼い子どもではないのだから、これくらいは出来てよさそうなものである。それなのに、予期不安から怖くなってしまって動きが取れなくなってしまう。
教員の仕事は授業や生徒との関わりの他に、学校を離れて仕事をしなければならないことがある。時には泊を伴うものまであるのである。
また、当然のことながら朝から夕方まで長時間の勤務の加え、家で補わなければならないことも出てくる。数年間とはいえ実際に勤務してきた
経験から、今の私の状態で正教員として勤めるには無理があると、復帰を断念せざるを得ないと感じた。毎年休職の更新をしながら、
“来年こそは!”と希望を持っていたが、それと同時に“難しいかもしれない・・・”という気持ちが次第に大きくなってきたのも確かである。
●今思うこと●
平成18年3月31日付けで退職。正教員として教壇に立ったは実質6年7ヶ月であった。どうしてもなりたくて選んだ職業だった。講師としての約2年間
を入れても実質9年足らず。本当に短かったと思う。しかし、この間に出逢った同僚の先生方、大勢の生徒達とのことは、いつまでも忘れない。
教師になっていなければ、パニック障害になっていなかったかもしれない。でも、教師になったからこそ得たものもある。また、パニック障害になって
知ったこと、得たものもあることは確かである。病気というものは辛いものであるが、これまで自分の身の起きた全てのことがあるからこそ、
今があると私は思う。
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