[ お ] - そば用語の解説一覧 
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o 1  大桑村須原宿 「ソハキリ」が初めて文献に登場するのは信州・木曽大桑村の定勝寺で天正2年(1574)である。この定勝寺は南北朝時代の末期・嘉慶年間(1387〜89)に創建され、木曽川辺りに建てられていたために、文安5年(1448)と文禄4年(1595)の木曽川氾濫で二度にわたって倒壊(流損)している。あとの洪水では、川辺りから木曽義在公館跡であった現在の場所へ慶長3年(1598)に移建されているので、問題の「振舞ソハキリ」と記録される本堂の修復はこの二度目の洪水流損のほぼ20年前の川べりでのことであった。
o 2  大坂市街図屏風 近世初期の傑作で慶長(1596〜)・寛永(1624〜)のイメージといわれる六曲一隻の屏風絵。  大坂城と大坂の町の賑わいを描いていて、その中に「八けんやはたこ町」(八軒屋旅籠町)の町名貼札の近くに、女性がそばかうどんを体重をかけて細くて長い麺棒で延している図が見て取れる。極めて早い時代のしかも女性が麺を延している図はめずらしい。更に、女性の手前に黒く見えるのを拡大すると包丁で、この時代に麺類を切る包丁が登場していることも特筆される。舟底形の形状から畳んだ生地に手を添えて布を裁つように手前に引いて麺線に切っていたのであろうか。
o 3  大坂砂場
  日本唐土・二千年袖鑒
天正12年(1584)に大坂でそば屋が開店したとある。嘉永2年(1849)刊行と時代は下がるが「二千年袖鑒(そでかがみ)」のなかに「すなば」の暖簾が見える津の国屋の店先が描かれ、「天正十二 根元そば名物 砂場 二百六十五年 吉田氏 出所 泉州 東畑村」とある。時代は、秀吉がほぼ天下を掌握して大坂城の築城を始めたのが天正11年で、いまの西区新町にあって「大坂城築城の砂や砂利置き場」で通称「砂場」と呼ばれたので、そこにあるそば屋も「すなば」と呼ばれた。(ただし、これには後世の書物であることを指摘する異論もある)
o 4  大坂の砂場そば
  摂津名所図会
大坂の砂場についての記述はいくつもあるが、特筆すべきは寛政10年(1799)刊行された「摂津名所図会」の新町傾城郭の項にある「砂場いづみや」の図である。暖簾には「す奈場」と染め抜かれ、たいそう繁盛している往来の様子と立派な店構えが描かれている。二枚目には店内の様子も描かれていて、蕎麦を食べる客をはじめ蕎麦を打ち・茹で・盛り・運ぶなどの百名をはるかに超える人々と、店の切り盛りの様子が克明に描写され、臼部屋の石臼の数などからとてつもない規模であったことが窺える。まさしく往時の名物蕎麦屋といったところだ。浪速の新町で江戸期を通じて繁盛した名店であったが、残念ながら明治に入って十年ほどの後に姿を消した。
o 5  大阪の砂場
  新町南公園
かつて大阪の「砂場」があったといわれるあたりは、いまは新町南公園になっていて、さほど古くはないが石碑が二つ建っている。いずれもなにわ筋に面し、北隅には明治21年(1888)自由党の壮士・角藤定憲が「大日本壮士改良演劇会」を旗揚げして、新派発祥となった「新演劇発祥の地」の碑が植え込みの茂みの中に埋もれている。 もう一方の南隅には砂場跡の石碑がある。いささか大仰の感はあるが「本邦麺類店発祥の地 大阪築城史跡・新町砂場」とあって碑文には、『天正十一年(1583)九月、豊太閤秀吉公大阪築城を開始、浪速の町に数多、膨大を極めし資材蓄積場設けらる。ここ新町には砂の類置かれ、通称「砂場」と呼びて、人夫、工事関係者日夜雲集す。人集まる所食を要す。早くも翌天正十二年、古文書「二千年袖鑒」に、麺類店「いづみや、津の国屋」など開業とある。即ちこの地、大阪築城史跡にして、また、本邦麺類店発祥の地なり。坂田孝造・識』とあって、昭和六十年「大阪のそば店誕生四百年を祝う会」が建立している。
