[ そ ] - そば用語の解説一覧 
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so 1  ソーキそば ソーキは沖縄の方言で、豚のあばら肉(スペアリブ)のこと。これを煮込んだ大ぶりのソーキを沖縄そばに盛り付けたもの。沖縄そばそのものではない。もちろん、「(沖縄)そば」にはそば粉は使われていない。*「沖縄そば」の項参照。
so 2  雑司ヶ谷鬼子母神 「薮」という名称の興りはこの鬼子母神の辺り。江戸・雑司ヶ谷鬼子母神の近くのやぶのなかにあった百姓家の「爺が蕎麦」は、初め「薮の内」とも言われたそうで、名物だったので一時期藪蕎麦を名乗る店があちこちに現れている。「蕎麦全書」でも藪の中爺が蕎麦として登場している。[画像]は、享保年間(1716-1735)刊行の「江戸名所百人一首(神社仏閣江戸名所百人一首)」で、上句に小倉百人一首の一部を入れ、下句に江戸であったこのそば屋を入れている。
so 3  総本家河道屋 京都はそば粉で作った蕎麦菓子が有名で、享保年間(1716〜35)創業の菓子職「総本家河道屋」は「蕎麦ほうる」の元祖。「晦庵河道屋」は江戸時代からそば屋も営む。比叡山延暦寺は5月17日に桓武天皇御講をおこなうが、河道屋の当主が毎年登山して手打ち蕎麦を献供することになっている。
「京都では、その昔、菓子屋には寺院から蕎麦(切り)の依頼があるので、どの菓子屋も蕎麦が打てなければならなかった。上手く蕎麦を打つ菓子屋が良い菓子屋ということになり、蕎麦打ちの技量によって菓子屋の評価が左右された。」という。これは、河道屋15代主人から実際に聞いた話である。なお、明治28年に植田安兵衛先々代が「蕎麦志」を刊行していることでも知られる。
so 4  総本家更科 この更科は大阪の話である。新世界・通天閣本通商店街に明治40年創業という「総本家更科」がある。大阪には「更科」を名乗るそば屋が多く、特徴的なのは、東京の「更科」とは異なるイメージで、大衆・庶民的な雰囲気が感じられるのが大阪の「更科」各店に総じて共通するイメージである。大阪の元「更科」で異色といえるのは「なにわ翁」で、先代までは「老松町更科」であった。
so 5  総本家更科堀井 寛政2年(1790)、江戸の麻布永坂に「信州更科 蕎麦処布屋太兵衛」が始まる。信州更級郡の反物商として保科家の江戸屋敷に出入りし、得意のそば打ちで代々殿様にそばを献じていたことに始まったというのはよく知られる話である。その後変遷があって、「永坂更科」や「布屋太兵衛」の登録商標がそれぞれ分離されたが、昭和59年に改めて麻布十番に「総本家更科堀井」が再開される。現在は「総本家更科堀井」「永坂更科布屋多兵衛」「麻布永坂更科本店」の屋号がある。
so 6  索麺 素麺のこと。表記は索麺・素麺、訓み(よみ)はサウメン・ソウメンである。素麺もうどんも室町時代に入って頻繁に現れるが、うどんは表記と訓みともに多く室町時代の古辞書である節用集や庭訓徃来などによると、表記は饂飩・温飩・武飩・烏飩など、訓みもウトム・ウトン・ウドン・ウントン・ウンドンなどがある。
so 7  素麺供御人 供御人(くごにん)は中世、朝廷に属して山海の特産物などの食料や各種手工芸品などを貢納した集団。後に、扱う物品の独占販売権を取得した供御人や座が作られるようになった。京都や奈良では、鎌倉時代、さらに室町時代の初めにかけて朝廷や貴族・寺社の支配を背景にした供御人や座が次第に独占販売権を持つに至る。東山御文庫記録にある素麺供御人や、中御門家の素麺座、奈良・興福寺の素麺座などが挙げられる。
so 8  素麺公事 史料として「素麺」の文字が初めて登場するのは、京都・八坂神社の「祇園執行日記」である。康永2年(1343)の記録で、「自丹波素麺公事免除之間、一兩年不上、仍素麺儀沙汰之、坊人宮仕等少々來」とあって、ここに「素麺公事」も登場する。寺領や荘園への課税は公事であり、祇園執行日記に記録されている「素麺公事」もその一種であろう。このことから、この史料は素麺の初見であるとともに、すでに素麺はこの地域の特産品になっていたことがわかる。*「八坂神社」は明治以降の社名で、元々は「祇園社」であった。
so 9  素麺の初見 文献に素麺が登場する初見は京都・八坂神社の「祇園執行日記」で、康永2年(1343)の記録である。「素麺公事」の項参照。*これより前の歴応3年(1340)に書かれた公卿の日記「師守記」に「麦麺」があり、これを「そうめん」と解する説もあるが、ここでは、「素麺」または「索麺」の表記を採用した。
so10  素麺座 京都や奈良では、朝廷や貴族・寺社の支配を背景にした供御人や座が多く作られて、次第にそれぞれの独占販売権を持つに至る。素麺についても中御門家の素麺座や、奈良・興福寺の素麺座などが活動した。なお、座に対する課税は座役や座銭がかけられた。
so11  素麺屋彦二郎 「中世の惣村と文書・田中克行著」によると、文明12年(1480)〜文亀2年(1502)の頃、近江国浅井郡坂本の素麺屋彦二郎(長通入道)は京都の荘園領主・山科家の供御年貢を取り扱う任務を請け負っていたとある。独自の流通経路を持った「素麺屋」が登場していたことがうかがえる。
so12  即座けんどん 「けんどん」には諸説あるが、寛文4年(1664)「むかしむかし物語」や天保8年(1837)起稿の「守貞謾稿」に、けんどんうどん・そば切りというのができ、下賤な人たちしか食べなかったとある。「愛想もなく、盛り切り一杯」のけんどんそばにたいして「二八即座けんどん」は従来の一杯きりの無愛想な商法に対して、愛想良くお替わり付きで十六文としたとする説もある。*「けんどん けんとん」の項参照
so13  外二(そとに)
     そとにはち
そば粉が10で小麦粉が2の配合比率のこと。「そば粉対つなぎ」を「8:2」とか「7:3」にしたのが八割りそば(一般的に二八そば)とか七割りそば(七三)であり、または「10:2」「10:3」などの配合比率にしたものを、外二(そとに:10+2)、外三(そとさん:10+3)などと言っている。 従って、そばを打つ粉の総量を仮に1キロとしてそば粉800gと小麦粉200gが八割そば(一般的に二八そば)で、1キロのそば粉に200gの小麦粉を加えた場合は外二(そとに・そとにはち)である。
so14  ソバ そば 蕎麦 @カタカナ、ひらがな、漢字で書き分ける場合、その多くは、植物や農作物、種子及び穀類などには「ソバ」を、歴史や文献、特に漢文体、店名・地名・山名などの固有名詞などは「蕎麦」を、それ以外は「そば」を使う場合が多くみられる。
Aソバはタデ科ソバ属の植物で、普通ソバ(通常は単にソバという)とダッタン(韃靼)ソバ(別名、苦ソバ)に大別される。これらはいずれも一年生草本であるが、普通ソバは自家不和合といって虫媒による他家受精植物であるのに対してダッタンソバは自家受精植物という遺伝的な違いが認められる。さらに、ソバにはこれ以外に野生種もあって、そのひとつに宿根ソバ・別名、シャクチリ(赤地利)ソバがあり多年生である。
B普通ソバの原産地については、1990年に中国・雲南省でソバの野生祖先種が発見され、その後も、四川省、雲南省、チベット自冶区の境界地域や東チベットの地域などでも発見されていて、中国の西南部の比較的狭い地域だとするのが有力となっている。
so15  曽波 元禄10年(1697)刊行の「本朝食鑑」には、「蕎麦  曾波と訓む。久呂無木ともいう。」とある。 古来から蕎麦の和名は、曾波牟岐(そばむぎ)または久呂無木(くろむぎ)といい、「そば」は古名「そばむぎ」の略。平安時代の書物から見ると、「本草和名」では「喬麥 和名:曾波牟岐」(喬の字の呑が右)とあり、「和名類聚抄」では「蕎麦 和名:曾波牟岐 または久呂無木」とある。南北朝時代に書かれた「拾芥抄(しゅうかいしょう)」という中世の百科事典ともいわれるなかに、「合食禁(食い合わせ)」として挙げられたいろいろな食物のなかに「喬麥(ソバ)」が登場するが、すでにこの時代、和名は付されていない。
