[ し ] - そば用語の解説一覧 
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si 1  思案そば ゆく年を回顧しながら大晦日に食べるそば。大晦日には多くの地域で「年越そば」を食べるしきたりがあって土地土地でそれぞれ違った呼び方をされてきた。「つごもりそば」とか「みそかそば」、「暮れそば」といった年の節目を指す表現と、「運そば・運気そば」、「大年そば」や「福そば」「寿命そば」など運や福、長寿など、さらには旧年の労苦や厄災を断ち切りたいと願う「年切りそば」など様々で「思案そば」もそのひとつ。
si 2  塩尻 尾張藩士で国学者の天野信景は歴史・仏教・博物・天文・地理・風俗などに通じ多くの著書を遺している。なかでも「塩尻」はもっとも広く知られていて、巻之十三宝永(1704〜11)のなかで、「蕎麦切は甲州よりはじまる、初め天目山(棲雲寺という臨済宗の山号)へ参詣多かりし時、所民参詣の諸人に食を売に米麦の少かりし故、そばをねりてはたことせし、其後うとむを学びて今のそば切とはなりしと信濃人のかたりし」とそば発祥は甲州だとしている。ただし、これ以外に裏付けとなる記録などは見あたらず、単にその当時の伝聞を書きしるしただけのものとの評価に止まっている。*「甲州説・信州説」の項参照
si 3  四角打ち 表現が必ずしも正しくないと思うが、そば打ちをどのレベルの人にでもわかりやすく説明するのに〇打ちと四角打ちは便利な表現だと考える。例えば、江戸時代や、かつての郷土そばのそばの打ち方と現在の江戸流と言われる打ち方の端的な違いを説明する場合、前者は「座って丸延し(加えるなら麺棒一本、切りは手ごま)」であり、後者は「立って、(丸から)四角延し(麺棒三本と小間板)」がわかりやすい。それぞれの地域に長年受け継がれてきた技法が薄れて行くなかで、郷土そばの、座った姿勢で、そば粉十割をお湯で捏ね、麺棒は一本の丸延しが基本で、さらに(小間板は使わず)手ごまで切っていく手法がかつてのそばの打ち方であり、少なくとも江戸時代の後期辺りまでは江戸を含めた地域を問わずこれが主流であった。
si 4  信貴山のどか村 奈良と大阪の県境の信貴山南麓にある農業公園。奈良県生駒郡の信貴山のどか村には「そば打ち体験」と「そば道場」の体験講座がある。周辺にソバ畑はないが新そば祭りもある。
si 5  自家不和合
    (異型花柱性)
普通ソバは(異型花柱性)自家不和合といって、短柱花(メシベのほうがオシベより短い)と長柱花(メシベのほうがオシベより長い)の花が咲く二種類の株に分かれていて、同じタイプの花の花粉が受粉しても受精しない(受粉しても実が育たない)。異なるタイプの花の受粉によってのみ受粉をし結実する植物で、そのために風媒や虫媒にたよる他家受精植物である。これに対してダッタンソバは雌しべとおしべの長さが同じで自家受精植物である。宿根ソバ、別名赤地利(シャクチリ)ソバは多年草の他家受精作物である。
si 6  爺が蕎麦 「薮」という名称の興りは江戸・雑司ヶ谷鬼子母神の東の方のやぶのなかにあった百姓家の「爺が蕎麦」で当初は「薮の内」とも言われた。このそばが名物になったので一時期藪蕎麦を名乗る店が江戸のあちこちに現れている。寛延4年(1751)の「蕎麦全書」にも藪の中爺が蕎麦として登場している。
*「藪の蕎麦切」の項参照
si 7  慈性日記 江戸におけるそば切りの初見。慶長19年(1614)2月3日の条『常明寺へ、薬樹・東光にもマチノ風呂へ入らんとの事にて行候へ共、人多ク候てもとり候、ソハキリ振舞被申候也』とある。そばの書物では「多賀大社の社僧が書いた日記」と説明するのみであるが正確でない。(一介の)社僧などではなく若き超エリート天台僧であり、正しくは「尊勝院住持と多賀大社別当不動院を兼務する慈性の日記」であり、そば切り振る舞いもまた、そばの通説とはまったく異なる場面で展開されているのである。ちなみに、父は京都の公家権大納言・日野資勝で、徳川家康の知遇を受け、三代将軍家光の時には武家伝奏も努めた。慈性はその次男。