o 6  大坂唐辛子売り 京坂(上方)・江戸の風俗や生活を記録した「守貞謾稿」に描かれた大坂の唐辛子売りの図である。店を張らずに、天秤棒を担いで広く町中で商売(あきない)をするのを棒手振(ぼてふり)とか振り売りといい、そばやうどん売りは勿論のこと、野菜売り・魚売り・飴売り・甘酒売り・水売り・氷売り・すし売り・〜など、食べ物や薬類・小物・道具類 などさまざまな物を売り歩いた。その姿は、江戸時代から明治の頃まで続いた。
o 7  「大阪の食事」
  年越しそば
「日本の食生活全集27 聞き書 大阪の食事  農山漁村文化協会 」。大正の終わりから昭和初め頃の食生活を詳しく書き、例えば、「大阪町場の商家」の大晦日について「除夜の鐘を聞く前につごもりそばを食べる。ゆでそばを買い、だし汁はおこぶ(こんぶ)とかつ節でとり、青ねぎを小口切りにして散らす。」 「月給取りの食」では「11時すぎに出前してもらったみそかそばを食べ」「かけそばだが、ふだんは出前などとることがないので・・・なんとなくあらたまった気分になる」。
o 8  大阪のそば屋 大阪のそば屋のなかで、古い町場のそば屋や老舗の店に共通点がある。「熱盛りそば」が品書きにある店と、そば屋の定番メニュー「南蛮」の呼び方である。「熱盛りそば」は、たいてい「せいろ」と称していて普通盛りを「一斤(いっきん)」、大盛りだと「一斤半とかイチハン」とか「二斤」となっていて常連客には根強い人気がある。この中でも熱盛りを扱う店の最右翼となると、やはり、元禄8年(1695)創業という堺市宿院の「ちく満」で、ふた付きの白木のせいろに湯通しされた温かいそばが盛ってあって、生卵を溶いた中に熱々の蕎麦つゆを注ぎ入れた椀につけて食べる。
もうひとつは、そば屋の定番メニューの鴨南蛮・鳥南蛮・カレー南蛮などで、どういう訳かこの「南蛮」の読み方には東西の違いがあって、東では鴨なんばん・カレーなんばんなど「なんばん」、西の上方では鴨なんば・カレーなんばと言って「なんば」である。京都も老舗のそば屋が多く、「熱盛りそば」が品書きにあり、「南蛮」の呼び方も「なんば」である。
o9  大坂繁花風土記 文化11年(1814)刊「大坂繁花風土記」にある年中行事の条では、「正月十四日」について、十四日年越とて、節分になぞらえ祝ふ。この日蕎麦切を食う人多し。とあり、「十二月三十日」は、晦日そばとて、皆々そば切をくろふ。当月節分、年越蕎麦とて食す。とあって、京阪地方では節分に年越しそばを祝うところが多かったことも記されている。
o10  大阪屋七兵衛 『江戸・本郷団子坂にあった「蔦屋」の連雀町店を引き継いだのが今の神田・薮蕎麦の堀田七兵衛初代である。その以前は蔵前で「中砂」という店をやっていて、北池袋にある西念寺の墓石には「大阪屋七兵衛」とあってもともとは砂場系出身だった。』これらの話は、並木・薮蕎麦(七兵衛初代の三男が初代)の次男で池の端・薮蕎麦の堀田主人がかつて対談などで話しておられたという。
o11  大蕎麦谷沢 蕎麦がつく地名や山の名前は案外あって、地名は10ヶ所、山の名前は8山認められる。しかし、「沢」の名前が付けられているのは全国的にも珍しく「新潟県東蒲原郡上川村の大蕎麦谷沢」と「岩手県一関市弥栄字蕎麦沢」の二ケ所である。
o12  大手筋錦蕎麦 幕末から明治にかけて繁盛した大坂のそば店「大手筋錦蕎麦」と「田葉清の蕎麦」。幕末から明治にかけて大坂の百科事典的書物とされる「浪華百事談」(作者未詳・明治28年成立)のなかに書かれている。 「大手筋錦蕎麦」について、錦蕎麦と呼びて商う蕎麦舗は、大手通り谷町筋より少し西の北側にありしなり。錦蕎麦は古き名にて、その製よろしきを以て大手蕎麦ともいいて、人賞して求めしものなり。とある。もう一つの「田葉清の蕎麦」について、心斎橋南詰の東半丁ばかりの処に、天保中田葉清(てんぽうちゅう)といえる蕎麦屋あり、尤も尋常の麺類店にはあらず。という。
