[ せ ] - そば用語の解説一覧 
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se 1  棲雲寺  天目山 山梨県甲州市(旧大和村木賊)にあり甲斐百八霊場の中で最も高いところにある臨済宗建長寺派の寺院で、山号は天目山。江戸時代中期、尾張藩士で国学者の天野信景が雑録(随筆集)・「塩尻」の巻之十三宝永(1704〜11)のなかに、「蕎麦切は甲州よりはじまる、初め天目山へ参詣多かりし時、所民参詣の諸人に食を売に米麦の少かりし故、そばをねりてはたことせし、其後うとむを学びて今のそば切とはなりしと信濃人のかたりし。」とそば切り発祥甲州説を記している。もう一つは信州の本山宿だとする説がある。
*「甲州説・信州説」を参照。
se 2  製粉技術の革新 そば切りが誕生し、普及していく背景には「製粉技術の革新」があった。それは、穀物を杵で叩き潰して粉にする胴搗(どうづき)製粉から石臼を使用することが可能になたことである。石臼の普及という製粉技術の革新がそば粉の質を向上させ、同時に、石臼の普及・伝播とそば切りの普及・伝播は同時タイミング的であったと考えられる。
se 3  製粉機 そばの製粉方法は、「ロール製粉機」と「石臼製粉機」が主で、他に「胴搗製粉」が一部でおこなわれている。「ロール製粉」は異なる速度で回転する二つのローラーを通して製粉する方法で大量に製粉することができる。以前は、高速回転による摩擦熱が粉に伝わって風味を損ねるとの指摘もあったが、現在では製粉機は冷却式であり製粉中の摩擦熱はかなり抑えられている。一方、「石臼製粉」は細かい凹凸のある二面が密着して、その片方が回転している製粉方法である。粉にする原理は、重い石の面で磨り潰すことにある。製粉中の温度上昇は室温の+10度C程度で粉への影響は少ないとされる。
*「胴搗製粉」の項参照
se 4  (そば)

製粉所  製麺業
日本のソバ自給率はおよそ23%で、国内産のほかには外国産として中国、アメリカ、カナダなどからの輸入が中心になっているが近年ではロシアからの輸入もみられるようになった。国内産玄ソバは一部地場で消費されるものもあるが、大半は農業協同組合が集荷し問屋を通じて製粉業者に売り渡される。一方の外国産は輸入商社が輸入して製粉業者に売り渡される。製粉所の役割はそのソバ(玄ソバ)をそば粉に製粉して、そば屋や生麺・乾麺の製麺業、または製菓・酒造業などに販売するというソバの流通機構のなかでは中核的な役割を分担している。
se 5  製粉方法  製粉機の項参照。そば製粉の方法には「ロール製粉」と「石臼製粉」があり、他に一部で「胴搗製粉」がある。「ロール製粉」は異なる速度で回転する二つのローラーを通して製粉する方法で、粉の篩い分けと再度製粉機にかけることによって「一番粉」・「二番粉」・「三番粉」・・や「さらしな粉(御前粉)」など6〜7種類の粉に挽き分けることもできる特徴を持っている。一方、「石臼製粉」は細かい凹凸のある二面が密着して、その片方が回転している製粉方法である。この方法は「挽きぐるみ」といって、玄ソバの外皮(殻)を取り除いて甘皮に包まれた状態の丸抜き(ヌキ)を挽き、粉の取り分けをしないまま挽きこんだ粉が主流になっている。
se 6  製麺機 わが国の製麺機開発は、明治の初めに佐賀県出身の真崎照郷が木綿糸繰機をヒントに、綿繰機が綿実を繰り出すのに使うロールの応用を考えたことに始まる。小麦粉をこねたものをロールの間を通過させて薄く延ばし、細かく麺線に切断するもので、明治16年に製麺機第1号を完成させ、明治21年に特許を取得した。手回し式のために労力を要し実用化されて普及するのは大正時代で、さらに、モーターが取り付けられて電動になるのは昭和に入ってからである。混合機(ミキサー)も明治35年に開発されていたが普及したのは、戦後、「粉を手でもむのは衛生上良くない」とされたのが普及のきっかけとなった。
