[ す ] - そば用語の解説一覧 
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su 1  水車生そば 山形県天童にある文久元年(1861)創業というそば屋。初代が粉挽きのかたわら、そば切りを板に載せて客をもてなしたのが「板そば」の始まりだとしている。「味も良し命も永く水車そば初め鶴々後は亀々」
su 2  水嚢
       (すいのう)
@とAは麺類を扱う店の道具。@茹で釜からそばやうどんをすくいあげるときに使う竹で編んだ揚げ笊。長い木の柄がついている。A食品をすくって水を切ったり、だしを漉したりするため、底に馬尾毛や金網・竹などを張った篩。水ぶるい、水こし。   B携行用のズック製のバケツ。
su 3  すうどん うどんだしをかけただけのうどん。普通は、透けて見えるほど薄く切った板かまぼこ一枚と少しの刻みネギが彩りを添える。気の利いた店では、とろろこんぶがすこし入る。「素うどん」という表現は、透けて見えるような昆布だしの薄口醤油に似合ういかにも大阪弁というにふさわしく、色の濃い出汁を使う東京のかけうどんやかけそばにはそぐわない。 「ぼんさん(丁稚)はすうどん。番頭はんになるときつねうどんが食べられ・・・」(松葉家の先代・宇佐美辰一氏の聞き書き「きつねうどん口伝」から)
su 4  末粉
        (すえこ)
ソバ製粉の過程で、挽き初めに出てきた中心部分の粉を一番粉、次に挽いた粉が二番粉、さらに三番粉で、最後に挽きだされたのを末粉と呼んでいる。これらはソバの実の部位が異なることから、一番粉から三番粉までは順に内層粉、中層粉、表層粉とも呼ばれ、一般にここまでがそばの麺に使われている。末粉には、殻の細片が入っていたり甘皮や子葉部が多く含まれて、タンパク質と繊維質が多いので香りは強いが色や食感が良くない。その為に乾麺や生めん、または製菓製品に添加したりして使用されるにとどまる。
su 5  すえ大根 宮崎県椎葉村に昔から伝わる辛味大根。平家大根ともいう。正月前に掘り起こし、葉を取って埋めて長期保存する。*「平家大根」の項参照
su 6  資勝卿記 江戸初期の公家・日野資勝権大納言の日記。知遇を得ていた家康が大御所、秀忠が将軍の慶長17年(1612)の書き始めで三代家光の時代には武家伝奏となるなど朝廷と幕府間の斡旋にも努めていて、江戸初期の朝幕関係を知る上でも貴重な資料といえる。この日記の元和10年(1624)2月の条に「・・・大福庵へ参候て、弥陀ヲヲガミ申候也、其後ソハキリヲ振舞被申て、又晩ニ夕飯ヲ振舞被申候也」とあって京都におけるそば切りの初見が登場する。江戸のそば切りの初見である「慈性日記」を書いた慈性は日野家次男である。なお、日記にある大福庵は慈性日記にもたびたび登場している京都にあった天台宗の寺である。 *「日野資勝」の項参照
su 7  巣ごもり 切りたてのそばを鳥の巣のような形に油で揚げて、和風餡か中華風の餡をかけたそば料理。揚げそばの応用で固焼きそば風の食感も楽しめる。餡は、豚肉や野菜、茸などをダシを効かせた濃い目の醤油で味付けする。
*「揚げそば」の項参照
su 8  鈴木 棠三

     (すずき とうぞう)
国文学・民俗学・口承文芸など多くの著書、校註を残した。1992年没。なかでも、そばの分野では、江戸初期のそば切りについて、「慈性日記」から慶長19年江戸におけるそば切り初見、「松屋会記」から元和8年奈良・大和郡山のそば切りの記述を見出すなどが特筆される。
su 9  鈴木啓之 東京都江戸川区平井のそば屋・「増音」の主人で、手打ちそばの名店といわれるかたわら、そばの歴史や習俗を調べ「麺習俗紀行」を執筆したり「そばの歴史を旅する」を柴田書店から出版した。そばに関する錦絵や道具などの蒐集でも知られる。「増音」は平成13年に閉店した。