so16  そばアレルギー そばを食べたときにアレルギー症状をおこすのをそばアレルギーというが、そば麺を食べていなくても、そば粉の混入した菓子や冷麺などでも症状がでることもある。その症状はさまざまで、皮膚、粘膜、消化器、呼吸器などの異変や、時にはショック症状やアナフィラキシー反応がでることもある。アナフィラキシーとはアトピーの中で最も重症な急性アレルギー反応のひとつで、時には意識障害や血圧低下などによる循環不全状態を起こすので、アナフィラキシーショックともいい致命的となることがある。(そば打ちをして帰宅し、その衣装のままで幼い孫を抱いたところ、孫が強いアレルギー症状をおこしたという身近な友人の体験談を聞いたこともある。)
so17  蕎麦板 寛正6年(1465)創業という京都の菓子司・本家尾張屋の蕎麦菓子。そば粉・小麦粉・(抹茶)・砂糖・卵・少量の塩を練り上げて短冊形に焼いた菓子。江戸時代には「御用蕎麦司」もつとめ、(京都)御所に手打ちのそばを届け、ときにはそばをつくりに伺うという、いわゆる宮内庁御用達のそば打ちをつとめたことになる。
京都はそば粉で作った蕎麦菓子が有名で総本家河道屋の「蕎麦ほうる」や京都井筒屋の「如心松葉」なども本家尾張屋の「蕎麦板」とともに蕎麦の味を生かした京銘菓である。
so18  蕎麦打ち 手打ちそばを作ることをいうが、麺棒を軽くそば生地に打ちつけながら延していく時の音からとする説がある。版行年はわからないが寛文(1661〜73)や元禄以降(1688〜)との説がある仮名草子「酒餅論」に、手打ち「そば打つ所」と題した挿し絵が描かれている。おそらく「そば打つ」という表現の初見ではなかろうか。また、この「酒餅論」に描かれた包丁と、元禄9年(1696)刊の「茶湯献立指南」という料理本に初めて「蕎麦切包丁」の図が登場するがそれと同一形状である。現在とは形状は異なるがそば切り包丁としての初見であろう。
so19  そばを踏む うどんを打つ場合、「足で踏んで、寝かす」工程が入るが、そばには「踏む」という工程は通常は入らない。しかし、かつては水回しが終わってまとめたそば玉を布で包み、ムシロを掛けて踏む作業はめずらしいことではなかった。では、なぜ今は踏まなくなったのだろうか? 考えられるのは、玄ソバとそば粉それぞれの鮮度保持が格段に良くなって木鉢の作業がしやすくなったのではなかろうか。だから、素人でも経験をつめば2kgくらいまでは踏むまでもなく水回しや捏ねに支障が生じない。それと、最近は5キロ玉などを打つ場面に出くわさなくなった。要するに、そばを踏む必要が日常から無くなったのではなかろうか。
so20  蕎麦尾分 岡山県苫田郡鏡野町蕎麦尾分。地名の残存率はきわめて高いとされているが、現時点わかる範囲では蕎麦にまつわる地名は全国で10ヶ所であり、山の名前は8山、沢の名前が1ヶ所となる。「蕎麦尾分」(そばおぶん)は、「日本歴史地名体系(平凡社)」によると、鏡野町山城村は、吉井川右岸に位置する。山城村村名の由来について作陽誌に「葛下城在此地 峭壁峻峙 故名村」とあって「峭・壁・峻・峙」はたかく・けわしくそばだった地形を表していて、その分郷に蕎麦尾分があり、文政元年(1818)の津山領郷村帳では本村分279石・蕎麦尾分73石余となっているが、明治5年に合併して山城村となっている。
so21  蕎麦覚書 愛知県尾張一宮にある妙興報恩禅寺は室町時代の開山で、ここには慶長13年(1608)6月21日と記された「妙興禅林沙門恵順 寺方蕎麦覚書」があって恵順という僧侶によって蕎麦の調理法が書かれているという。ただ、この史料は公開されていないために評価は得られていない。
so22  そば街道 山形県・内陸部では最上川沿いにそば屋が建ち並びそば街道と名付けられるようになった。元々この地域では郷土の田舎そばがあって、3〜5人前の太くて噛みごたえのある蕎麦を長方形の箱板にならすように平たく盛った「板そば」があった。板は 山形市など内陸部では「へぎ」、庄内地方では「そね」と呼ぶ。文久元年(1861)創業という天童の「水車生そば」では板そばの元祖という。
so23  そばがき 蕎麦掻き そば粉に熱湯を加えて練り上げる。または、水を加え加熱しながら練り上げる。そば粉と水の量が同量が良いとされるがそれぞれの好みで、少し水が多いと掻きやすい。粉食の方法としては最も単純で古くから各地で行われ、その食べ方も呼び方も各地それぞれである。
so24  そばかっけ 三角形に切ったそばのかっけを鍋仕立てで煮て、にんにく味噌かネギ味噌で食べる。南部藩時代からの郷土料理で「かっけ」は「かけら」で、そばを切ったときの切れ端のことというのが一般的な説だが、社団法人 八戸青年会議所のサイトによると南部弁の「か、け」すなわち「かぁ、けぇ」(さぁ 食べなさい)からとする説もあるそうだ。三角形のかけらは、江戸時代にそば切りは贅沢だと禁止されたところからともいう。
so25  蕎麦ヶ岳 山口県山口市には「蕎麦ヶ岳」(そばがだけ)があり頂上から山口市が一望できる:556m。山の険しい形状がソバの実の黒褐色で、三本の稜線で三面がそば立っている姿と似ているところからつけられたもので各地に蕎麦のつく山名が8山ある。
so26  蕎麦角山 各地に蕎麦のつく山名が8山ある。「蕎麦粒山」(そむぎやまは)岐阜県・揖斐郡奥美濃の高峰から見ると蕎麦の実のような三角錐:1297m 。「小蕎麦粒山」:1230m 。「蕎麦角山」(そばかどやま)富山県岐阜県の岐阜百山のひとつ:1222m。「蕎麦角山」(そばかどやま)山梨県大菩薩嶺の北から鶏冠山に連なるところ蕎麦の稜線を思わせる三角錐:1460m。
so27  そば釜
   茹で釜
そばを茹でる専用の釜のこと。そば釜は、底の中央から外れた場所に局部的に火をあてる構造で、湯が返り、対流がおきるように作られている。一般的には、湯は手前から奥へ向かって流れ、できるだけゆっくりと大きな輪で釜一杯にまわるのが良いとされている。これに対し、炊飯用の釜の場合は、釜の底の中央部に火が当たるので、湯の対流は中央部から四方に広がる。そばが絡んだり切れやすくなるので、このような構造の釜をそば屋では「馬鹿釜」といった。
so28  そばがゆ ソバを米に見立てて粥にしたもの。京都では、古い宮中の御所言葉に「薄墨」という女房詞(にょうぼうことば)があって、「そばがゆ」や「そば湯」は「うすずみ」と呼ばれていた。そば粒の粥やそばを茹でた湯の淡い色合いをいかにも京らしく表現した言葉である。秘境として知られた四国の祖谷は米がとれず、昔からソバを米に見立てて重宝した土地柄でもある。そば粥に具を入れ、味噌で煮込むと雑炊で、祝い事にはそば米の雑煮を炊き、普段の日にはそば米の雑炊を食べる。ロシアや東ヨーロッパの粥「カーシャ」はよく知られている。
so29  ソバ殻 かつて枕に入れたソバ殻だが、最近は枕用の需要は減少し、大量のソバ殻が産廃として処分されているのが現状であった。そのため燻炭にしての土壌改良材への取り組みや牛舎の敷料、菌床(オガ粉)へのソバ殻混入など様々な活用法が研究されている。また、ソバ殻に含まれるカフェー酸にも注目が集まりアブラナ科野菜の根こぶ病を抑える効果も期待されている。
so30  蕎麦の辛味汁 昔、信濃では、辛みの強い大根にネギを挟んで下ろし、これを味噌に加えて延ばし蕎麦つゆとした蕎麦の辛味汁があったという。高遠の「蕎麦の辛味汁」と、会津の「高遠そばの食べ方」さらに三丹地方の「若狭汁」や越前の「そばの食べ方」もすべて大根の絞り汁という古い時期の共通性が窺える。寛永13年(1636) 中山日録に書かれた木曽・贄川宿の記録「蕎麦切ヲ賜、・・・蘿蔔汁ニ醤ヲ少シ加ヘ、鰹粉・葱・蒜ヲ入レ・・」とも共通し、信濃諸国の古くからのそばの食べ方であった。