se 7  製麺技能士 国家資格の一種。厚生労働大臣が認定する技能検定のひとつで都道府県知事(都道府県職業能力開発協会)が実施する。素麺から生麺まで、機械製麺のさまざまな麺の製造が対象になっていて製麺に関する学科及び実技試験に合格した者をいう。手打ちそばなど手打ち麺には該当しない制度で、機械製麺のみを取り扱う。
se 8  せいろ 「もりそば」のこと。または、もりそばを盛る器のことで、正方形や長方形がある。そば切りを蒸籠で蒸した頃の名残りともいわれる。現在でも、熱盛りそばを出す店では「せいろ」と称し、蓋つきの蒸籠に盛って出す。後に、笊(ざる)に盛りつけた「ざる」が登場し「ざるそば」が定着した。地域や店によっては、「ざる」や「もり」、「せいろ」の区別が不鮮明で、客には違いがわからないなどもある。刻み海苔を載せたのを「せいろ」と称して値段を差別化したり盛るそばの種類を変えているなどもある。元来、蒸籠は「せいろう」であり、いまも「せいろう」と称する店も多い。
se 9  関 保男 長野市在住の郷土史家。木曽の定勝寺・史料から「振舞 ソハキリ」の記録を見つけ平成5年1月に発表、従来のそば切りの初見を40年遡ることになった。長野郷土史研究会が機関誌「長野」第167号(1993年1月)で「特集 信濃そば」を企画した際に「信州そば史雑考」を寄稿した。その寄稿文の「終わりに」のなかに「日頃カードにとっておいた蕎麦に関する史料を、時代を近世にしぼってまとめたものである。「信濃史料」「長野県史近世資料編」など・・」とあって、この特集への寄稿が契機となって、史料が見直される中で発見されたのであろう。
se10  摂津名所図会 寛政10年(1798)刊行された当時の摂津国(せっつのくに)の名所や寺社・旧跡などを紹介した絵入りの名所図会で、通俗地誌兼観光案内書でもあった。摂津国は現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる地域で、その大坂部四下の巻・新町傾城郭の項に「砂場いづみや」の図がある。
se11  節分の年越しそば 「節分の夜そば」で年越しそばと同じ。古来からの一年の節目は、年を越して新年を迎える暮れの大晦日と節分であった。とくに立春を迎える前日の節分は年が改まるということで大晦日とともに「年越そば」を食べるしきたりがあった。
se12  節用集 室町時代中期に成立した用字集・国語辞典。初期のものは漢字の熟語を並べて読み仮名をつけた程度でほとんど用語の解説は無い。その後、充実されて江戸時代から昭和の初期にかけて出版された。室町時代の古辞書には(古本)節用集のほかに庭訓徃来、運歩色葉集などがある。これらによって、室町時代に入って見られるようになった素麺・索麺や饂飩・温飩・武飩・烏飩の表記、または、「サウメン・ソウメン」や「ウトム・ウトン・ウドン・ウントン・ウンドン」の訓み(よみ)などもわかる。
se13  摂陽群談 江戸時代に編纂された摂津国の地誌、元禄14年(1701)刊行。全17巻から成り、大坂の有名な青物類についても産地別の名産を列記している。 そば屋の定番メニューに、鴨南蛮・鳥南蛮・カレー南蛮などがあるが、この「南蛮」の読み方には東西の違いがあって、東では「なんばん」、西では「なんば」である。東西での違いについて理由がわからない。多くの書物(特に料理やそば関係の本)では、大阪ではネギを使った料理を南蛮と言い、昔から難波がネギの産地であったのでネギのことを「なんば」と言ったとしているが、論拠がわからない。摂陽群談では、大坂の有名な青物類について産地別の名産を列記しているが西成郡難波村のネギについての記載はない。「難波がネギの産地」であったという論拠はこれによっても出てこない。