su10  清白 スズシロ
     蘿蔔(らふく)
大根のこと。和名では春の七草でお馴染みのスズシロ(清白)で、漢名(中国名)は蘿蔔(ラフク)である。江戸時代、そば切りが登場する書物は漢文体が多いので「蘿蔔」が多く使われた。例えば、元禄10年(1697)刊行の食物学事典「本朝食鑑」の原文は漢文体であり、それを参考にしたそばの専門書「蕎麦全書」寛延4年(1751)脱稿も「蘿蔔」を用いている。紀行文でも堀杏庵の「中山日録」寛永13年(1636)は 中山道の贄川宿で「蕎麦切ヲ賜、・・蘿蔔汁ニ醤ヲ少シ加ヘ・・」である。*古事記や日本書紀などは「於朋泥」「於保爾」「意富泥」で「オホネ」と訓み、その後、大根(オオネ)から大根(ダイコン)になったといわれている。
su11  すっぽこ 山形市の一部の店で冬季メニューとして出す「すっぽこ(うどん)」または「しっぽこ(うどん)」という一種のあんかけうどん。うどん台にかまぼこ、椎茸、鶏肉、セリ、竹の子、など贅沢に具を乗せていて熱いあんの汁をはっている。
たしかな来歴はわからないが、関西はうどん、東京ではそば台に具(かやく)を豪華に乗せたそばやうどんを「しっぽく」というがこれらに共通する名称ではなかろうか。
su12  す奈バ 「す奈バ」「す奈場」「すなば」はいずれも「砂場」。大坂・砂場の暖簾やそば猪口に描かれた字体である。 小振りのそば猪口に書かれた「す奈バ」の字体は江戸時代に使われた変体仮名で、「奈」は「な」、「バ」は「盤」をくずした「ハ」に「゛」であろう。「す奈場」は寛政10年(1798)刊行された「摂津名所図会」の大坂部四下の巻・新町傾城郭の項に「砂場いづみや」の暖簾は「す奈場」と染め抜かれている。「すなば」は「二千年袖鑒」嘉永2年(1849)刊行に書かれ「すなば」と描かれた暖簾が見えるのは津の国屋の店先。
su13  砂場いづみや 「砂場」の発祥は大阪の西区新町にあった「いづみや」と「津の国屋」で、そこは「大坂城築城の砂や砂利置き場」で通称「砂場」と呼ばれたので、そこにあるそば屋も同様に「すなば」と呼ばれるようになった。 寛政10年(1798)刊行された「摂津名所図会」という当時の名所や寺社・旧跡などを紹介した絵入りの名所図会があって、その大坂部四下の巻・新町傾城郭の項に「砂場いづみや」の図がある。暖簾には「す奈場」と染め抜かれ、たいそう繁盛している往来の様子と立派な店構えが描かれている。二枚目には店内の様子も描かれていて、そばを食べる客をはじめそばを打ち・茹で・盛り・運ぶなどの百名をはるかに超える人々と、店の切り盛りの様子が克明に描写され、臼部屋の石臼の数などからとてつもない規模であったことが窺える。まさしく往時の名物蕎麦屋といったところだ。浪速の新町で江戸期を通じて繁盛した名店であったが、残念ながら明治に入って十年ほどの後に姿を消した。
su14  砂場いづみやのそば猪口 表面:柳文に裏面:「砂」のそば猪口と、小振りの「す奈バ」と書かれたそば猪口。 一説によると「砂場いづみや」はそば猪口を特注していたともいわれ、この二種類のそば猪口もわざわざ店名入りで作らせた物と考えられる。
「柳と砂」の猪口については、表面の「岩と柳の木、口縁からたれる柳の葉、根元に草花」の図柄と、底部(見込み)の昆虫文までがまったく同じで、裏面の丁度「砂」の字がある場所に鳥の絵が描かれた猪口の例がある。従って元々あった図柄の鳥の部分を店名の「砂」とさせたのか、逆に元々は砂場特注の図柄であったものが一般に出まわったものかは分からないが、ここに掲載したのは大阪で見つかった「江戸時代 砂場のそば猪口」である。猪口の形や技法からは18世紀中頃のものに共通すると思われるが、残念ながら素人で判断が付かないが、いずれにしても江戸時代中期以降のものであろう。
