[ な行 ] - そば用語の解説一覧 【 そば用語辞典 】へ戻る 【 Top 】へ戻る |
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ni 1 | 新島 繁 | そばの歴史・文化・民俗研究の第一人者で、市井のそば博士といわれた。「蕎麦史考」「近世蕎麦随筆集成」「蕎麦歳時記」「蕎麦年代記」「蕎麦の事典」など著書多数。2001年初め逝去80才。蕎麦に関わる歴史資料や古文書、各地に埋もれていた食文化や食習慣などについての発掘や研究に大きな功績を残した。特に、素人でそばの勉強や研究を志す後輩たちにとってはきわめて大きな存在であるとともに、与えている影響も大きい。 |
ni 2 | 煮え前は恥 | そばを煮るといっていた時代の教訓である。「煮え前は恥」「そばの煮過ぎは恥じゃない」そばは芯を残さずしっかりと茹でるべきだということ。しっかりした歯ごたえがほしいときは、冷水でしっかりと締めればよい。特に素人が打ったそばの茹で時間はむつかしい。迷ったときは短めよりも長めに茹でるのが良い。昨今、固めでさえあれば「こしがある」として好まれる風潮にあるが、いま一度、先輩方が遺した言葉の真意を考えてみるのも大切では。 *「茹で前は恥」の項参照 |
ni 3 | 煮掛け | お煮掛けともいう。甲信地方の農山村で古くから食べられてきた一種の煮込みで、そばやうどんにかけて食べる。 季節の野菜やきのこ類、油揚げなどをだし汁に煮込む。味噌汁の場合もある。茹でて小分けしておいたそばをとうじ籠で鍋に入れて暖め、椀に入れて野菜や汁をかける「とうじそば」もある。 |
ni 4 | 苦蕎麦 ニガソバ | ダッタンソバのこと。普通ソバと同じタデ科ソバ属の一年生草本。中国の四川省(や雲南省)には、ダッタンソバを主食にしている高地の少数民族がいて、生活習慣病の発生率が極めて低いことからにわかに注目を浴びるようになった。苦味のある特徴から「苦蕎麦・ニガソバ」ともいわれ、このソバに含まれるルチンが普通ソバに比べて数10倍〜100倍も多いことがわかってさらに注目されるようになった。*「タータリカム(苦ソバ)」「ルチン」の項参照 |
ni 5 | 肉分け | そばを打つ時の「延し」の工程でおこなう四つ出しの次の作業で、「肉分け」と「幅出し」を同時に行うことが多い。四つ出し直後は麺生地の四辺の中央部が厚くなっているので延し棒で厚みを均等にならす。要するに、厚いところの肉を薄いところに分けて均等にする作業。同時に、左右の角を出し辺を平行に揃えることによって「幅出し」もする。*「四つ出し」「幅出し」の項参照 |
ni 6 | (大手筋)錦蕎麦 | 幕末から明治初年にかけての大坂の風俗史料といわれる浪華百事談に書かれている当時の繁盛そば屋。「にしき蕎麦と呼て商ふ蕎麦舗は、大手通り谷町筋より少し西の北側にありしなり。三四拾年前は、大坂市中に蕎麦而已うちて売舗は二三軒よりなく、麪類を売る家も、今の如く多からず。殊に此錦そばは古き名にて、其製のよろしきを以て、大手蕎麦とも云ひて、人賞して求しものなり。」とある。*「浪華百事談」、「田葉清の蕎麦」を参照。 |
ni 7 | 西素麺屋町 | 素麺が地名になっている例がある。山梨県身延地区には西素麺屋町や東素麺屋町があり、広島県三次市には下素麺屋一里塚という地名も残っている。 素麺は古くから朝廷や貴族、または寺社を背景にした素麺供御人や素麺座が形成された。なかには荘園領主や寺領の供御年貢を取り扱う任務を請け負う「素麺屋」が登場した例もある。*「東素麺屋町」も同じ |
ni 8 | にしんそば | 身欠きにしんを柔らかく煮込んでそばに載せた種物。文久年間(1861〜63)創業の京都のそば屋「松葉」の二代目が明治15年頃考案して評判になった。底冷えのする京の冬の味覚にもあってそばの名物のひとつになっている。その後、全国各地にも広まって地域を問わずそば屋の定番品書きのひとつである。もともと海を持たない京の都にもたらされた貴重な動物性タンパク質の身欠き鰊とそばを組み合わせた出会い物。 |