se14  摂陽奇観 文化文政期(1804〜29年)に活躍した大坂の狂言作者濱松歌國の著で、地誌と元和元年(1615)から天保4年(1833)までの出来事を書き記している。このなかにも「難波のにんじん」についての名産振りを紹介し、ほかに染め物の藍や麦も盛んで、畑作による野菜だけに止まらず代表する作物はかなり多岐に渡っていたこともわかるがネギ(ねぶか)が名産であったとは書いていない。料理やそば関係の本のいう「難波がネギの産地であったのでネギのことをなんばと言った」としている論拠はここでも見いだせない。
se15  銭縄そば 福井県麺類生活衛生同行組合のサイト「奥越大野に伝わる蕎麦にまつわる風習」によると「昔、正月二日には、どこの家でもそば打ちが始まり、特に「仕事はじめ」の意味で、そばは銭縄といって、縁起をかついで長く打てるように心がけて打ったそうだ。」とある。
se16  泉光院 江戸旅日記 「泉光院 江戸旅日記(山伏が見た江戸期庶民のくらし 石川英輔著)」は、日向国・佐土原(宮崎県宮崎郡佐土原町)の山伏寺住職・泉光院が文化9年から15年(1812〜18)にかけて南は鹿児島から北は秋田までの諸国を旅した修行日記。「そば」という観点からも、その当時の地域独特のそばの風習が書かれている。例えば、「東北や甲信越の一部には元日を祝う正月そばを打つところもあった」。甲斐国下積翠寺村で正月を迎えた時には「元日の朝七ツ(四時頃)、そばを儀式に食し、すぐに鎮守へ行った後で雑煮を祝う習慣」「親類や近所の人が年礼に来たときも、最初はそばを出して、後で雑煮を出す習慣」とある。ここでは、大晦日の最後の食事として年越しそばを食べるのと、新年の最初の食事にそばを食べるのとはもともと一続きの風習だったらしいと記されてる。
se17  占穀の祭事 粥を用いてその年の天候や作物の豊凶など吉凶を占う年占で、各地に分布する。神社の祭礼で多くは小正月に神にあずき粥を献ずるときに行う。享和元年(1801)刊行の「河内名所図会」では、牧岡神社の粥卜(かゆうら)という占穀の祭事の「御粥占祝詞」には、赤ごま、まめ、いも、もちきび、そばなどが記録されている。今の東大阪でもソバが穫れたことがわかる。
se18  仙石 政明 信濃上田藩の第三代藩主から、宝永3年(1706)に但馬出石藩の初代藩主となる。「皿そばで有名な出石そば」は国替の時、またはその時に信州からそば職人を連れてきたのが始まりといわれている。そばの打ち方もこね鉢は石見焼きの深鉢を使い麺棒一本の丸打ちで丸く延し、(小間板を使わず)手小間で切っていた。以前は、皿のそばにダシと薬味をかけて食べたが、現在では、出石焼の小皿に盛りつけ5皿で一人前(男10皿・女7〜8皿くらい食べるとも)、薬味5種 大根下ろし・山芋・卵・ネギ・ワサビで、鶏卵はそば猪口のダシにといて食べる。
se19  全国乾麺協同組合連合会 乾麺メーカーの業界組織で略称:全乾麺。都道府県単位で設立している機械乾めん及び手延べメーカーなどの協同組合を傘下にし、業界の体質改善や経営の安定を目的にした中央団体で、昭和33年(1958)に設立された。
*「乾麺」の項参照
se20  全国蕎麦製粉協同組合 昭和30年に蕎麦製粉業者の協同組合として発足し、組合員数約60社。組合員の取り扱う玄蕎麦の共同購買及び販売及び組合員が購入するカナダ・アメリカ産玄蕎麦の斡旋を行なったり、玄蕎麦の共同検査や品質の検査を行なっている。
se21  千新
   (千村淡路守政直)
そば切りの初見である木曽・定勝寺の記録に登場していて、その中で、朝食と強飯を振舞っている人物。武田信玄や木曽義康に従って戦功のあった木曽氏一族の武将・千村新十郎政直(淡路守)のことで、木曽義仲から数えて15代目にあたる。苗字と名前の頭文字を組み合わせて「千新」と略称で記録されているのは、定勝寺との密度が濃いためか、または衆目の知る名の通った人物であったことによる略称なのかのいずれかであろう。だとすると、「振舞 ソハキリ」を提供した「金永」という人物も、多くの書物が解説しているような単なる「金永さん」という位置づけで良いのであろうか? という疑問が湧く。