si 8  紫蘇切り 青じそをさらしな粉に打ち込んだ変わりそば。しその葉は太い葉脈を除き出来るだけ細かくみじん切りにし、そば粉と一緒に練り込む。すり鉢かミキサーを使って練り込むと、茹でた麺が全体に緑色になるが、そばを打っているときは青臭い。みじん切りでもミキサーでも、しその色と風味がさわやかである。そば粉500gだと葉が25枚ほど。大葉切りともいう。
si 9  自給率  食料・穀物・主食用穀物・米・小麦・ソバそれぞれの自給率。農林水産省生産局農産振興課試算による2013年度の国内産ソバ生産量は33千トン、外国産ソバ輸入量95千トンであり、国内消費仕向量141千トンとなっていて、これから見たソバの自給率は約23%である。また、近年のそれぞれの数値の推移からもソバ自給率は〜23%〜とみられる。ソバ以外の主要穀物でみると小麦が12〜13%、米は主食用米に限定した場合は100%となる。但し米の場合は加工用米を含めた米全体でみると95%となっている。穀物自給率は27〜29%で極めて低いが、主食用穀物では59%である。*「ソバ自給率」の項参照
si10  七味唐辛子 そばやうどん、鍋もの、汁もの、漬物などにひろく使われる薬味で、香りや味をひきたて、食欲を増進する効果がある。上方が七味唐辛子、東京は七色唐辛子であるが、「七味」が共通呼称となっている。赤唐辛子、山椒、胡麻、紫蘇、陳皮、麻(おのみ)、芥子、青海苔、生姜、菜種などから七種(七味)が組み合わされることに由来する。また、京都では赤紫蘇が入り、東京では陳皮が入るのも特徴である。東京・浅草寺門前「やげん堀」、京都・清水寺門前「七味家」、長野・善光寺門前「八幡屋礒五郎」がとくに有名とされる。
si11  しっぽく 具(かやく)を豪華に乗せたうどんまたはそば。上方では、椎茸や蒲鉾、鶏肉、焼き卵、ほうれん草、海苔などを豪華に入れたのを「しっぽく」という。うどん台が多いがそばもある。関東ではそば台。讃岐地方(香川)では、主として冬の季節の野菜や鶏肉などをだし汁で煮込みうどんに掛けたのをしっぽくうどんという。これらは、長崎の卓袱料理からきているともいう説もある。
si12  信濃史料 信濃の歴史資料を大集成した史料。全32巻で、信濃関係の考古資料や古文書、古記録などを収載している。そばの関係では、木曽・大桑村須原の定勝寺から収録されていた史料のなかから「徳利一ツ、ソハフクロ一ツ 千淡内」と「振舞ソハキリ 金永」という記述が見いだされた。これによって「そば切りの初見」は、慈性日記の慶長19年(1614)から天正2年(1574)まで40年さかのぼることになった。*「関 保男」の項参照
si13  信濃揚げ 信濃蒸し 魚でそばを包んで蒸したり、魚をそばで巻きつけて蒸した料理。または油で揚げた料理。そば汁と薬味を添える。信州信濃はソバの産地としては江戸時代から有名で、そばに関しては一目置かざるを得ない意識があって、そば粉を使った料理に「信濃揚げ」や「信濃蒸し」という名前を付けたのと同じように、そばのゆで汁をも「信濃風」とか「おしな湯」と言った。
si14  信濃1号 昭和19年(1944)に長野県農業試験所桔梗ヶ原分場が福島県の在来種から系統選抜法によって優良系統育成し、「蕎麦信濃1号」と命名された品種。栽培生態系は中間型で一部の高冷地を除く長野県下全域や関東北部や山梨・新潟から中国地方の一部など広域適応性が高い。粒は濃褐色。