so31  そば瓦版 大阪在住の新聞記者で、そば研究家の坂田孝造氏が毎年春秋二回発行していたそば関係の小冊子。そばに関する歴史資料や文献、そばの浮世絵などを研究され「関西そば製粉組合」が昭和44年に、山本重太郎氏(大阪・阿倍野の風流田舎そば)の所蔵するなかからそば浮世絵集を出版した際にも、坂田氏がその編集・監修を務めた。
so32  そばきい 鹿児島では、「そば」のことを「そばきい」という。「そば切り」の方言。鹿児島の方言では「まな板」は「キイバン」というが「切り板」のこと。「聞き書 ふるさとの家庭料理 第20巻 日本の正月料理」によると、鹿児島・川辺郡笠沙町片浦では年越しそばについて「年の晩にはそばきいを打つ ねぎとミカンの皮を刻んだものをのせて汁をかける」とある。
so33  ソハキリ
 そば切り初期の記録
そば切りが登場する初期の記録はすべて「ソハキリ」と書かれている。天正2年(1574)定勝寺の古文書、慶長19年(1614)慈性日記、元和8年(1622)松屋会記、同10年資勝卿記、などはすべてソハキリである。その後、寛永13年(1636)の 杏庵紀行(中山日録)は漢文体なので「蕎麦切」である。
so34  そば切り 古くからソバ粉(粉食)で作るそば掻きやそば団子などは「掻き」や「団子」をつけたのと同様に、包丁で切って作るそば切りにも当初は「切り」を付けて「ソハキリ」または「蕎麦切」であった。これと同じように、包丁を使って小麦粉で作る麺にも「切り麦」がある。その後、江戸時代の中期以降にそば切りの需要が急増し、そば粉料理の中でもそば切りが突出したために、次第に「切り」が省かれてしまったのであろう。多くの料理名がそうであるように、例えば「うどん」という呼称自体が原材料名とは独立した料理名だから、当初から「切り」や「延し」を付ける必要がなかった。穀物(米、小麦、ソバなど)の名前がそのまま料理の名前として通用している例は「そば」以外にはないのではなかろうか。
so35  そば切屋
   蕎麦切屋
江戸時代中期、江戸では少し前頃から、うどん主流からそば嗜好に替わりつつある時代で、そば切屋(そばが主の店)と、麺類屋(うどんやにうめんを多く扱う店)が混在し分化していく時期でもあった。史料や文献に登場する「麪店家」とあるのは後の「うどん屋」で、「蕎麦切屋」は「そば屋」である。
so36  蕎麦切新田 蕎麦のつく地名。長野県上水内郡信濃町柏原といえば小林一茶の故郷として有名で、しかも良質のソバが穫れることでも知られる。中田敬三著「信州そば辞典」によると、ここに「蕎麦切新田」という地名があって、江戸時代、参勤交代で柏原を通る大名への献上そばを栽培したことによる地名だという。
so37  蕎麦切り発祥の地
  江戸期に出た説
江戸時代、「蕎麦切り発祥の地」と書かれた地域が二ケ所ある。すなわち、信州・中山道本山宿と甲州・天目山棲雲寺である。尾張藩士で国学者の天野信景が江戸中期に出した雑録(随筆集)・「塩尻」の巻之十三宝永(1704〜11)のなかに、「蕎麦切は甲州よりはじまる、初め天目山へ参詣多かりし時、所民参詣の諸人に食を売に米麦の少かりし故、そばをねりてはたことせし、其後うとむを学びて今のそば切とはなりしと信濃人のかたりし。」としているのが甲州説であり、一方の信州説は彦根藩井伊家の家臣で、松尾芭蕉十哲の一人でもあった森川許六が芭蕉門下の文章を集めて宝永3年(1706)に編纂した俳文集「本朝文選」、後の「風俗文選」で、「蕎麦切といっぱ もと信濃の国本山宿より出て 普く国々にもてはやされける」とした雲鈴という門人の説を紹介している。ただ、双方共に裏付けとなる記録などは見あたらず、単にその当時の伝聞を書きしるしただけのものとの評価に止まっている。
so38  蕎麦切舟
 そば切り売り舟
その昔、淀川は京・大坂間の重要な水路で、多くの人や荷物の輸送に三十石船が活躍していた。その三十石船に漕ぎ寄せて飲食物を商う小舟を「くらわんか舟」とか「荷売舟」「貨食舟」と言い、様々なものが売られた中の変わり種として「蕎麦切舟」があり、乗船客にうどんやそば切りを売り回ったという記録が元禄16年(1703)刊の「立身大福帳」に書かれているという。一方、江戸の隅田川でもそば切り売りの舟が活躍したという。「うろうろ舟」といわれる料理舟で屋形船の間をうろうろと売りまわる。餅売、酒売、まんじゅう売、でんがく煮売、さかな売、冷水冷麦ひやし瓜、そば切り売りなどの舟がいた。という。
so39  そば切り包丁
  蕎麦斬包丁
江戸時代初期から後期のすこし前の文化4年(1807年)までに登場する「そばを切る包丁」には、現在私たちが使っている「そば切り包丁」の特徴である「刃が柄の真下まで伸びた(柄が刃の中心付近まで侵入した)もの」は見あたらない。現在のような形状は文政(1818)か天保(1830年)以降の出現であろう。「そば切り包丁としての初見」は、元禄9年(1696)に書かれた「茶湯献立指南」という料理本に包丁拾弐扱之図、すなわち12種類の用途別包丁が描かれ、その中の包丁「蕎麦切」である。さらに、ほぼ同じ頃の元禄15年(1702)「羮学要道記」にも「蕎麦斬包丁」があるが、いずれも基本的には、現在のような特化は見られない。双方とも「酒餅論」寛文(1661〜)・元禄以降(1688〜)に見る包丁の形状や重量感と極めて似ている。
so40  蕎麦禁断 江戸のそばの歴史に「蕎麦禁断の碑(不許蕎麦入境内)」というのがある。浅草新寺町の称往院という寺の院内にあった道光庵は、いつの頃からか信州・松本から来た庵主がそば打ちの名手で評判になる。寺でありながら振る舞うそばが評判になりまるでそば屋の如く大繁盛したという事例がある。やがて道光庵は称往院によって天明6年(1786年)に三代で蕎麦禁断の石柱を立てられる。その後、道光庵の評判と繁昌振りにあやかろうとそば屋の店名に庵をつける現象があらわれた。そば屋「庵号」の始まりである。称往院は昭和2年に現・世田谷区烏山寺町に移転し石柱とともにある。
so41  蕎麦喰地蔵 江戸時代、浅草広小路にあったそば屋・尾張屋に夜ごとそばを食べにくる僧がいて、主人は手厚くそばを振舞っていた。ある夜、そっと後をつけてみると誓願寺西慶院の地蔵堂に姿を消した。その夜の夢枕に現れてそば振舞の礼と一家を守ることを告げたという。尾張屋はその後も地蔵にそばを供えて、一家は栄えたという。この話がつたわって、地蔵尊にそばを供養するようになって蕎麦喰地蔵尊として有名になったという。明治時代に西慶院は同宗門の九品院と合弁し、関東大震災後に地蔵尊共に練馬の九品院に移っている。
so42  蕎麦喰木像 京都・三十三間堂の東側にある法住寺という寺には親鸞自作の坐像と伝わる木像があり「親鸞蕎麦喰ひ像」ともいう。親鸞が28歳で範宴と呼ばれ比叡山で修行していた建仁元年(1201)の頃、毎夜山を下って京都の六角堂に百日間の参籠をして明け方に山に戻ることに「範宴の朝帰り」と不審を持った僧侶達の告げ口により、師匠は夜中に蕎麦を振舞うことにしてたしかめようとした。その時、範宴自作の木像がそばを食べて身代わりを務めたという伝説がある。なお別に、範宴(親鸞)が比叡山で修行したのは無動寺谷大乗院で、この寺には今も「蕎麦喰ひ木像」が本尊の阿弥陀如来と共に祀られているという。*そば切りの年代からは「蕎麦掻き」などであろうか。
so43  そば喰い大会 各地のそば祭りやそばのイベントでは大人から子どもまで人気の催し。出石名物そば喰い大会(兵庫県豊岡市出石町)は「皿そば」を何枚食べられるかで競い合う。現在の大会とは趣きを異にするが江戸時代にも「大酒大食之会」などがあり、その中にそばの大食いも登場している。天明7年(1787)に描かれた黄表紙「是高是人御喰争」(ミクライアラソイ)にはそばかうどんを打っている絵が描かれていて、そばの大食い競争のことであろうか?
