このページは、「大塚薬報」(大塚製薬の医師・薬剤師向け雑誌)の2007年1・2月号/
特集 に掲載された原稿と画像によりWeb Page用として構成し直したものです。
                                                         
   

 上方は「うどん圏」で、東京は「そば圏」などとよくいわれる。たしかに、上方にはうどんの、東京にはそばの、それぞれ立派な食文化の歴史があることは事実だが、ともすると大阪や上方はうどん一辺倒で、そばがまったく不毛だったかのように語られているのは、いかにも片手落ちに思えてならない。

  熱盛りと南蛮

   大阪や上方には、上方のそばの伝統を受け継いでいる店や、今風のこだわりのそば屋も多いし、かつて出前で市中を駆けめぐった町場のそば屋も健在なのである。そして、上方のそばを語る場合に外すことの出来ない事柄もあって、そのひとつが「熱盛りそば」であり、もうひとつは鴨南蛮やカレー南蛮などの「南蛮」の呼称である。
 大阪のそば屋に入ると、今も「熱盛りそば」を品書きに入れているところが多い。全国的にみてもごく限られた地域にしか残っていない、かつての熱盛りの風味を大切にしている浪花のそば屋の心意気のようなものを感じる。たいていは「せいろ」と称していて普通盛りを「一斤(いっきん)」、大盛りだと「一斤半とかイチハン」さらに「二斤(にきん)」となっていて常連客には根強い人気がある。白木や漆塗りの、蓋つきの蒸籠に盛られ、蓋を取ると湯気がたちのぼる。
 現在の大阪で熱盛りを扱う店の最右翼となると、やはり、元禄8年(1695)創業という堺市宿院の「ちく満」で、なにわの蕎麦の歴史の一端を今に伝える店だ。蓋付きの白木のせいろに湯通しされた温かいそばが盛ってあって、生卵を溶いて熱々の蕎麦つゆを注ぎ入れた椀につけて食べる。
 大阪市内では北区のお初天神東横丁の「夕霧そば・瓢亭」の湯通し「せいろ」で、ここのは柚子切りのほのかな香りを楽しませている。
 中央区には北浜の「手打ちそば・三十石」は「ざる」で出す湯通し「せいろ」、平野町に行くと大正13年の老舗「美々卯・本店」で熱盛りの温かい「うずらそば」。鶏卵ではなく、うずらの卵が付いている。この他「手打ちそば処・やまが」は福島区海老江、冷たいざるに対して温かいのはずばり「あつもり」である。この店は「おそばと落語の会」でも有名である。都島区では「手打ちそば京橋・三十石」で、湯通し「ざる」となっている。
 ざっと挙げただけでもこんな具合であり、大阪のそばを語るときには外すことの出来ない特徴である。
「熱盛りそば」が登場した背景には諸説があるが、江戸時代の初期の頃に流行ったとされる蒸籠で蒸す「蒸しそば切り」と、茹でて洗ったそばをもう一度熱い湯に通したり、盛りつけた上に熱湯を掛けるなどの方法がとられる。
 江戸時代や明治の書物にもたびたび登場するのは、寛永4年(1751)の「蕎麦全書」にも記された播州舞子浜・敦盛そばが有名である。この店は明治の初め頃まで繁盛したそうで、その昔源平合戦で討たれた平敦盛の塚が西国街道の須磨浦にあったことから、敦盛塚と熱盛りそばとをかけて店の名前にしていた。



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そば屋の出前  砂場のはなし
  
出前の歴史は古い。夏は白地に模様入り、冬は黒地の印半纏に鉢巻と威勢が身上。バカ台(出前盆)の上に蒸籠や丼鉢を並べ、時には二段、三段重ねの「肩かけ」。写真の「手持ち」は脇を締め、親指・人差し指・小指の三本で台を支え、中指・薬指を折り曲げて割り箸の束を持つ。(西天満にある「生そば 衣笠」のご主人) 

 上方のそば屋のもうひとつの特徴は、鴨南蛮やカレー南蛮などに代表される「南蛮」の呼称である。どういう訳かそば屋ではこの「南蛮」の読み方に東西の違いがあって、東では「なんばん」、西の上方では「なんば」と言われている。
 南蛮の代表格である鴨南蛮が売り出されたのは文化年間(1804〜18)の江戸であり、カレー南蛮のほうは時代が下って明治42年の大阪である。これがなぜ、そばの分野だけで「南蛮」の呼称が「なんば」「なんばん」と異なったかはよくわかっていないが、大阪のそば屋の多くは、江戸時代の難波一帯がネギの産地だったので、大坂ではネギを「なんば」と言い、そのためにネギを使った料理のことも「なんば」と称したという説をとるところが多いようだ。
 ただ、江戸時代から明治にかけての書物を調べてみたが、難波村は野菜類の大生産地であったことは事実だが、ネギが特産であったという記録には出くわさなかった。残念ながら、いまだにその根拠がわからないが、なんばん・なんば」の呼称だけは東と西で一線を画してしっかりと守られていることだけは確かである。