si15  信濃風 江戸中期の頃、そばを茹でた湯を「信濃風」と称して出したことからそば湯の習慣が江戸に広まったという。もともと、江戸ではそば湯を飲む習慣はなかったが元禄10年(1697)に刊行された「本朝食鑑」に、そばを食べ過ぎてもそば湯を飲むと食あたりしないと書かれており、その後の宝暦元年(1751)の「蕎麦全書」にも、信州でそばを食べたときにそば湯を出されて、消化によいと聞いたので江戸に帰って信濃風と言って振る舞ったら喜ばれたと記している。 当時は、そばは消化が悪く足の速い(傷みやすい)食べ物であったから、そばの後には麺毒を消すために豆腐の味噌煮を吸物として出していたが、信濃のそば湯を飲む習慣が毒消しの目的にもかない安直であったので急速に普及していったようだ。
si16  脂肪酸度 食品などの劣化指標で、脂肪を含む食品では時間経過とともに、例えば色や香りが変化したり有害な成分が生じたりして劣化が進む。ソバの実(玄ソバ)も収穫後の時間の経過とともに乾燥が進み、一方で脂肪が分解されて脂肪酸度が高くなって鮮度が落ちていく。昔から、その年の秋に穫れたソバを「新そば」といって食味と風味がともに良いとされ、冬を経て春が過ぎ、気温と湿度の高まる梅雨の頃を境として食味も風味も落ちるといわれている。(もっとも、現在は低温貯蔵の設備も向上しているので幾分は劣化の度合いも速度も改善されている面もあるが。)
si57  四文銭 (シモンセン) 江戸時代、そばやうどんなどの少額の代金は寛永通宝という銭貨で支払われた。初めは一文銭だけであったがその後四文銭も登場する。四文銭が登場したあたりからの値段をみると申し合せたように16文がベースになっていてさらに品書きに目をやると、具を乗せた種物(加薬)では、あられ・しっぽく・花まきなどは24文、天ぷら・玉子とじなど32文、(鴨や親子)南蛮・小田巻は36文、上酒(一合)40文、御前大蒸籠48文、などほとんどの品が4の倍数、すなわち四文銭の倍数になっている。裏に波型があったので波銭(ナミセン)と呼ばれた。
si17  赤地利ソバ 多年草のソバで「宿根ソバ」のこと。タデ科ソバ属の栽培種には三種類のソバがあって、そのうちの「ソバ(普通ソバ)」と「ダッタンソバ(ニガソバ)」は一年草。「宿根ソバ」は多年草で、原産のインド北部から中国南西部にはいくつかの野生種があってそのひとつが、明治の初め頃、中国から薬草として移植され薬草園などで栽培された。種子は結実するが脱粒しやすく採取はむつかしい。主として地下の根茎から繁殖する。*「赤地利ソバ」は、牧野富太郎博士が「本草綱目」の漢名「赤地利」に当たるとして命名した。
si18  修験道 (修験信奉) ソバは修験道修行とは密接な関係にあった。修験道の修行で行う五穀断ちは、主食をソバ粒やそば粉に頼ることが多く日常的にもソバ(粒・粉)との関係が深かった。 例えば、天台宗比叡山の「千日回峰」は12年間の籠山の行中、五穀を断ち、塩も断って主食はそば粉だけと言われる。 比叡山・無動寺の「回峰行記」(元和元年〜万延元年:1621〜1860)によると、「蕎麦は六根清浄にて峰々を廻りし後に谷清水にて溶かし これを食す」と記されている。戸隠の修験者も、山中で五穀を断ち、わずかな野菜とソバの実を持ち歩き、粉にすりつぶし水でかいて食したと伝わっている。
si19  春菊切り 春菊をすりつぶして裏ごししてさらしな粉に練り込んだ変わりそば。そば粉の二割ほどの春菊をミキサーにかけてもよい。緑のきれいなそばになる。季節の変わりそば。
si20  十辺舎一九 江戸後期の大衆作家で浮世絵師。弥次・喜多を主人公にした滑稽本「東海道中膝栗毛」が最もよく知られるが、黄表紙や洒落本、人情本や狂歌集ほかさまざまな作品を遺した。そばでは、「木曾街道続膝栗毛」で「寝覚蕎麦越前屋」について「それより寝覚めの建場にいたる。此ところ蕎麦切の名物なり、中にも越前屋といふに娘のあるを見て、名物のそばぎりよりも旅人はむすめに鼻毛のばしやすらむ・・・」など書いている。