so44  蕎麦釉   (そばくすり) やきもの(陶芸)の用語。素焼きした陶器の表面に釉掛け(くすりがけ)をして焼き、黄緑色や黄褐色を帯びた暗緑色の釉上に砂状の黒い小斑点のある釉薬の肌が蕎麦に似ているのを蕎麦釉という。焔によって釉色が青味が勝ったのを青蕎麦、黄味が強くなったのを黄蕎麦と呼び分けてもいる。
so45  そばクレープ ブルターニュ(フランス)地方が発祥といわれ、そば粉で作った薄いパンケーキの料理。クレープ(砂糖味)とガレット(塩味)がある。クレープで巻いたり、折ったりして様々な具材を包むので和風でも洋風でもそれぞれによく合う。
so46  ソバ 国別輸入量 財務省「日本貿易統計」よりみた2009年度の玄ソバの国別輸入量は、総輸入量59649トンである。国別では圧倒的に中国が多く43654トン、次いでアメリカが15219トンであり、それ以外はカナダが337トン、その他439トンとなっている。これに対し2014年の総輸入量91760トンで、中国7357トン、アメリカ9907トンに続いてロシアが6715トンと増加し、その他で1567トンとなっている。
特記すべき事項として近年、中国からの輸入は、玄ソバの輸入が減少し、抜き実(むき実)の輸入が増加している実態が続いていて、例えば2009年には左記以外に31235トンの抜き実があったと推定される。その後、2010年1 月より、玄ソバの「そばの実の輸入(殻付)」に加え、ソバの「抜き実」の輸入についても推計できるようになっている。※2014年(平成26年)の総輸入量91760トンの内訳について、横浜税関の資料「そばの実の輸入」によると、殻付き:49924トン  むき実::41836トンであり、このむき実:41836トンを殻付き(玄ソバ換算)とした場合の換算率70%で割り戻した値は:59766トンに相当する。すなわち、玄ソバ換算によるソバ輸入総量は:109690トンと推計されることになるという。
so47  蕎麦窪 「蕎麦窪」は、江戸時代にあった「馬橋村の小名(字)」。東京都杉並区阿佐谷南にあったが残念ながら現在の地名には残っていない。延宝2年(1674)の縄打帳によると、馬橋村には田方(水田)が14ヶ所、畑方35ヶ所があってそのいずれにも「蕎麦窪」という小名(字)が記録されている。以上は馬橋稲荷神社のサイト「馬橋の歴史と地名」のなかに記されている。窪地のために主要な作物には適さず蕎麦の栽培を主に行ったのではなかろうか。
so48  そば粉 そば粉は挽かれたそのときから時間経過とともに脂肪酸度も高くなって劣化し、鮮度が落ちていく。良質のそば粉であっても、入手後の保管はできるだけ空気に触れないように密閉し、低温での保管を心がけることが求められる。だから、取り寄せたそば粉は出来るだけ早く使い切ることが肝心で、小分けして使う場合もできるだけ外気に触れないように密閉することと、冷暗所で保存することが大切である。そば粉の選択は、まず、産地にこだわることよりも「挽きたて」かどうかという鮮度に関心をおくことが大切である。
so49  「そば粉」の入手 多くの地域では、そば粉を簡単に入手することは難しい。特に、趣味でそば打ちを始めた素人が「比較的身近で、しかも少量のそば粉」がいつでも容易に入手できるという環境は少ない。国内産玄ソバには地場で消費されるものもあるが、大半は農業協同組合が集荷し問屋を通じて製粉業者に、外国産は輸入商社が輸入して製粉業者に売り渡される。そしてそれらは製粉所でそば粉にされる。多くのそば製粉会社は小口の販売もするので問い合わせや取り寄せができる。
so50  そば口上 福島県・会津磐梯山の麓には、全国でもめずらしい「そば口上」が伝わっている。 「婚礼の祝い口上」は、迎える側が「そば口上」を述べながら客人達にそばを振る舞う。「祝言そば」と言われ、昔から山鳥とゴボウでとっただしで食べるそばが振る舞われる。 宴席の時も「そばのほめ口上」にのせてそばを振る舞って座を盛り上げる。時には羽織袴であったり、豆絞りの手ぬぐいを鉢巻きにして登場し、一人がお椀にそばを盛りそれに葱を立ててお盆にのせそれを持って口上を述べ、もう一人が客人のそばを持ってそれにつく。そばに立てているネギは薬味でもあり箸の代わりにして食べる「ネギ箸そば」にゆらいするそうだ。一種のハレの食文化であろう。
so51  そば粉料理 そば切りが誕生する以前から作られていたそば粉の料理は多く、そば掻きやそば団子、そば(焼き)餅、さらには東北地方の「そばかっけ」「柳ばっと」などがある。近年のそばパーティーなどで人気のそば粉料理は「そばクレープ」だろう。そばクレープに入れる具は和風でも洋風でもそれぞれによく合うのと、新鮮な夏野菜など季節の野菜との相性もよい。
so52  ソバコバ(ソマコバ)
  ソバヤマなど
九州地方の焼畑または焼畑耕作地の呼称で、植える作物の名前でよんだ。ソバを植えた焼き畑の意。かつて、日本の各地にはたくさんの焼畑があって、それぞれ地域固有の呼称で呼ばれたり地名が残っている。九州では、コバ、アラマキ、カンノ、キーノ・・などの呼称が多い。宮崎・東臼杵郡椎葉村向山日添では ソバコバまたは大根コバで一年目にソバか大根、二年目に里芋、三年目、四年目には茶を植える。ヒエコバでは一年目に稗 二年目も稗 三年目は小豆  四年目には稗や粟が植えられた。熊本・八代郡坂本村市の俣ではソマコバ、カライモコバがあり、ソマコバを行うことが多かった。*コバ(木場、小場、古庭) *ソマ(熊本や大分の一部でソバのこと:古くはソマムギ)。
so53  ソバ米
  蕎麦米汁
ソバの実(玄ソバ)を煮て塩を加え、乾燥させて殻を崩さずに脱穀したものを米に見立てていう。徳島県三好郡東・西祖谷村や山形県庄内地方のむきそばは祝い事には欠かせない郷土食のひとつで、そば米の吸い物や、そば粥、そば米雑炊などがある。山形県酒田では剥きそばというが、たっぷりの水で何度か茹でて水にさらし、それぞれの味付けをして食べる。*剥きそばも同じ
so54  蕎麦歳時記 平成5年(1993)出版の「蕎麦歳時記」新島 繁著 秋山書店は、蕎麦や麺類が、古くから各地に伝わる祭事や行事、地域の生活・風習の中でどのように関わってきたかなどを歳時記風にまとめた書物。穀物としてのソバ、そば粉、またはそば切りなど、それぞれの観点から解説している書物。
so55  ソバ作付面積 わが国のソバ作付け面積を平成27年(2015)度でみると、総作付面積58千ha(内・田作面積36千ha)である。過去、百年を遡ってみると、明治30年(1897)の総作付面積173千haに対して昭和45年(1970)には19千haまで減少してしまう。一方でこの頃、コメ生産過剰が表面化し始め、減反政策がとられ休耕田でのソバ作付が始まっている。昭和55年(1980)総作付面積24千haの内・田作面積16千haが登場する。以上は農林水産省「作物統計」による数値。一方で、統計資料に現れない「焼畑でのソバ作付」があった。近世以前の焼畑面積は240千haであったが昭和に入って激減し消滅してしまった。
so56  そばサラダ そばを打って試食会をしたりそばパーティーなど、そばの食べ方は多種多彩である。そばサラダは手間をかけず意外性もあって喜ばれる一品になる。茹でたそばとドレッシングは相性が良く、もちろん蕎麦つゆでも良いので「そばサラダ」がおすすめである。季節の野菜などとの取り合わせも楽しめる。
so57  蕎麦志 京都の総本家河道屋・植田安兵衛13代当主が明治28年(1895)に刊行した江戸時代からのそばについての書物。例えば、諸国の蕎麦産地について、全国どの地域も産出するが品位に大きな差異があり、著名な地域として十七の産地をあげている。東日本では 信濃国、武蔵、上総、常陸、下総、下野を、西日本では近江、山城、丹波、河内、摂津、阿波、紀伊、石見、備後、薩摩、対馬をあげている。「総本家河道屋」は享保年間(1716〜35)創業の菓子職で「蕎麦ほうる」の元祖。そば切りは「晦庵河道屋」が営む。