o13  大年そば 古来から一年の節目である大晦日には多くの地域で「年越そば」を食べるしきたりがあって土地土地で違った呼び方をされてきた。大阪や京都周辺では「つごもりそば」とか「みそかそば」、東京で「みそかそば」、岡山県上道郡(赤磐郡)の「暮れそば」といった年の節目を指す表現と、東北の一部の「運そば・運気そば」、「歳とりそば」「大年そば」や「福そば」「寿命そば」など運や福、長寿など、さらには旧年の労苦や厄災を断ち切りたいと願う「年切りそば」や、回顧しながら食べる「思案そば」など様々である。
o14  大晦 大晦日 晦日(みそか)・晦(つごもり)はともに月の末日のことで、一年の最後の末日に「大晦日(おおみそか)」または「大晦(おおつごもり)」という。古来からの一年の節目は、年を越して新年を迎える暮れの大晦日と節分であった。その大晦日には多くの地域で「年越そば」を食べるしきたりがあって土地土地でそれぞれ違った呼び方をされてきた。「つごもりそば」や「みそかそば」、「暮れそば」、「運そば・運気そば」、「歳とりそば」「大年そば」や「福そば」「寿命そば」などいろだが、これらを総称するのが年越しそばである。
o15  オオツゴモリソバ 奈良県曽爾村では、戦前(昭和初期)まで畑にソバを作って、家で粉に挽いてオオツゴモリソバを食べたととある。「大和の村落共同体と伝承文化 中田太造著」。*「年越しそば」の項参照
o16  大盛り いうまでもなく、一人前より多く盛り付けることで、通し言葉は「きん」。大盛りは「きん」だから、「もり一枚きん」で大盛り一枚。小盛りだと「さくら」。桜はきれい:少なめにで「もり一枚 台はさくら」となる。
o17  大葉切り 青じそをさらしな粉に打ち込んだ変わりそば。しその葉は太い葉脈を除き出来るだけ細かくみじん切りにし、そば粉と一緒に練り込む。すり鉢かミキサーを使って練り込むと、茹でた麺が全体に緑色になるが、そばを打っているときは青臭い。どちらも、しその色と風味がさわやかである。そば粉500gだと葉が25枚ほど。
o18  大柳生そば祭り 奈良市大柳生町で行われるそば祭り。青少年野外活動センター で地元産の新そばで打った手打ちそば・その他各種イベント。
o19  おかめ 「おかめそば」「おかめうどん」の略称。蓋つきの椀のなかに、いくつもの具(種物)で飾りつけ「おかめ(お多福)」の表情に盛り付ける。蓋をとると「おかめの顔(面)」が現れる趣向。店によって異なるが、結んだ湯葉、薄く切った松茸、蒲鉾二枚、海苔、椎茸、卵焼き、三つ葉などを置いてそれらしく作る。もともと、幕末の頃に江戸のそば屋が考案したものだそうだが、おかめ(お多福)は福が多く縁起が良いということで品書きに載せる店が多くなった。
o20  岡持 料理を運ぶための提げ手が付いた箱または桶で、上面または前面に蓋が付いている。うどんやそばの出前に使われる倹飩箱のこと。けんどん箱は慳貪とも書くが「けんどん」の語源は定かでない。文政13年(1830)に書かれた「嬉遊笑覧」に「享保半頃、神田辺りにて二八即座けんとんといふ看板を出す・・・  二八そばといふことこの時はじめなるべし」とあって、これが「二八」と「けんとん(けんどん)」という言葉の出現時期とされている。「けんどん」も「二八」と同様で、その意味やなにが語源かが分からなくて大いに議論となった言葉である。
o21  置き行灯 そば屋などの店先に置いた看板のひとつ。安定を良くする目的も兼ねて裾開きの台の上に作られた置き行灯(あんどん)が多い。これに対し軒に掛けるのを「掛け行灯」といった。片側に「そば切り」もう片方に「うんどん」、または屋号やそばの名目などを書いた。