si21  酒餅論 仮名草子「酒餅論」寛文(1661〜)・元禄以降(1688〜)。本文中の「めんるひ(麺類)」のところに「そば打つ所」と題した挿し絵があって、そばを打つ傍らに包丁が描かれている。一方、元禄9年(1696)刊の「茶湯献立指南」という料理本で12種類の用途別に包丁が描かれている中に、初めて「蕎麦切包丁」と分類されたのがある。おそらく「そば切包丁と分類された初見」であろうがそれとこの傍らの包丁と同一形状である。
si22  十六文価格説 「二八」の主たる語源説は「掛け算の十六文価格説」と「粉の配合割合説」の二説である。前者の論拠は「そばの値段は十六文だったから、これを掛け算の2×8としゃれた」としている。わかり易い説明であるが、「二八」という言葉の出現は、享保年間(1728頃)で、そばやうどんの値段は六〜八文の頃だったことを考えると矛盾に突き当たる。ただその後、そばやうどんの値段が上昇してからの時代は十六文が長く定着したのでそれ以降の説明にはなりえる。*「粉の配合割合 二八の解釈」の項参照
si23  十割そば そば粉だけで打ったそばの意味。「きそば」のこと。割粉(小麦粉)が二割とか三割、または同割(5:5)などに対し十割がそば粉という意味を強調するために一種の名目(キャッチフレーズ)で使いだした言葉でなかろうか。もともとは、そば屋の看板に多く現れた「きそば」「生そば」は、当初の頃は「混じりなしのそば粉だけで打ったそば」という品質や他店との差別化を表すものであったが、その後、そば屋の看板には十割でなくてもこだわりなく使われるようになっていった。
si24  上酒 昔から、そば屋に置いている酒は上物が多くて品書きにも銘柄を書かずに「上酒」とだけ書かれている場合が多かった。現在では酒類も多くなり、むしろ銘柄を明記して店の個性を出していることのほうが多いようだ。
si25  生姜切り 生姜の絞り汁をさらしな粉に練り込んだ変わりそば。新生姜の旬は6月〜7月で初夏のそばにもなる。皮を剥いた生姜を細かいおろし金ですりおろしたしぼり汁を使う。そば粉1kgに生姜100gを絞った汁を練り込む。生姜の香りがする美味しいそばができる。東京の芝大門・更科布屋の生姜切りは9月の変わりそば。9月11日から始まる芝大神宮だらだら祭りは別名「生姜祭り」とも呼ばれるのに合わせている。
si26  承天寺 福岡市博多区にある臨済宗東福寺派の寺。仁治3年(1242)宋から帰朝した円爾弁円を招聘し、宋商人の謝国明が建立して開山に請じた寺で、翌年勅により官寺となった。円爾弁円(聖一国師)は多くの宋の文化を持ち帰って伝えたとされているが、「うどん」や「饅頭」の製法もそのひとつとされ、昭和57年(1982)に地元の製麺業者が「饂飩蕎麦発祥之地」の石碑を建立している。他に、この寺には「饅頭発祥之地」と「山笠発祥之地」の石碑もある。*「円爾弁円 聖一国師」の項参照
si27  上州うどん 上州うどんといえば群馬県であるが、なかでも水沢うどんが有名である。榛名山麓にある水沢観音の門前には400年の歴史と伝わるうどん店もあって、しごき延しの手法でうどんとしては細打ちの3ミリ幅で、季節を問わず冷たいうどん盛りで食される。
si28  定勝寺 長野県木曽郡大桑村須原の旧中仙道沿いにある浄戒山・定勝寺。天正二年(1574)二月十日からの仏殿等の修理の際の振る舞いや寄進に関する書き留めの中に「徳利一ツ、ソハフクロ一ツ 千淡内」および「振舞ソハキリ 金永」が見いだされ、史料に登場する「そば切り」の初見となった。「番匠作事日記」。嘉慶年間(1387〜89)の創建時は木曽川辺りに建てられていて、文安5年(1448)と文禄4年(1595)の木曽川氾濫で二度にわたって倒壊(流損)している。その後、川辺りから木曽義在公館跡であった現在の場所へ慶長3年(1598)に移建されている。問題の「振舞ソハキリ」はこの二度目の洪水流損のほぼ20年前の川べりでのことであった。