so58  ソバ自給率 2013年の国内産ソバ生産量33千トン、国内消費仕向量141千トンからソバ自給率は23%と推定される。
日本のソバの自給率については、年度による変動はあるものの2000年以降はおおむね20%〜23%で推移していたが、近年になって14%とか34%といった異常値がみられるようになっている。考えられる要因のひとつに「外国産ソバ輸入量」の把握の実態があって、従来のソバ輸入量は輸入統計品目「そばの実(殻付)」すなわち玄ソバの重量とされていたが、近年、殻を取り除いた抜き実の状態で輸入される割合が増えていて具体的な数量が把握されない現象があらわれていた。2010年(平成22年)1 月より対策として、「抜き実」の輸入量も推計できるように措置がとられた。すなわち、そばの実(殻付・玄ソバ)と抜き実(むき実)という重量の異なる外国産ソバが統計として混在することになった。
自給率の計算は国内生産量÷国内消費仕向量であり、国内消費仕向量とは国内生産量+輸入量(−輸出量)±在庫増減量であるが、実態が把握できていなかった抜き実(むき実)が存在したこと、今は殻付重量と裸になった軽量の抜き実の混在がソバ自給率の実数をわかりにくくしている。
so59  蕎麦地蔵 葛飾区柴又の薬王山医王寺にある蕎麦地蔵。後にこの寺の住職になった室町時代の僧が高野山の本堂復興の勧進で四国遍路の途中で病にかかり、その時、村人から恵比寿像とそば粉をもらって病も癒え修行を満願した。その後そばの効用を説いたと伝わることから、昭和になって東京の麺類組合が蕎麦地蔵尊を安置したという。当時はそば屋の参詣も多かったようだが、今は柴又七福神巡りの恵比寿天の方が地元では知られていて、そば地蔵はひっそりとたたずんではいるがそば寺の面影がないのが残念である。
so60  蕎麦七十五日 ソバは生育が早いことを言い表した言葉。種を蒔いてから収穫するまでの期間を「蕎麦75日」とも言って、早い場合には60日くらいで収穫できる。 したがって、刈り入れの時期から逆算して種を蒔き、一週間ほどで芽が出そろい、ひと月もすると開花する。しかも水はけさえ良ければ痩せた土地でもよくて肥料もほとんど要らず、連作もいとわないし、場所によっては年二回は収穫出来るなど丈夫な作物である。昔から、「蕎麦は土地の肥痩(ひせき)を論ぜず 一候七十五日にして実熟し 凶荒の備えには便利なり」と言われて、旱害対策用の穀物としての役割も果たしてきた。
so61  蕎麦しゃぶ
   蕎麦すき
「蕎麦しゃぶ」も「蕎麦すき」も要領は同じで、旬の魚介と野菜類を組み合わせた鍋料理だが、食べ始めと終わりころに、茹でておいたそばを各人がさっと鍋に通して「そばの食感を楽しめる」ようにするのがポイント。すこし硬めに茹でたそばを一口分量に小分けに盛り付けておき、人数分の小ぶりの振りざるを用意しておいてそれぞれがさっとゆがいて食べるなど、そばの料理を印象付けられる。
so62  蕎麦焼酎 「蕎麦焼酎」の歴史は案外浅い。昭和48年(1973)に宮崎県の五ヶ瀬酒造がソバを主原料とした焼酎を開発し、「そば焼酎 雲海」を発売したのに始まる。現在の雲海酒造。これが都市部を中心に広がり、いまでは他県でも多くの銘柄が生まれている。そば焼酎は焼酎の中でも癖がなく飲みやすいのと、そば湯との相性も好まれて、昨今ではそば屋の定番になってしまった感がある。
so63  そば資料館 そばとの関わりが深かった地域や、そばによる地域おこしに取り組む活動の一環として、郷土そばの歴史やそば文化資料、またはそばの打ち方、そば料理、さらに、ソバの栽培から収穫などの体験教室や講座、試食会などそばに関する展示や催しをおこなう施設。一例をあげただけでも、信州・蓼科高原そば資料館・研究センター、戸隠そば博物館とんくるりん、飯豊とそばの里・山都そばを知ることの出来る資料館(福島)、南砺市・そばの郷資料館(富山)、山形市の鈴木製粉所・蕎麦碾處石臼館、日穀製粉・そばふれあい館(長野市)などがある。
so64  蕎麦寿司 海苔巻きの芯に、そばのほかに干ぴょう、椎茸、卵焼き、三つ葉などを加えたもの。または、そばだけを芯にして海苔で巻いたもの。稲荷風ではそばと三つ葉、椎茸などを油揚げで包むものや茶巾などがある。芯になるそばに薄味のすし酢をきかしたものや、そうでないものもある。品書きにそば寿司を載せている店は各地で見られる。いつ頃からそば寿司が出されるようになったのかはよくわかっていない。
so65  そばすべり 高知・高岡郡佐川町荷稲では、旧暦12月1日にそばおじやを炊いて「そばすべり」という。一種のそば米雑炊。旧暦12月1日は乙子の朔日(おとごのついたち)といって餅をついて祝う習慣があった。この日に餅を水神に供えたり食べると水難を免れるという。地域によっては、小豆餅や小豆団子、ぼた餅、団子、粥などのところもあるという。
so66  蕎麦全書 江戸中期に書かれ、この時代唯一ともいえるそばの専門書。
著者の日新舎友蕎子は自らもそばを打ち、そばに精通した江戸の住人としかわっていない。寛延4年(1751)に三巻一冊本を脱稿している。内容は、江戸時代前半の食物学事典である「本朝食鑑」を引用しながら自説を述べている。そこには、諸国のソバの産地、ソバやそば粉のこと、そばの作り方や茹で上げたそばの扱い、そばつゆの作り方や薬味、さらには江戸市中のそば屋の屋号や名目、有名店の消息、粉屋、諸国に名の通ったそば屋、など。
また、友蕎子自らは「混じりなし」のそば粉で作る蕎麦にこだわるが、市中の蕎麦切屋のそばが、小麦粉の割が多い現状を嘆いている箇所があって、いかに割粉(小麦粉)を多く入れた店が多かったか、「蕎麦切屋」と「麪店家」を区別しながら論じている。
so67  そば清 落語の演目で、上方落語の「蛇含草」が東京に移植され、「そば清」または「そばの羽織」と改題された。ウワバミがなめた「蛇含草」は消化(人間を溶かす)薬で、そばを大食いして草をなめた清兵衛さんは溶けてしまい、オチは「そばが羽織を着てあぐらをかいていた」。「川柳評万句合」明和2年(1765)に「道光庵草をなめたい顔ばかり」がある。道光庵は浅草・称往院の院内にあった寺で、そばが評判になってそば屋の如く大繁盛した事例がある。寺でありながら「そば」を目当てに集まる連中を詠んだもの。
so68  ソバ属 植物分類学のタデ科(Polygonum)のなかに位置する。
ソバ属(Fagopyrum)の代表的なものは、(普通)ソバ(Fagopyrum esculentum)、ダッタンソバ(Fagopyrum tataricum)、シャクチリソバ (宿根ソバ)(Fagopyrum cymosum)がある。植物学的特徴は普通ソバとシャクチリソバは他家受精であり、ダッタンソバは自家受精である。
so69  蕎麦祖神 奈良時代前期の第44代 元正天皇(女帝)のこと。「続日本書紀」によると養老8年7月に発せられた詔に「今夏無雨 苗稼不登 宣令天下国司勧課百姓、種樹晩禾蕎麦及大小麦、蔵置儲積以備年荒」とあり、「天候不順による旱害被害が予測されるので、晩禾(遅くみのる稲)や蕎麦、大小麦を植えて備荒対策をとるように」とあり、初めて蕎麦が記録に登場する。このことにより、昭和8年(1966)に京都で行われた全国麺業大会で同天皇を蕎麦祖神として提起するとともに崩御の日をもって祭日と定めた。
so70  そば茶 そば茶には「普通ソバ」を脱皮、焙煎加工した「そば茶」と、同様に脱皮して煎った「ダッタンソバ茶」の二種類がある。いずれにも香ばしいそば茶独特の香味がある。特に、ダッタンソバには、普通ソバに比べてルチンが数10倍〜100倍も多いことから近年、ダッタンソバ茶の健康効果が期待されて愛飲者も増えている。
so71  ソバッチョー イチモンジセセリのこと。「栃と餅」野本寛一著(岩波書店)の「主食としてのソバ」のなかに次の文章がある。長野県の南安曇山地の人びとはソバの花が満開になるとソバッチョー(イチモンジセセリ)が大群をなして飛来したと語る。そして、ソバッチョーの多い年はソバが豊作になったと伝えている。