o22  沖縄そば 「(沖縄)そば」と呼称されるがそば粉を使用されていない沖縄の麺料理で、「すば」または「うちなーすば」ともいう。小麦粉にガジュマルの木を燃やした灰汁か鹹水(かんすい)を加えて打たれる。一般に麺は太めで、和風のだしを用いる。琉球そばも同じで、宮古島では宮古そば、同様に八重山そば、大東そばなどもあるが同類である。*「かんすい」の項、「ソーキそば」の項参照
o23  沖縄のソバ栽培 古くは、沖縄にはソバを栽培した歴史はなかったが、近年、九州沖縄農研センターの南西諸島農研チームが、沖縄の温暖な気候条件を生かして冬から春季にも適応するソバの品種や作型の研究に取り組んでいる。九州地域の春型品種をめざして開発された「春のいぶき」や「さちいずみ」などで3月頃の播種で5月頃に収穫できる品種の試験栽培に取り組んでいる。*「春のいぶき」の項、「さちいずみ」の項参照
o24  奥院燈明役勤方覚帳 長野県・戸隠神社の古文書でそば切りについての記録がある。戸隠神社はそば切りの歴史も古く、宿坊でのそば切りも有名である。一本の麺棒に生地を巻き付けて転がし、引き戻す時に延し板に打ち付けながら丸延ししていく。戸隠神社の公式ホームページによると「戸隠のそば切りの歴史は江戸時代に始まった。記録によれば、江戸の寛永寺の僧侶に教えられて広まったもの。戸隠寺の奥院が別当をもてなす際、特別食として用意したのがそば切りだったと書かれています。」とある。また、奥院に残る宝永6年(1709)の「奥院燈明役勤方覚帳」には祭礼時に蕎麦切りが振舞われたと記されている。*「戸隠神社 戸隠そば」の項参照
o25  奥平金弥 元和8年(1622) 大和郡山藩の家老の名前。松屋会記(茶会の記録)という奈良転害郷に住む塗師松屋家三代120年の記録があり、その中の二代目・久好が大和郡山藩主・松平(奥平)忠明の朝の茶会に招かれた後、さらに昼になって予定外であった奥平金弥殿へもまねかれ、「ヒノウトン 又ソハキリ 肴色々 菓子モチ・クリ・コハウ」などを振る舞われた。という記録で奈良におけるそば切りの初見である。
o40  おくてそば  おくて蕎麦 「わせそば(早生そば)」と「おくてそば(晩生そば・奥手そば)」。江戸時代に書かれた産物記録の「穀物」のなかに、その地域で栽培されている「蕎麦」の品種が書かれていることが多い。そして地域の栽培や食習慣に適した複数のソバの品種が記録されている。それらの中に隠岐国では「わせそば」と「おくてそば」が記録されている。また羽州庄内領(出羽国庄内)では「大つぶそば」「小つぶそば」「もちそば」とともに「をくそば」とある。このことからも古い時代から早生の品種と晩生の品種を組み合わせることによって収穫期を変えるなどの工夫をされていたことがわかる。現在では、ソバの分類は夏型(春播き型)と秋型(夏播き型)の品種に大別され、さらに夏型・秋型それぞれに近い中型の品種があるが、まさしく「早生(わせ)そば」、「晩生(おくて)そば」と、「中生(なかて)そば」である。
*「わせそば」の項も同じ
o26  おくり包丁 すり包丁のこと。そば包丁本来の使い方で、包丁を前方に押し出すようにして生地を切る方法。生地が柔らかいときにも適している。これに対し、包丁を真下に落とし切る切り方を落とし包丁という。そば生地が硬いときや、太打ちのときにこの切り方をする。*「すり包丁」「落とし包丁」の項参照
o27  おしな湯 そば湯のこと。「信濃風」とかの意。元々は単なる茹で汁で、あまり上等の扱いではなかったところから、軽くあしらうとともに蔑視の意味も込めて「信濃風」とか「おしな湯」と言ったとする解釈が一般的。江戸では、そばは消化が悪く足の速い(傷みやすい)食べ物でそばの後には麺毒を消すために豆腐の味噌煮を吸物として出していた。信濃のそば湯を飲む習慣が、毒消しの目的と共に安直であったのと、そば湯をお茶代わりに出すことによってそばつゆにそば湯を足して飲むこともでき急速に普及していったのであろう。
o28  おしぼりうどん
  おしぼりそば