si29  常明寺 江戸におけるそば切りの初見「慈性日記」の慶長19年2月3日の条に一度だけ登場する「寺の名前」。「常明寺へ、薬樹・東光にもマチノ風呂へ入らんとの事にて行候へ共、人多ク候てもとり候、ソハキリ振舞被申候也」とあり、そば関係の多くの書物は「多賀大社の社僧が常明寺でそば切りを馳走になった」としている。が、はたしてそうだろうか? 慈性日記には多くの寺院が登場していてそれぞれの当時の所在や登場している理由がわかるのだが、唯一常明寺だけは江戸の歴史の中でなにひとつ資料は見つからない。
si30  (そば湯と)焼酎 「そばと酒」は日本料理で言うところの「であいもの」でお互いの良さを引き立てるきわめて相性のよい組み合わせである。昔から、そば屋に置いている酒は上物が多くて品書きにも銘柄を書かずに「上酒」とだけ書いたがこれは日本酒の話である。焼酎といえば、そば湯と焼酎もまた「であいもの」でどの焼酎もそれぞれにそば湯との相性は良いが、昨今では蕎麦焼酎がそば屋の定番になってしまった感がある。
si31  如心松葉 茶人や和菓子好きには有名な京都の井筒屋重久の「如心松葉」は蕎麦粉と芥子、肉桂、和三盆を練って、薄く延ばし松葉の形に成形して焼いた京干菓子。「如心」の由来は、表千家七代如心斎(1705-51)が好みだったことによるとされている。かつてそば屋を営むなかで考えだした蕎麦の銘菓であったが平成22年(2010)に閉店した。
si32  自然薯  ヤマイモ 山芋をすりおろしてつなぎに使う。小麦粉のつなぎを知る以前であったり、小麦が入手困難であったり高価で使えなかった地域などでは、極く手近にあるものを工夫して「そばのつなぎ」に活用した。特にヤマイモは各地で入手できたのでそばのつなぎに使う地域が多かった。ヤマイモには種類があって、ヤマイモだけでそばを打つ場合もあるが、一般的には水を加えるのが多く、よくつながる。 とくに自然薯は水分量が少なく粘りが強いので水を加えるが、一般に、そば生地のひび割れなどがおこりやすい。
si33  信太  (しのだ) 信太の名称は、信太の森(泉州の信太森神社 葛葉稲荷神社)の白狐・葛の葉物語が歌舞伎や浄瑠璃、文楽などで有名になり、油揚げは狐の好物であるところからの由来ともいう。 甘辛く煮た油揚げを乗せたうどん。きつねうどんのこと。大阪で生まれたきつねうどんは、信太ずし(いなりずし)の甘辛く煮付けた油揚げが原点。
si34  寿命そば そば屋の名目では、木曽八景の景勝地・寝覚の床がある木曽・上松宿には寛永元年(1624)創業という寿命そばの越前屋がある。寝覚の床には浦島太郎伝説が残っていて、その長寿にちなんで「寿命そば」と名付けたという。もうひとつは「年越しそば」で、土地土地でそれぞれ違った呼び方をされてきた。そのなかに、運や福、長寿などを願って「歳とりそば」「大年そば」や「福そば」「寿命そば」などという地域もある。
si35  下素麺屋一里塚 素麺が地名になっている例がある。山梨県身延地区の波木井二区はかつて富士川舟運が華やかな頃の舟つき場として栄えた地域で、いくつかの町名の中に西素麺屋町と東素麺屋町がある。一方、広島県三次市の尾道石見銀山街道には下素麺屋一里塚という地名が残っている。一里塚とつく地名は各地にあるのでめずらしくはないが、素麺が付けば他に類をみない。西素麺屋と東素麺屋、下素麺屋それぞれのいわれはわからないが、同じ麺類でもうどんやそば切りとは異なる側面が窺える。