砂場のはなし

 江戸には数え切れないほどのそば屋があって、いまも老舗といわれるそば屋は多い。しかし、江戸そばの老舗で代々続いているのれん御三家」といえば、数ある中でもやはり代表は「藪」と「更科」それと「砂場」である。そして、この御三家のなかで最古参となると、ほんとうは「砂場」だということはあまり知られていない。
 江戸時代の初期、あるいはそれ以前にいくつかのルートでそば切りが江戸にもたらされたが、その技術や手法がある程度確立されてからの大きな流れは、ひとつは大坂の砂場からの流れであり、もうひとつは信州に端を発した更科で、その2つが今で言う「江戸そば」の形成に大きな影響を与えた。すなわち、「大阪の砂場」からは「砂場」と、さらに「薮」という大きな暖簾が育った。

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大坂砂場 二千年袖鹽 摂津名所図会


   「砂場」の発祥は大阪で、いまの大阪・西区新町にあった「津の国屋」「いづみや」というそば屋で、そこは大坂城築城の砂や砂利置き場であったことから通称「砂場」と呼ばれ、そこで商うそば屋も同様に「すなば」と呼ばれるようになったのである。かつて大阪の「砂場」があったといわれるあたりは、いまは新町南公園になっていて、さほど古くはないが南隅には砂場跡の石碑がある。
 さて、大坂「砂場」発祥の年代だが、出典は嘉永2年(1849)刊行と時代は下がるが「二千年袖鑒(そでかがみ)」のなかに天正12年(1584)そば屋が開店したとある。時代背景としては、秀吉がほぼ天下を掌握して大坂城の築城を始めたのが天正11年であるから、その翌年の工事現場(資材集積場)付近でのことである。「二千年袖鹽」には「津の国屋」の店先の絵があり、その余白に「天正十二 根本そば名物 砂場」という文字が読みとれる。
 ただ、初代砂場の年代については、書かれた書物の年代と創業時代の年代の差が大きすぎるために信憑性を指摘する異論のあることは書きとめて置くべきであるが、それをもってこれを無視する根拠にはなり得ないと考えている。少なくとも「砂場(津の国屋)」にそのような伝承が伝わっていたと考えるのが素直であろう。
 寛政10年(1798)刊行された「摂津名所図会」という絵入りの名所図会には、その大坂部四下の巻・新町傾城郭の項に「砂場いづみや」の図がある。
 そのそば屋の暖簾には「す奈場」と染め抜かれ、たいそう繁盛している往来の様子と立派な店構えが描かれている。2枚目には店内の様子も描かれていて、そばを食べる客をはじめ、そばを打ち・茹で・盛り・運ぶなどの百名をはるかに超える人びとと、店の切り盛りの様子が克明に描写され、臼部屋の石臼の数などから、とてつもない規模であったことが窺える。今ひとつ、「そばを打つ」という観点から興味深いのは、何人ものそば打ち職人が並んで同時にそばを打っている図で、これは狭い場所でも効率よくたくさんのそばを打てる手法であって、現在、江戸そばの打ち方(江戸流)といわれる流儀がこの時代の大阪にも確立していたと考えられる。
 さらにいまひとつ、そばを打っている人達の後背に、明らかにうどんを踏んでいると思われる2人の職人がいて、うどんも一緒に商っていたことがわかる。まさしく往時の上方ならではの名物そば屋といったところだ。浪速の新町で江戸期を通じて繁盛した名店であったが、残念ながら明治に入って10年ほどの後に姿を消した。
 寛延4年(1751)の「蕎麦全書」によると、江戸の薬研堀に「大坂砂場そば」の看板があったそうだし、安永8年(1779)刊・「大抵御覧」のなかで「砂場そば」の名が出ているそうだ。この他にも「砂場」の名前は登場している。江戸に進出した年代やいきさつはわからないが、浪速と江戸の双方で平行して「砂場」が繁盛していた時期があったのである。
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大塚薬報 「上方のそば」資料1 摂津名所図会

                 

          
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大塚薬報「上方のそば」資料2 そば猪口 住吉丸太かうし

左/「砂」と書かれたそば猪口は、素人判断だが猪口の形や技法から18世紀中ごろのものと思われる。砂場いずみやが、店名入りで作らせたものであろう。

左下/小振りのそば猪口は、それぞれに「す 奈 バ」と三文字書かれている。字体は江戸時代に使われた変体仮名で、「奈」は「な」、「バ」は「盤」をくずした「ハ」に「゛」であろう。

右下/江戸時代後期の「丹波・住吉丸太かうし」、徳利にはそばつゆ、もうひとつには薬味を入れていたのだろうか。
(3点とも「衣笠」蔵)



  
                     
 



        
 