長野県埴科郡坂城町周辺ではねずみ大根のしぼり汁に味噌を溶かしたつゆでうどんを食べる。このあたりは辛味大根の種類が多く、戸隠や千曲市(旧更埴市)では「おしぼりそば」がある。千曲市(更埴市)灰原地区では古くからの地大根・灰原辛味大根があって平成になって栽培を始め「おしぼりうどん」のつけ汁用としている。
o29  おそばと落語の会
  落語の会
そばを題材にした落語は多い。例えば、「時そば」や「そば清(そばの羽織)」だがいずれも上方落語を東京に移入した演目である。上方落語の「刻うどん」を三代目柳家小さんが、「蛇含草」を三代目桂三木助が東京に移入した。 大阪市福島区海老江にあった「手打ちそば処・やまが」は「おそばと落語の会」でも有名で、若手や中堅落語家の修業の場として毎月第三月曜日は二階で落語の会が開かれて50〜60人の盛況であった。残念ながら2008年4月に30年の幕を閉じた。
o30  小田巻 小田巻蒸し 大坂発祥のうどんメニューに「小田巻き蒸し」(小田巻き)がある。 船場など商人の町・大坂で、商家のお祝い麺として年末年始などによく食べられ、大正の頃うどんが5銭で小田巻きが25銭という記録も残っている。茶碗蒸しがヒントとなって考案されたともいわれるが、大坂から江戸に伝わって東京では蕎麦でも作られるようになった。 【日本の食生活全集 聞き書大阪の食事】によると、船場などでの小田巻きは「伊万里の錦手(にしきで)の大振りの蒸し茶わんに入っていて、底にうどんが少しと、かまぼこ、生麩、ぎんなん、ゆり根、しいたけ、焼きあなごなどがふんだんに入り、まっ赤な伊勢えびのぶつ切りが一番上に乗っている」という豪華版だったそうだ。 片方で、江戸に伝わった「小田巻き蒸し」は、大振りの蒸し茶碗に茹でうどん、かしわ、なると、ほうれん草といったごく庶民的な材料を使い、「うどん屋の茶碗蒸し」風であったという。
o31  落とし包丁 そばを切るとき包丁を真下に落とし切る切り方。そば生地が硬いときや、太打ちのときにこの切り方をする。本来のそばの切り方は「すり包丁」といって包丁を前方に押し出すようにして切る独特の包丁使いをする。ただ、そば打ちの初心者にとってはこのすり包丁はむつかしく落とし包丁のように押切をしてしまう傾向にある。*「すり包丁」の項参照
o32  鬼蕎麦
  大江山の鬼蕎麦
大江山の鬼蕎麦。大江山(おおえやま)は京都府丹後半島の付け根にあって福知山市や宮津市にまたがる連山である。この大江山には三つの鬼退治伝説があり、なかでも源頼光が退治したという酒呑童子伝説が有名である。この大江山のふもとでは、もともとは自然薯をつなぎに打った歯ごたえのある鬼(き)そばだったという名物そばがあって大江山の鬼蕎麦という。
o41  鬼蕎麦
 ソバの品種
鬼そば(ソバの品種)。江戸時代に書かれた対馬藩の産物覚帳によると佐護郷の「鬼そば」と仁位郷でも「内山蕎麦 おにそば」とあり、他に佐須郷「はなたかそま」という記録になっている。このことから対馬国内での蕎麦栽培の品種は鬼そばが主であったのであろう。*内山蕎麦は同地名の盆地に産する鬼蕎麦のことか。
また、京都の河道屋が明治28年に刊行した「蕎麦志」に、九州では薩摩(鹿児島西部)には「多く鬼蕎麦を産す}とある。
*蕎麦誌は、京都の総本家河道屋・植田安兵衛13代当主が明治28年(1895)に刊行した江戸時代からのそばについての書物。例えば、諸国の蕎麦産地について、全国どの地域も産出するが品位に大きな差異があり、著名な地域として十七の産地をあげている。蕎麦志には「対馬国 産出多シ 朝鮮地方ニ之レヲ輸出セルアリ」と記している。*在来品種としての対州ソバの特徴は小粒。

江戸時代の享保20年(1735)頃から各藩から幕府に報告された産物帳のなかでも、上記する対馬藩の他に、陸奥国(田村郡三春)、水戸藩、和泉国の産物帳の蕎麦のなかに「鬼そば」も産することが報告されている。