si36  蛇含草 上方落語が東京に移植された例は多いが、そのなかに上方落語では「蛇含草」、東京では「そば清」(そばの羽織)という落語がある。「人間を飲み込んで腹が大きくなっ たウワバミが、そこに生えている草(蛇含草)を嘗めると腹が小さくなるのを見てその草を持ち帰る」という筋書きだ。一方、浅草に「道光庵」という寺があり、寺でありながら振る舞うそばが評判になり、まるでそば屋の如く大繁盛したという事例があって、「道光庵草をなめたい顔ばかり」と川柳にまでよまれた。いうまでもなく草は消化剤の蛇含草である。
si37  謝国明 鎌倉時代前期、博多に居住した南宋臨安府(杭州市)出身の貿易商人。特に博多では、「年の瀬に蕎麦掻きをふるまったところ貧しい人達にも翌年から運が向いてきた」ことから年越しそばが始まった。という年越しそばの由来についての説がある。他に、宋から帰国の際に博多に立ち寄った円爾弁円(聖一国師)に帰依し博多の承天寺を建立したという人物。*「承天寺」の項参照
si38  寂称のそば切 安永6年(1777)刊の富貴地座位・下巻 浪花名物のなかでは和泉屋砂場の賑わいとともに登場するそば屋。寂称のそば切という紹介で「新蕎麦の早きしらせ」として登場している。寛延3年(1750)ごろの洒落本「烟花漫筆」では大坂で最初に庵号をつけたそば屋として登場するのが大阪道頓堀の「寂称庵」という。
si39  祝言そば 福島県会津地方には全国でもめずらしい「そば口上」が伝わっている。「祝言そば」とも言われる「婚礼の祝い口上」や、宴席などに添えられる「そばのほめ口上」が座を盛り上げる。いまでも機会に恵まれるとそば口上を見る(聴く)ことができる風習である。*「そば口上」の項参照
si40  熟成そば 比較的新しいそばの用語で、すくなくとも「三立て」よりも後に出現した言葉。 そばは打ってすぐに茹でるのが美味しいというのに対し、一晩くらい置いた方が熟成して美味しい、さらには、二日くらい熟成させるなど、美味しさについての概念。本当に「三立てそばが一番か?」ということから出てきたのかも知れない。そばの食感と風味は人それぞれで、余人のとやかく言う分野ではないのかもしれない。素人が打ったそばの場合も一日や二日の保存はよくあることだが、美味しく食べる条件は先ず茹でたてであることがなによりも優先される。
si41  宿根ソバ 「赤地利(シャクチリ)ソバ」と同じ。
si42  出世蕎麦 「年越そば」のことを東北の一部では「運そば・運気そば」や「福そば」「寿命そば」などといって幸運や長寿を願いながら食べるならわしと共通するのであろう。新島繁編著「蕎麦の辞典」によると岡山県邑久郡ではそばは縁起がよいので「出世蕎麦」があるという。
si43  称往院

  院内の道光庵
明暦3年(1657)世に言う振り袖火事があって、江戸の各所で焼かれた寺が翌、万治元年(1658)から浅草新寺町へ移転することになった。称往院と言う寺もその一つであったが、その浄土宗・称往院の院内にあった道光庵という子院(小寺院)の庵主が信州松本出身のそば打ち名手で、寺でありながら振る舞うそばが評判になり、まるでそば屋の如く大繁盛したという実例がある。道光庵はそば屋とともに「蕎麦全書」にも登場しているが、その後天明6年(1786年)の三代目の時に親寺(称往院)から蕎麦禁断にされる。後に、この繁昌振りにあやかろうとしたのが、そば屋「庵号」の始まりとされている。*称往院は昭和2年関東大震災で北多摩群千歳村字烏山(現・世田谷区北烏山)に移転。
si44  称往院・道光庵の跡地 東京都台東区西浅草3辺り。江戸時代、(そば屋のごとく繁盛した道光庵があった)称往院の跡地と、(慈性日記の舞台にもなり、明暦大火後小伝馬町から移ってきた)現在の東光院。江戸名所図会・浅草新寺町では天嶽院・称徃院・東光院の三寺が並んでいた。将軍お鷹狩の際には東光院で休息することもあり、多くのそば好きが道光庵目当てに行きかった。*画像は現在の町並みで、道光庵のあった称往院は二寺に挟まれた場所にあったがその名残はなにひとつ残っていない。