so72  そば猪口 江戸時代の「そば猪口」は、大半が伊万里焼で、時代の古さによって姿・形が変化し絵柄や図柄も多彩である。器の大小や大振り・小振りなどおびただしい数が今に残されている。幕末から明治期になると各地で磁器が作られるようになって、大量生産ができてどれも似通った色や形のそば猪口ばかりになってしまった。古いそば猪口の大小をおおよそで見てみると口径は6センチ弱〜10センチ強、高さも5センチ強〜7センチなど。小さめのそば猪口よりももうすこし小振りになるとぐい呑みで、口径・高さそれぞれが5〜6センチ前後くらいなのでちょうど三本の指に収まりやすい頃合いになっている。
so73  そば尽くし そば料理だけでコースに仕立てたもの。ありきたりのそば料理を組み合わせるのではなく、意外性のあるそばの料理や組み合わせを楽しませるコース料理。
so74  蕎麦通
  そば通
昭和初期、手打ちの「名人やぶ忠」といわれた村瀬忠太郎の口述をもとにまとめられ、昭和5年(1930)発行されたそばの専門書。「日月庵・やぶ忠」は東京の滝野川区中里にあった手打ちそばの名店で、片倉康雄(足利・一茶庵)、高井吉蔵(山形・萬盛庵)も一時期やぶ忠で修行した。*「やぶ忠」の項参照
so75  蕎麦塚 「蕎麦塚」は、山梨県東八代郡御坂町蕎麦塚(現:笛吹市に)。古くは蕎麦塚村または蕎塚村という記録もある。享保年間(1716〜36)刊行の「甲斐国志」のなかでは「蕎塚村村鑑明細帳」とあって蕎麦塚村の名前の由来は「山ノ阻ナルヘシ」とある。また、「そばの歴史を旅する」鈴木啓之著によると、村の菩提寺である宝珠寺には「蕎塚村雨請地蔵尊」という霊験あらたかなお地蔵さんが伝わるとある。
so76  蕎麦粒山 蕎麦の実は黒褐色で、三本の稜線がそば立っている。蕎麦の実の形状と山の険しい姿から付けられた「山の名前」に蕎麦粒山が各所にみられる。東京都・奥多摩の中にある「蕎麦粒山」(そばつぶやま)は、遠くから望むと三角の形に見える:1473m。静岡県・南アルプス深南部の「蕎麦粒山」は寸又川流域:1627m。長野県・上水内郡と北安曇郡の境「蕎麦粒山」:1065m。以上は「そばつぶやま」という。岐阜県・揖斐郡奥美濃の高峰から見える「蕎麦粒山」(そむぎやま)は蕎麦の実のような三角錐:1297m で、「小蕎麦粒山」は:1230m。
so77  そばつゆ 地域や店によって濃淡や味わいが異なるが、関東では「もり汁」にも「かけ汁」にも濃口醤油を使い、だしは鰹節が主で味色ともに濃いのに対し、関西では「かけつゆ」には薄口醤油を使い、だしは昆布が主の色味ともに薄口のつゆである。もっとも、近年、関東でも薄口醤油や昆布が使われるようになっている。そばの食べ方にも地域性があって、関西では「たっぷりとつゆにつける」人が多い傾向にある。
so78  蕎麦豆腐 そば粉と葛粉(またはこれに片栗粉)に水を加えよくかき混ぜ、火に掛けたままさらにかき混ぜる。これを形に入れて冷やす。葛粉とそば粉の組み合わせで食感の異なるそば豆腐ができる。そばつゆにも醤油にも合う。
so79  蕎麦とスイカ
 蕎麦とタニシ
一般に、同食すると良くない(と伝承されている)ものを「食い合わせ」といって「蕎麦とタニシ」「蕎麦とスイカ」「ウナギと梅干し」「天ぷらとスイカ」などいろいろある。今では消化の良い食べ物に入る蕎麦も昔は消化が悪く傷みやすい食べ物であったことがわかる。江戸初期に貝原益軒が著した「養生訓」には多くの食い合わせが書かれている。 (大毒や腹痛、胃病を起こすなどとされるが、科学的根拠の無いものが多いものの、なかには医学的に正しいとされるものもある。)さらに時代を遡ると、南北朝時代に書かれた「拾芥抄(しゅうかいしょう)」という書物にも「合食禁」が書かれていて「蕎麦と猪・羊ノ肉」とある。
*「食いあわせ」の項参照
so80  蕎麦菜
    岨菜
野草の名前、そばな。キキョウ科ツリガネニンジン属の多年草で、夏から秋にかけてきれいな薄紫色で釣り鐘状の花を下向きに開く。山地に自生して若葉は軟らかく山菜として食べられる。名前の由来は、若葉を茹でるときに蕎麦を茹でたときと同じ香りがすることからとか、切り立った険しい崖などに自生するので岨菜ともいうなどとある。
so81  そばの栄養 ソバは、米や小麦には含まれないソバ特有のポリフェノールであるルチンという成分を持っている。また、良質のタンパク質をたくさん含んでいて、しかも人の体内では作り出すことのできない必須アミノ酸の含有率がいろんな穀類のなかでも高く、さらにその成分がバランス良く含まれるという優れた特徴をもっている。特にルチンは、生活習慣病の予防に効果があるといわれる成分で、高血圧予防効果や抗酸化作用、血流改善効果などが期待されている。また、ビタミンB群が豊富で、そのひとつであるコリンは肝臓に脂肪がたまるのを防ぐ効果があるといわれ、ビタミンB1は体力の低下やイライラ、食欲不振の解消効果などがあって疲労回復ビタミンともいわれている。ビタミンB2には皮膚や粘膜を健康に保つ働きがあるなど、これらを含むそばの効用は数多くいわれている。
so82  ソバの花粉 ソバの花粉は、縄文早期の遺跡からも種子とともに出土している。弥生遺跡ではコメ・オオムギ・コムギ・アワ・ヒエ・キビなどと共に栽培穀物として出土しているので、大古の昔からわたしたちの生活と深いかかわりを持つ植物であったことがわかる。【日本の食風土記 市川健夫 白水社】では、ワシントン大学の塚田松雄教授によると、島根県飯石郡頓原町から一万年前のソバの花粉が発見され、高知県高岡郡佐川町では九千三百年前、更に北海道でも五千年前のソバ花粉が出ているとある。
so83  蕎麦の事典 そば博士と言われた新島繁著「蕎麦の事典」柴田書店。これまでに刊行されたそば関係の辞書をみると、昭和47年初版の植原路郎著「蕎麦辞典」東京堂出版と、平成2年初版の新島繁著「新撰蕎麦事典」食品出版社といえる。その後、「新撰蕎麦事典」はさらにそばに関する項目が補充・収録されて「蕎麦の事典」として平成11年初版が刊行された。「蕎麦辞典」もその後、改訂新版として平成14年に改訂編者・中村綾子氏が加筆して初版が出版されている。この他ではインターネットを含め、そばに関する辞典や事典は多く見られるが、大方は、ここに挙げた二氏の解説によるところが大きいと言わざるを得ないのではなかろうか。
so84  そばの自慢 「そばの自慢はお里が知れる」という諺がある。昔から、ソバの産地は概して、稲作が不適な高冷地や寒冷地が多く、生活も豊かとはいえなかった。郷里のそばの自慢はほどほどにしておく方が良い。  
so85  蕎麦の地名 地名の残存率はきわめて高いとされるが、現時点残っている蕎麦という地名は全国で10ヶ所、山の名前は8山、沢の名前が1ヶ所である。ちなみに、素麺が地名になっている例もあって、山梨県身延地区に西素麺屋町や東素麺屋町、広島県三次市に下素麺屋一里塚が残っている。同じ麺類でも饂飩(うどん)のつく地名は知らない。 蕎麦の地名では、蕎麦平、蕎麦沢、蕎麦目村、蕎麦切新田、蕎麦原、蕎麦塚、蕎麦田、蕎麦谷、蕎原、蕎麦尾分の10ヶ所と蕎麦窪(江戸期の記録)。山名は蕎麦粒山、蕎麦粒山、小蕎麦粒山、蕎麦角山、蕎麦ヶ岳で8山、大蕎麦谷沢の名前も1ヶ所ある。
so86  蕎麦の値段 江戸時代の話。そば(もり・かけ)の値段を大まかにみると、江戸も上方も同じで 1750年頃(宝暦・明和の頃)までは六〜八文くらい、そしてしばらくは十二文〜十四文、1790年代(寛政)から文化・文政・天保(1804〜44)にかけて十六文が定着して行く。だから初めの頃の六〜八文時代が長く、また後半の十六文という相場も幕末の少し前まで続いたのでどちらも約7・80年間続いたことになる。うどんの値段も同じように推移している。
so87  そばのほめ口上 会津地方には全国でもめずらしい「そば口上」が伝わっている。「祝言そば」とも言われる「婚礼の祝い口上」や、宴席などに添えられる「そばのほめ口上」が座を盛り上げる。例えば、婚礼の席で長じゅばん姿に豆しぼりの鉢巻をし、膳の上にそばを載せて「東西東西 ちょっと鳴り物止め置きまして・・・」で始まるそばのほめ口上を節をつけて面白おかしく披露する。*「そば口上」の項参照