o33  鬼の石臼 福岡県太宰府市の観世音寺の講堂の左手前にある「碾磑(テンガイ)」。「天平石臼」とも「鬼の石臼」とも俗称されている直径1メートルもの花崗岩の碾磑が現存している。江戸期の筑前国続風土記附録には「くすりのひきうす」とあるがよくわかっていない。奈良東大寺には転害門(建造物は国宝で町名は手貝町)があるが、「東大寺要録(平安時代)」には「碓殿」(製粉所)の記録があり碾磑は製粉用の石臼と考えられている。
o34  おろしそば
  越前おろしそば
越前(福井県)の郷土そば。大根の辛みと、醤油とだしのうまみでそばを味わうこの地域独自のそばの食べ方。もともとは「おろしそば」といっていたが、「越前おろしそば」として有名になったのは昭和22・3年頃からという。小浜では「からみそば」ともいうそうだ。 おろし汁は、大きな鉢に入れて出すのが昔からの様式で、好みで汁の量が加減できる。 基本の薬味はきざみネギとカツオ節だけ。
おろし汁の作り方は、おろした大根に、前もって作って冷やしておいただしを注ぎ、これに好みの量の生醤油をそのまま加える。古くから栽培されていた辛味大根が使われたそうだが、最近は青首大根が主流になっている。青首大根に辛味大根を少し加えてさっぱりとした味を出すのもある。また、大根は下して絞らず繊維を残している。
o35  親子南蛮 鶏肉とネギを卵でとじ、かけそばにのせたもの。江戸の末期にそば屋の品書きに登場している。南蛮ものでは鴨南蛮が最も早く文化年間(1804〜18)といわれ、その後、鶏肉を使った鳥南蛮(かしわ南蛮)も登場する。親子は鶏と卵。
o36  親田辛味大根 長野・下伊那郡下條村親田地区の地大根。正徳年間(1713〜)尾張家に献上された記録があるという。蕪のような扁平の球形、甘みの中に辛味があるので「あまからぴん」とも。白と赤があり、白い方を「ごくらくがらみ」、赤い方を「とやねがらみ」として品種登録されている。
o37  オヤマボクチ キク科ヤマボクチ属の多年草(雄山火口)はヤマゴボウ・ゴボウパ・ゴンボッパの方言のようにゴボウの葉によく似ている。干した葉を蒸して草餅に入れたり、干した葉をもんでもぐさ状にしたものをそばを打つ時のつなぎとして珍重してきた。長野県飯山市富倉は新潟の県境に近い山深い地方で、ヤマゴボウをつなぎに使ってそばを打つ技法が伝わっている。特につなぎに使われるヤマゴボウの葉は、6月中旬に刈り取ったものだけを乾燥させて使い、このそばは冬の寒い時期でも冷たい水でさらしたのを食する慣わしだそうだ。*「富倉そば」の項参照
o38  オリオン座 古来から星は、規則正しく季節や時刻を教えてくれることから、農業に携わる人達にとっては貴重な存在であった。昴(すばる・すまる)はその高さで蕎麦蒔きや麦蒔きの時期を知る重要な目印とされてきたが、オリオン座の「三ツ星」にも「三つ星まっ昼粉八合」という蕎麦まきの時期を言い表したことわざがある。静岡県富士郡では夜明け前に三つ星が南中するころに蕎麦の種をまくと、一升の実から八合の粉が取れるという。鼓のような形をしたオリオン座の中央部分のベルト付近に規則正しく並んでいる星が「三ツ星」である。
o39  女重宝記 元禄5年(1692)初版刊。武家や上流町人の婦女を対象にした教養書で、内題は「新板増補女調法記」。この中に、婦人が麺類の食べる際の心得を書いている。当時は、饂飩の食べ方は素麺の食べ方と同じであったことと、そば切りは一般に(男性は)、椀に入れたそばに汁をかけて食べるのが流行りだしたが、婦人たちの食べ方としては良くない。薬味についても入れるのは良くない。と書いている。この頃(貞享から元禄1684〜)の時代背景をみると、そば切りでは、立ったまま食べられる「ぶっかけそば」が出現して下賤な食べ方と評されている。
     
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