si45  正月そば 東北や甲信越の一部には元日を祝う正月そばを打つところがあった。「泉光院 江戸旅日記(山伏が見た江戸期庶民のくらし 石川英輔著)」は、日向国・佐土原(宮崎県宮崎郡佐土原町)の山伏寺住職・泉光院が文化9年から15年(1812〜18)にかけて諸国を旅した修行日記で、甲斐国下積翠寺村で正月を迎えている。「元日の朝七ツ(四時頃)、そばを儀式に食し、すぐに鎮守へ行った後で雑煮を祝う習慣」「親類や近所の人が年礼に来たときも、最初はそばを出して、後で雑煮を出す習慣」とある。ここでは、大晦日の最後の食事として年越しそばを食べるのと、新年の最初の食事にそばを食べるのとはもともと一続きの風習だったと記してる。
si46  招牌 (ショウハイ) 近世初期の麺類屋の看板。絵馬のような板に細長く切った紙を付け軒に吊した。古い時代の看板全般のことを指すとも言われる。
[画像]では「京都・本家尾張屋」の軒にかかる麺類屋の看板:招牌には「そば切 切むぎ」とあり、「色ひいな形」のそばを打つ職人の頭のところにも見える。
si47  食物アレルギー 特定の食物を摂取してアレルギー症状をおこす場合を食物アレルギーといい、原因となる食べ物は多岐にわたっている。なかでも、発症数や重篤度の高いものとして、卵、小麦、えび、かに、そば、乳、落花生の7品目が食品衛生法施行規則で「特定原材料」として定められ、これらを含む加工食品については、2002年(平成14)4月からその表示が義務化されている。その症状は皮膚、粘膜、消化器、呼吸器、アナフィラキシー反応などがあげられる。さらに、「特定原材料に準じるもの」として現在18品目、あわび、いか、いくら、オレンジ、キウイフルーツ、牛肉、くるみ、さけ、さば、大豆、鶏肉、バナナ、豚肉、まつたけ、もも、やまいも、りんご、ゼラチンなどの表示が推奨(任意表示)されている。
si48  信州大そば
   (しんしゅうおおそば)
信州大学農学部が信濃1号にコルヒチン処理をして育成した四倍体品種のソバで昭和60年(1985)に品種登録された。栽培生態系はやや秋型で粒は大粒で栽培適地は山間高冷地。粒は黒褐色で多収。
si49  信州更科蕎麦処
      布屋太兵衛
東京の更科の始まり。更科の総本家は東京の麻布十番の永坂更科で、もとは、信州更級郡の反物商として保科家の江戸屋敷に出入りし、得意のそば打ちで代々殿様にそばを献じていたことに始まるという。寛政2年(1790)に麻布永坂に「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」の看板を揚げたのに始まり、信州更級と保科家から賜った科で「更科」としたのだそうだ。現在は「総本家更科堀井」「永坂更科布屋多兵衛」「麻布永坂更科本店」などの屋号が有名である。
si50  信州そば 信州は早くから良質のソバの産地であり、そば切りの歴史においても「そばの先進地域」であった。信州の多くの地域では米や麦の栽培には適さずソバに頼らざるを得なかった背景もあり、一部の地域では五穀の筆頭がソバであったという歴史も残っている。そば打ちの技法やそばの食べ方でも古い時代の特徴を伝えていて、今もって丸延しは信州そばの特徴であり、辛味大根のしぼり汁の食べ方も信州が始まりとされる。「高遠そば」「戸隠そば」「富倉そば」などの独自性を貫いている一方で、信州そばの技法やそば文化を他の地域にも伝播して郷土そばを育てたことも見逃せない。代表例が出雲や出石、会津などは明らかである。