so88  ソバの花 開花期のソバ畑はいろんな訪花昆虫で賑わう。都会ではほとんど見ることのできなくなったソバの花だが、近年、ソバによる村おこしや休耕田でのソバ栽培が各地域で盛んになっている。ソバは他家受精作物で、花が咲きだすと多くの虫たちが飛来して受粉の手助けを始める。
so89  そばの三返り 竈で薪を燃やしながら、そばを茹でるのに最も良い火加減を保つのはむつかしい。この時代、そばを茹でるのに最も適した状態は、「釜の中に入れたそばが、浮き上がり、湯の表面をゆっくりと泳いで再び沈む動作を三回繰り返せば、ちょうど良い茹であがり」になる火加減を維持することが大切で、その状態で「そばが煮あがる」のが良い。とされていた。本格的にガス機器が普及するのは昭和30年(1955)以降であるが、現在でもそばを茹でる経験と技量はそばを美味しくする重要な要素であることにはかわりがない。
so90  蕎麦の山名 蕎麦の実は三本の稜線で三面がそば立っている。昔から山の険しいさまやとがった角を岨(そば)とか凌(そば)といった。山の名前に蕎麦がつけられたのも険しい山の形状からであろう。地名の残存率はきわめて高いとされているが、現時点わかる範囲では蕎麦にまつわる山の名前は全国で8山、地名は10ヶ所であり、沢の名前が1ヶ所である。
so91  そば八寸 そばが一番たべやすい長さだとされている。「そば八寸」だから24センチくらいが良いという。これに対し「うどん一尺」といって、うどんは30センチほどが食べやすいとされる。細いそばより太いうどんの方が長いとするが、これは食べる側からの言葉だろうか? 打つという観点からみると、そばは延しの(横)巾を、延し棒よりも少し長くする程度でとどめると100センチ(96センチ強)で、これを畳んで切ると「八寸」である。また、巻き棒は120センチほどからみてもこの延しの巾が打ちやすい。うどんは畳んだ生地を切っても麺がつながっているので延しの巾を大きくしなくても充分「一尺」にはなる。このようにみるとこの言葉はそば職人の仕事のし易さから言い出したとも解せられる。
*「うどん一尺・そば八寸」の項も同じ *「延し棒」の項参照
so92  そば振舞 そばを馳走してもてなすこと。とくに稲作に頼ることの少なかった地域「そば処」の風習で、大勢にそばを馳走してもてなすことを「そば振舞」といった。宴席を盛り上げるための料理の主役があくまでもそばが中心で行われ、例えば、福島県会津地方に伝わる「そば口上」などはその代表的な風習であろう。これとは別に近年、地域活動の一環としてもそば打ちが盛んになっていて、大勢の人にそばを提供したり食べてもらう行事が行われている。これらもまた「そば振舞」ともいわれる。
so93  蕎麦原 蕎麦の地名。茨城県東茨城郡茨城町蕎麦原。茨城には蕎麦の名産地があり、久慈郡・金砂郷村や水府村一帯のソバが有名である。日本歴史地名体系(平凡社)によると、蕎麦原村は涸沼川の左岸に位置し、東は越安村。慶長7年(1602)秋田氏領となったことを示す御知行之覚に、そば原村九四八五七石が出る。江戸時代は旗本領で元禄郷帳に「蕎麦原村」とみえる。
so94  そばピクニック 奈良県桜井市笠 荒神の里で毎年9月中旬のソバの開花期に行われるそばのイベント。この地域は標高400〜500mの中山間部にあって、関西ではめずらしく平成4年からソバの栽培に取り組んでいる地域。
so95  ソバノガシカコイ ガシカコイは飢饉に備えて貯蔵される食物のこと。福島県田村郡滝根村地域では凶作のために準備した食物をガシカコイといった。ソバは、殻のまま貯蔵すれば、いつになっても役に立つ。凶作の備えにそばを置けと伝えた。ソバノガシカコイという。粟は穂のまま貯える。大根は適宜輪切の大根をゆでて後、乾燥し貯える。
so96  ソハフクロ一ッ 「徳利一ツ、ソハフクロ一ツ 千淡内」は、史料として「そば切り」の初見である木曽大桑村の定勝寺に残る「番匠作事日記」の中の記述。天正2年(1574)2月からおこなわれた仏殿修理に伴う書き留め「同(作事之)振舞同音信衆」の中に「徳利一ッ ソハフクロ一ッ 千淡内」と「振舞ソハキリ  金永」というそばにかかわる寄進と振舞が記録されている。寄進者の千淡内は千村新十郎政直淡路守の夫人のこと。*「千新(千村淡路守政直)」の項参照
so97  蕎麦ほうる 享保年間(1716〜35)創業の菓子職「総本家河道屋」は「蕎麦ほうる」の元祖である。京都はそば粉で作った蕎麦菓子が有名で、総本家河道屋の「蕎麦ほうる」、本家尾張屋の「蕎麦板」と京都井筒屋の「如心松葉」が蕎麦の味を生かした京銘菓となっている。これらの店は江戸時代以前とか江戸時代創業の老舗である。
so98  そば前 そばを食べる前に飲む酒のことだが、注文したそばが出るまでのひとときを楽しむ酒を「そば前」と言ったのだろう。そばは、茹でて盛りつけると時間をおかずに食べるものだから、だらだらと飲む酒の相手には不向きである。そこから「そば前」という領域が生まれたのだろう。だから、そば屋では度を超さぬ程に飲むのがいいようだ。
so99  ソバマキトンボ この赤トンボの飛び方でソバの蒔く頃合いを判断する。季節が変わって赤とんぼが飛びだしその飛び方の変化でソバの蒔く頃合いを判断する地域があって、それらは共通してソバマキトンボと呼んでいる。ソバマキトンボという方言が認められるのは、四国(高知、徳島)、奈良(十津川)、和歌山、岡山など西日本の地域で、東日本では群馬県の他に北海道・新十津川でみられる。新十津川の場合は、明治22年の奈良県・十津川村を襲った水害で移住した人達が郷里の方言を伝えたものであろう。
so100  そば祭り 近年、地域振興策の一環としてそばをテーマにした活動が各地で見られるようになった。ソバの開花期や新そばの収穫期にあわせて行われる「そば祭り」や「新そば祭り」、「そばイベント」や「そばフェスタ」さらに年間を通して、「そば喰い大会」「そば打ち大会」「そば振舞い」「そばパーティー」など実に多くのそばに関するイベントが、全国各地で行われるようになった。日本列島は長く、ソバの品種による違いもあって北海道では7月に花が始まり9月に収穫期を迎える。関西では、花は9月で、地場産新そばの収穫は11月のそれぞれ中旬前後、さらに、南の九州になると9月に花が咲き始め10月まで花を見ることが出来る。
so101  そば味噌 甘味噌と砂糖を練り上げて煎ったソバの実を混ぜ、さらにゴマや唐辛子を加えて味を調えた味噌。そば屋ならではの酒の突出しである。思わぬ地域やそば屋で出くわすこともあるが、もともとは東京の藪そば三家の秘伝だという。もうひとつは、料理用の味噌で、米麹の代わりにソバ麹を使った味噌がある。
so102  蕎塚村村鑑明細帳
 蕎塚村雨請地蔵尊
山梨県東八代郡御坂町蕎麦塚(笛吹市)は、甲府盆地のほぼ東にあって標高差のある扇状地帯にある。旧八代郡錦生村の字のひとつに「蕎麦塚」という地名があり、古くは蕎麦塚村であった。「蕎塚村」という記録もあり、享保年間(1716〜36)に刊行された「甲斐国志」のなかでは「蕎塚村村鑑明細帳」とあって蕎麦塚村の名前の由来は「山ノ阻ナルヘシ」と書かれている。また、「そばの歴史を旅する」鈴木啓之著によると、村の菩提寺である宝珠寺には「蕎塚村雨請地蔵尊」という霊験あらたかなお地蔵さんが伝わるとある。
so103  蕎麦目村 福島県大沼郡新鶴村蕎麦目村(そばのめむら)。江戸時代は蕎麦ノ目村であったが、明治の初期に村落の併合があって和泉新田・沢田・蕎麦目が一緒になって和田目になり、現在では和田目字蕎麦ノ目として残っている。