se22  千淡内 木曽・定勝寺の記録である「番匠作事日記」中の「同(作事之)振舞同音信衆」に、「徳利一ツ、ソハフクロ一ツ 千淡内」と記述されている人物で、朝食と強飯を振舞ったと書かれている「千新」すなわち千村新十郎政直(淡路守)の夫人。氏名が簡略記載である。すなわち、千村新十郎政直は「千新」、夫人の千村淡路守夫人は「千淡内」である。だとすると、「振舞 ソハキリ」を提供した「金永」という人物のフルネームは? *「千新(千村淡路守政直)」の項参照
se23  全層粉
   全粒粉
玄ソバを丸ごと製粉したものを「全層粉」という。以前は、玄ソバの殻が付いたままを石臼で挽き、ふるって殻を取り除く方法で、殻が完全には除去できずに粉の色は黒く、食感もぼそつくが栄養価は高かった。現在は、玄ソバの外皮(殻)を取り除いて甘皮に包まれた状態の丸抜き(ヌキ)を石臼で挽き、粉の取り分けをしないでそのまま挽きこんだ粉のことを「全粒粉」といって主流になっている。現在ではこれらが混同されているが、いずれも「石臼挽き」の特徴で「挽きぐるみ」という。
se24  詮長(東光院) 慈性日記の慶長19年2月3日の条『常明寺へ、薬樹・東光にもマチノ風呂へ入らんとの事にて行候へ共、人多ク候てもとり候、ソハキリ振舞被申候也』の中に、「久運」と「詮長」という二人の人物が登場している。すなわち、慈性と行動を共にする薬樹院(久運)と東光院(詮長)である。当時の東光院は小伝馬町にあって、「文政寺社書上」という記録によると「本堂并堂社寺中八ヶ院」とあり、院内に塔頭(たっちゅう)が八ヶ院(小院や子院)もあり、末寺を百八寺有した天台宗の大きな寺院であった。慈性日記を詳しく読むと、この日の「ソハキリ振舞被申候」は天台宗の僧たちが東光院でおこなったそば振る舞いであったと解するのが自然である。
se25  千日回峰 比叡山で行われる天台宗の修行で、7年間をかけあわせて千日間おこなう荒行のこと。4年目と5年目は、1日に30キロの行程を毎年200日行い、9日間の断食・断水・不眠・不臥の「堂入り」の行に入る。この際の前行として百日間の「五穀断」を行うが、この間口にするのはそば粉とわずかな野菜であるという。古くから修験道と蕎麦と関係が深かったことがわかる。
se26  仙波・喜多院 慈性日記に登場する埼玉県川越市にある天台宗の寺院。江戸のそば切り振舞いの初見当時、南光坊天海(僧正)がこの寺の第27世住職であった。各地から江戸に滞在していた慈性たち多くの天台僧たちの逗留寺院は、(そば振る舞いのあった)東光院と(うどん振る舞いをした)法性寺、それと南光坊天海たち専用の仙波・喜多院宿舎の三か所であったと日記から読み取れる。日記に書かれたそば振る舞いやうどん振る舞いは、天台僧たちの、このような江戸での逗留生活の中での出来事であったと言える。
se27  全麺協 全国麺類文化地域間交流推進協議会が正式名称。平成4年度に開催された「世界そば博覧会」への参加を契機にして生まれた自治体間の交流と相互扶助の成果として発足した。そば等麺類の食文化を活かした地域の活性化に取り組んでいる全国の自治体、民間団体間のネットワーク化を図り、相互扶助と協働の精神によって一層の地域振興を推進することを目的としている。なお(1)そば文化に関する情報提供と交流に関すること。(2)そばに関する各種イベントの推進に関すること。(3)自治体の「地域振興事業」の研究と実践に関すること。(4)「素人そば打ち段位認定制度」の普及推進に関すること。(5) その他、全麺協の目的達成に必要な事業。などの事業を主として行っている。
     
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