si51  信州そば史雑考 「定勝寺古文書のそば切り初見」を公開した。平成5年に遡るが、長野郷土史研究会の機関誌、「長野」第167号(1993年1月)の「特集 信濃そば」の誌上に郷土史家・関保男氏の「信州そば史雑考」が掲載された。そこに書かれている表題に関わる部分を引用すると、『・・・「信濃史料」によると、天正二年(1574)二月十日に木曽の定勝寺では仏殿等の修理を始めた。その「番匠作事日記」中の「同(作事之)振舞同音信衆」に、「徳利一ツ、ソハフクロ一ツ 千淡内」および「振舞ソハキリ 金永」という記述がある。・・・、金永という人物はそば切りを振舞ったのである。・・・これによると、木曽では天正年間にそば切りが作られていたことが明らかである。この史料は現在のところ信濃ばかりでなく、そば切りに関するわが国最古の史料である。』とあり、初めて定勝寺文書が世に出ることになった。
si52  信州そば事典 「物語・信州そば辞典 中田敬三著 郷土出版社」。著者は長野市在住で初版は1998年。一般に、そば関係の書物は実にたくさん出版されているが、乏しい私の知識によると、その多くは東京が基点で江戸のそばを前提に書かれたものが大半のように感じる。勿論、全国の名物そばや有名そば店について書いたものも多いが、どちらかというとグルメ紹介的であったり、観光案内的なきらいを感じてしまう。その中で、信州のそばに焦点を当て、信州のそばに関する歴史や食文化を掘り下げたそばの書物といえよう。
si53  信州屋 信州・川上村のそばが天保年間に大坂に出店した。佐久平を流れる千曲川の上流に「川上村」があり、昔からこの地域で作られるソバは「川上ソバ」と呼ばれ上質で、そば切りは生粉打ちであった。天保5年(1834)信州川上村から大坂心斎橋筋南下町に「信州屋」というそば屋を出店し「信州川上手打ちそば」として評判であったという。
si54  新そば その年の秋に収穫されたソバ、または、そのそば粉で打ったそば。ソバの収穫は夏と秋があるが、昔から風味も色合いも良い秋のソバだけを「秋新」とか「新そば」という。夏ものは「新そば」とは言わず「夏そば」または、「夏新」と言って秋物と区別される。
si55  深大寺蕎麦 北多摩郡神代村(東京都調布市深大寺)の天台宗・浮岳山昌楽院深大寺。現在は門前にそば屋が軒を並べることでも有名。元禄年間(1688〜1704)深大寺の住職が寛永寺三世(輪王寺門跡・天台座主・法親王)に自坊で打ったそば切りを献上したことがきっかけで有名になった。深大寺のソバは江戸でも評判になったが寺のソバ畑は狭く、周辺の農家にもソバを栽培させた。現在は、門前にそば屋が軒を並べるが昭和40年代以降である。
si56  新町砂場 かつて大坂の「砂場」があったといわれるあたり。いまは新町南公園になっていて、さほど古くはないが石碑が二つ建っている。ひとつは明治21年(1888)自由党の壮士・角藤定憲が「大日本壮士改良演劇会」を旗揚げして、新派発祥となった「新演劇発祥の地」の碑が植え込みの中に埋もれている。もうひとつは砂場跡の石碑で、いささか大仰の感はあるが「本邦麺類店発祥の地 大阪築城史跡・新町砂場」とあって碑文には、『天正十一年(1583)九月、豊太閤秀吉公大阪築城を開始、浪速の町に数多、膨大を極めし資材蓄積場設けらる。ここ新町には砂の類置かれ、通称「砂場」と呼びて、人夫、工事関係者日夜雲集す。人集まる所食を要す。早くも翌天正十二年、古文書「二千年袖鑒」に、麺類店「いづみや、津の国屋」など開業とある。即ちこの地、大阪築城史跡にして、また、本邦麺類店発祥の地なり。坂田孝造・識』とあって、昭和六十年「大阪のそば店誕生四百年を祝う会」が建立している。
     
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