so104  そばもやし ソバの実を発芽させた新芽野菜のこと。今風にいうと「ソバのスプラウト(もやし・発芽野菜)」で、古くは「蕎麦苗」ともいった。普通ソバの場合は、そばサラダやそばクレープに使う野菜に利用したり、和え物や、かけそばの具の一つとしても使われる。さらに、一般的にスプラウト(発芽野菜)は成熟した野菜よりも機能性物質を多く含むことから、ソバの持つ機能性成分のルチンが注目されている。さらに、ルチンを多く含むダッタンソバのスプラウトや乾燥粉末原料に加工しての用途も広がっている。
so105  そばもやしつなぎ 梅雨を過ぎると米が古米になるように、ソバも気温と湿度の高まる梅雨を境として食味も風味も落ち、そば粉の色合いも衰える。新芽の出たそばもやしの茎と葉をすりつぶして、そば粉に練り込んで新そばの色合いを楽しんだ。または、さらしな粉に練り込むと緑色の変わりそばができる。
so106  そば屋の風薬 「うどんや風一夜薬」が大阪のうどん屋で評判になり、これをヒントに東京でも「そば屋の風薬」が置かれるようになった。 大阪のうどん屋に入るとどこでもこの「風邪薬」が置かれていた時代があって、「熱々のうどんを食べてこれを飲めば風邪が一夜で治る薬」というこの薬は、「あたたかいうどんを食べ体を温め一夜サッと寝ることが養生の基本」だと考えた大阪の末広勝風堂が「うどんや風一夜薬」を作って明治9年に売り出して大当たりしたという。関東では「そば屋の風薬」「そばや風一夜薬」というので売り出された。
so107  そば屋の看板
「きそば」「そば処」
そば屋の看板や暖簾には昔から特徴のある字体で「きそば」とか「そば処」などと書かれたものが多い。「きそば」も「そば処」も昔から見慣れたそば屋の字体である。江戸時代に使われた変体仮名のひとつで、「そば」の字母は「そ=楚」と「ば=者をくずし、点々」であるが、明治に入って平仮名が「一音一字」に統一されて以来一般には使われなくなった。「きそば」とは本来、生粉打ち(きこうち)・生粉そば(きこそば)または十割そばと言われて「そば粉だけで打った蕎麦」を指す言葉である。
so108  そば屋の品書 そばの種類は「もり」と「かけ」が基本だが、さらに具を乗せる「種もの」へとだんだん品数が多くなっていく。「守貞漫稿」という幕末頃の風俗誌によると、蕎麦屋の品書きではそばもうどんも16文、天ぷら32文などいろいろなそばの値段になっている。ここにあげた品書きは左は京坂のもので、右側は江戸の例となっている。[画像]左右の品書きを見比べて気が付くのは、同じ十六文(拾六文)であっても京坂ではうどんが、江戸ではそばが先に書かれている。上方と江戸の相違点でもある。
so109  そば屋の徳利 そば用のつゆ入れは、そば徳利とも汁徳利ともいうが、ふつうのそば屋では徳利形で、そば猪口と同様に酒の徳利から転用される場合が多かった。ただ、新たに「そばつゆ入れ」として作られた物は、酒の徳利より口が広いのが特徴で、江戸時代には、二升も入る徳利が使われたという記述もある。
so110  そば屋の二階 上方浮世絵師の第一人者・西川祐信が京都のそば屋の二階を「笑い絵(春画)」との組み合わせで登場させている。宝永8年(1711)刊「色ひいな形」で、画面左半分(一階)ではそば職人がそばを立って延していて、画面右半分(二階)では男女の逢い引きの場面を展開させている。この時代、そばを立って打っている図としても珍しい。池波正太郎は、小説・鬼平犯科帳のなかで蕎麦屋の二階をたびたび登場させている。多くは見張りのためであるが二階の小座敷であったり二階座敷で、もちろん酒と蕎麦がはこばれている。長谷川平蔵は歴史上の実在人物で、火付盗賊改方の長官に着任したのは天明7年(1788年)である。実録の年代を小説の舞台と照らすことはできないが、早い時期に京都のそば屋で二階が重宝されていたことがわかる。
so111  そば屋の屋号 寛延4年(1751)脱稿の蕎麦全書には、江戸市中のそば屋の屋号を多く挙げているが、寺である称往院内の道光庵以外に「庵」のつく名前は見当たらない。道光庵は天明6年(1786)そばを禁止されるが、その後江戸時代の中期以降になって、道光庵のそばの評判と繁昌振りにあやかろうと店名に庵をつけるそば屋が現れ始める。これがそば屋の屋号に庵が付く発端という。
so112  そば湯 そばを茹でたときの湯のこと。そばのタンパク価の多くが水溶性であるのと打ち粉で使ったそば粉がふんだんにそば湯の中に解けだしている。特に手打ちそばは、麺の表面に無数のひび割れが生じているので「そば湯」にはそばの栄養と有益な成分が濃厚に浸みだしている。決して通ぶる訳ではないが、そばを食べ終わった後そば猪口に残ったつゆが多い場合、そのままそば湯を注ぐのではなく、その旨店の人に話してみるとよい。店によっては残ったそばつゆを取り分ける別の新しいそば猪口をくれるところもある。 もうひとつ注意したいのは、塩分を含んだ乾麺や茹で麺、ましてうどんの茹で湯は「そば湯」にはならない。昔から、うどんを茹でた湯は客には供されず、捨てられる運命にあったため、役に立たないものの例えに「うどんの湯」とか「うどんのぬき湯」(ぬきゆは 茹で湯の職人言葉)とも言われたそうだ。
so113  そば湯の初見 そば湯の初見は、元禄10年(1697)に刊行された「本朝食鑑」で、そばを食べ過ぎてもそば湯を飲むと食あたりしないと書かれており、その後の宝暦元年(1751)の「蕎麦全書」にも、信州でそばを食べたときにそば湯を出されて、消化によいと聞いたので江戸に帰って信濃風と言って振る舞ったら喜ばれたと記している。もともと、江戸ではそば湯を飲む習慣はなく、そばの後には麺毒を消すために豆腐の味噌煮を吸物として出していたが、信濃のそば湯を飲む習慣が毒消しの目的にもかない安直であったので急速に普及していったようだ。
so114  そば湯割り 焼酎といえば、そば湯と焼酎もまた「であいもの」である。どの焼酎もそれぞれにそば湯との相性は良いが、昨今では蕎麦焼酎がそば屋の定番になってしまった感がある。 そば湯割りでは、焼酎にさほど慣れていなくても、蕎麦・麦・米などはクセを感じさせないでそれぞれの持ち味と風味を醸し出してくれる。一方、芋焼酎は、飲み慣れない向きには味と香りに独特の個性があるので多少のとまどいを感じるかも知れないが飲み慣れればそれこそクセになる芳醇な風味が特徴である。
so115  蕎原 大阪府貝塚市蕎原(そぶら)。角川・日本地名大辞典を引用すると、古くは蕎麦原とも書き「そばはら」とも「そばら」ともいう。近木川最上流に位置し、地名は蕎麦の産地であったことにちなむという。また、南北朝期にも見える地名であり江戸期の「五畿内志」には蕎麦の産地と明記されているとある。
so116  ソマ  ソマムギ 熊本県八代郡や大分県宇佐郡の一部でソバの方言をソマ、古くはソマムギといった。佐賀県神埼郡では焼野(焼畑)をキーノ(切野)と言い、そこでソバを収穫するとキーノゾマ(切野蕎麦)、熊本県八代郡でもソバを植える年の焼畑はソマコバといった。*コバ(木場、小場、古庭は九州地方の焼畑のこと)。
so117  空煮え 昨今、「そばを茹でる」というが、そば屋は昔から「そばを煮る」というのだそうだ。薪を燃やしながら釜でそばを煮るのに最も良い火加減を保つのはむつかしい。火加減が強すぎると、そばの表面は茹であがっているが芯が残っている状態になるのを「空煮え(そらにえ)」という。
so118  尊勝院 慈性 江戸におけるそば切りの初見である「慈性日記」は、これまで、多賀大社の社僧が書いた日記であるとされてきた。多賀大社には社僧や坊人という身分の僧は多くいたが慈性の立場や身分をこれと混同するのは誤りである。慈性は日野家という名門の出身で、日記を書き始めた22歳は既に尊勝院と多賀大社不動院をも兼務する身分であった。日記に登場するのは朝廷、将軍家、公家・大名など当代超一級の人物と、天台宗の南光坊天海(後の大僧正)と各地の僧達である。そしてこれら天台僧達が江戸滞在中に繰り広げる出来事の一端としてそば切り振舞やうどん振舞が書きとどめられたのである。
     
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