su15  砂場津の国屋の店先 嘉永2年(1849)刊行の「二千年袖鑒」によると、天正12年(1584) 、大坂 でそば屋の砂場・津の国屋が開店したとある。「すなば」の暖簾が見える津の国屋の店先と「天正十二 根元そば名物 砂場 二百六十五年 吉田氏 出所 泉州東畑村」と読みとれる。時代は、秀吉がほぼ天下を掌握して大坂城の築城を始めたのが天正11年である。いまの西区新町にあって「大坂城築城の砂や砂利置き場」で通称「砂場」と呼ばれ、そこにあるそば屋も「すなば」と呼ばれた。
su16  砂場会
    砂場長栄会
江戸時代からでは、江戸の麹町砂場が南千住の方に移って「砂場本家」を名乗り、久保町砂場は移転の後に天保10年(1839)巴町砂場を名乗って現在に至っている。 昭和8年に砂場長栄会が結成され同30年に「砂場会」と改称している。「すなば物語」坂田孝造著が発刊された昭和59年頃の会員店舗数は182と記されている。
su17  砂場のつゆ 江戸そばのつゆで比較されるのが「薮のつゆ」「更科のつゆ」それに「砂場のつゆ」である。一般的な表現をすると「薮の辛つゆ」「更科の甘いつゆ」「砂場はその中間」などともいわれる。勿論この場合の辛い・甘いは、塩分や糖分の問題ではないし単純に味の濃い・薄いでもないから説明はむつかしい。
su18  すなば物語 当時の東京では、そば屋の始まりは江戸で「そばは東京にかぎる」としていた風潮のなかにあって、大坂の「砂場」が全国のそば屋の始まりであるという観点から、坂田孝造氏が埋もれた史料や文献を掘り起して「大阪のそば四00年 すなば物語」を昭和59年に出版した。
su19  すばる
   すまる
古来から星は、規則正しく季節や時刻を教えてくれることからも、農業に携わる人達にとっては貴重な存在であった。牡牛座にあるプレアデス星団を日本では昴(すばる・すまる)と呼び、その高さで蕎麦蒔きや麦蒔きの時期を知るための重要な目印とされてきた。そば蒔きの時期を表した諺(ことわざ)に「すまる、まんろく粉八合、頭巾落しの粉一升」とあり、「すばる」が夜明け方に南中したときにそばを蒔くとよく実り、一升の実から八合の粉がとれ、さらにまんろくが西へ過ぎ、頭巾がすべり落ちるほどの高さに達したときに蕎麦を蒔くと、一升の実から一升の粉が取れるという。*「粉八合」の項参照。
su20  すり包丁 そば包丁の独特の使い方で、包丁を前方に押し出すようにして生地を切る方法。また、生地が柔らかいときにも適している。これにたいし、そば生地が硬いときや、太打ちのときには「落とし包丁」といって包丁を真下に落とす切り方をする。初心者にとっては、要領をつかむまですり包丁はむつかしく落とし包丁のように押切をしてしまう傾向にある。*「落とし包丁」の項参照
su21  ずる玉 そばを打つ最初の工程の「水回し」で、承知の上で加水量を増やして軟らかくしたそば玉のこと。軟らかいので捏ねも延しも楽だが、打ったそばには艶がなく茹でても美味くない。意図的に楽をしようとするズルからきた職人言葉である。 これとは別に「切らず玉」という言葉がある。これは加水に失敗して軟らかくなり過ぎたそば玉。やむを得ずそば粉かつなぎ粉を入れて作業を続けて打ち終えるが、美味しいそばにはならず、そばのつながりも悪いため茹でたときにそばが切れてしまう。 これなら、初めから「切らずに捨ててしまった方がよい」という意味。
su22  すんきそば 長野県木曽地方の郷土そば。この地域の伝統的な発酵食品で、すんき菜(カブ菜)を無塩乳酸発酵させた独特な酸味を持つ冬季間の漬物。これを細かく切って温かいそばに載せよく混ぜて食べる。そばに入れて「すんきそば」で、みそ汁に入れた「すんき汁」、鰹節と醤油を混ぜるなどの郷土食。
     
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