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そば切り 定勝寺 常明寺 慈性日記

そば切り

 そば切りが誕生した確かな年代はわからないが、「そば切り」という言葉が初めて文献に登場するのは、信州・木曽大桑村の定勝寺の記録で天正2年(1574)、砂場の天正12年はそれとわずか10年の差ということになる。この時代すでに商いとしてそばが扱われていたということは特筆すべき事柄であろう。
 浄戒山・定勝寺は木曽氏にまつわる古刹で、木曽・須原宿の旧中仙道沿いにある。
 「番匠作事日記」の、天正2年(1574)仏殿修復の竣工祝いのおりに「作事之振舞同音信衆 徳利一ッ ソハフクロ一ッ千淡 内振舞 ソハキリ 金永」とあって、そば切りが振る舞われたという記録である。ソハキリについて特別の注釈もないところから推しても、この地域ではさほどめずらしい食べ物ではなかったことがうかがえる。
 信州では、これより早い時期にそば切りが誕生していたとも考えられるのである。
 「初期のころのそば切りの商い」に関する資料も少ない中で、大阪に関係するものがいくつかあって古くからのそばとの関わりを見ることが出来る。
 大坂城と大坂の町の賑わいを描いた「大坂市街図屏風」があって、よく見ると「八けんやはたこ町」(八軒屋旅籠町)の町名貼札があり、その近くに楕円形のうどん(または蕎麦)と思われる麺帯を麺棒で延している図が見て取れる。この屏風は近世初期の作と言われ、慶長(1596〜)・寛永(1624〜)どの時期にも通じるイメージだと言われている傑作である。大坂を描いた中で、麺棒でうどんまたはそばを打っている風景は非常にめずらしい。延しているのは女性で、長い麺棒で「丸出し(麺を打つ工程)」をしているのであろう。この時代はすでに商いとしてのそば切りがあったと考えられるのでうどんともそば切りとも解することができる。全体としては相当大きな屏風絵の中のごく小さな一部分ではあるが、細かく観察すると座って前屈みで体重をかけて延している図はとてもリアルである。
 大坂では天正12年(1584)に新町でそば屋「砂場」が開業し、江戸では慶長19年(1614)に多賀大社の社僧が常明寺でそば切りを食している。これは、近江・多賀大社の慈性が書いた「慈性日記」で、「(江戸の)常明寺で・・  ・・ソバキリ振舞被申候」とある。
 京都では、権大納言・日野資勝の日記「資勝卿記」のなかで、元和10年(1624)12月の条で京都の大福庵においてそば切りを馳走になったことを記している。(この人は、江戸の常明寺でそば切りを振る舞われたと「慈性日記」に書き残した多賀大社の社僧・慈性の父である。)



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そば雑感 大坂市街図屏風 浪花の風 江戸自慢
      
         大坂市街図屏風」(部分、林家蔵)
            大坂城や大坂の町並みを描いた屏風絵の中に、麺を打つ女性の姿がある。長い麺棒を使い、座って打っているようにも見える。


そば雑感

 冒頭で、「上方はうどんで、東京はそば」という思い込みがあることについてふれた。このことは上方はうどんが美味いがそばは東京のほうが美味いという説にもつながってる側面があるが、こういった風評に影響を与えた幕末の随筆があって、そばの蘊蓄の際によく引き合いに出される。
 安政2年(1855)から文久元年(1861)まで大坂町奉行を勤めた久須美祐雋(すけとし)は、随筆「浪花の風」の中で、江戸人の口に合わないもののひとつとして大阪のそばをあげている。「そばは・・・・風味劣れるなり・・・・製法もよろしからず」「うどんは・・・・おおいによろし その色は雪白で 味わいは甘味なり」と書かれている。江戸のそばを食べ慣れた者からみた上方のそばの評価であろう。
 ところが一方で、やはり幕末の紀州藩附家老の侍医が書いた見聞記『江戸自慢』があって紀州と江戸の食べ物の味くらべを遺している。そばのところでは、「そばは鶏卵を用いず 小麦粉にてつなぐ故に 口ざわり剛(こわ)く 胸につかへ 三盃とは食ひがたし 汁の味は至極美にして 若山のそばを江戸汁にて食ば 両美相合して 腹の裂けるを知らず食にや有らん」とあって、江戸のそばはまずいと書いているのである。
 紀州のそばをもって上方のそばと解することに無理があっても、双方とも慣れ親しんだそばの方がうまく、赴任地のそばはまずいといっているのが興味深い。
 どの土地に行っても、その地域に根ざしたうまいそばがあるということだろう。

                 (素人そば打ち段位・三段/全麺協・認定)
                       WebPage 「大阪・上方の蕎麦」

  取材協力:
  「衣笠」大阪市北区西天満4−8−5(06−6364−5280)
  「瓢亭」大阪市北区曽根崎2−2−7(06−6311−5041)
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