ni 9 | (日本唐土) 二千年袖鑒 |
嘉永2年(1849)刊行の歴史年表集で、嘉永2年までの年数を注記した絵入年代記。この中に「すなば」の暖簾が見える津の国屋の店先が描かれ「天正十二 根元そば名物 砂場 二百六十五年 吉田氏 出所 泉州 東畑村」との添書きがある。すなわち、天正12年(1584)に大坂でそば屋・津の国屋が開店したとある。時代は、秀吉がほぼ天下を掌握して大坂城の築城を始めたのが天正11年で、いまの西区新町にあって「大坂城築城の砂や砂利置き場」で通称「砂場」と呼ばれた場所であった。 ただし、後世の書物であるので、当時の実録ではないという異論もある。 |
ni10 | 日新舎友蕎子 | 江戸時代中期に書かれた「蕎麦全書」の著者。日新舎友蕎子については自らもそばを打ち、そばに精通していた江戸の住人としかわっていないが、寛延4年(1751)に三巻一冊本を脱稿(書き終え)している。蕎麦全書は、江戸時代で唯一といえるそばの専門書で、「本朝食鑑」を引用しながら私見を述べ、ソバの産地や有名ソバやそば粉のこと、そばの作り方や茹で上げたそばの扱い、そばつゆの作り方や薬味について、さらには江戸市中のそば屋の屋号や有名店の消息、粉屋など、多くの貴重な解説と史料を残している。 *「蕎麦全書」の項参照 |
ni28 | 煮貫 にぬき |
江戸時代より前、またはしょう油が普及する以前の味噌由来の調味料 「垂れ味噌」は、味噌に数倍の水を加えて煮出したのち、布袋に入れて垂れてきた(漉した)もの。これの火を入れないものが「生垂れ」。「煮貫き」は、生垂れに削った鰹節を入れて煮詰め、漉したもの。 「料理物語」で、そばつゆについて「汁はうどん同前」とあって、うどんには「汁はにぬき 又たれみそよし」とある。 「料理物語」 なまだれ:みそ一升に水三升入て袋に入たれこし候也。たれみそ:みそ一升にみず三升五合入三升にせんじ袋に入たれてよし。にぬき:なまだれをして又かつうを入せんしたるをにぬきといふ也。 だし汁:かつうをよき所をうすうすとかきて一升あらは 水一升五合か二升入せんし あちはひをすい見候て よきところにあけてよし(せんじすきたるも又あぢはひあしくなるものなり) 注:「垂れ味噌」の説明もこれと同じ。 |
ni11 | 仁八 二八 |
「二八そば」の語源はわかっていない。江戸中期以降の風俗資料や芝居の登場人物に「二八」とか「仁八」という名前を「二八そば」にかけて意図的に登場させている。安永5年刊行で初物評判を記した「福寿草」の「四季初物惣目録」の第一番に初かつお(夏)・二番手に初さけ(秋)・三番は初酒(秋)・四番目に新そば(秋)が登場する。この新そばの口上に、「深大寺の強力正直坊」「木曽殿のとちめん棒」「中げん二八」など蕎麦に掛けた人物を挙げながら「二八という人物」を登場させている。また江戸後期の浮世絵師・歌川豊国筆の「花街模様薊色縫」では、歌舞伎の題材で二八そばの看板を付けた蕎麦売りの図に仁八という男を登場させている。他にも、歌舞伎の通称「河内山(宗俊)」と言われる「天衣粉上野初花」の場面で、雪の夜「直侍」が入る入谷村の蕎麦屋の主も仁八である。さらにあげると、鶴谷南北の芝居「四天王楓江戸粧」のなかに出てくる風鈴そば売りの名前もまた仁八である。 |
ni12 | 二八うどん | 二八そばは有名だが同時に「二八うどん」もあった。それどころか「二六そば」「二六うどん」更には「二六にうめん」まであった。にもかかわらず、多くの書物が「二八の語源」として挙げる説明に「粉の配合割合説」がある。いうまでもなくそば粉と小麦粉の割合が「2:8(8:2)」のことと主張する。だとすると、小麦粉(と食塩水)だけが原料のうどんやにゅうめんの説明にはなりえない。要するに、「二八そば」の語源は「二八うどん」の語源としての説得力もなければならないのである。 |
ni13 | 二八そば | 江戸時代の比較的早い時期に出現したとされる有名なそば用語の「二八そば」の語源については、二つの観点からみる必要がある。ひとつはその出現時期であり、もうひとつは「二八」とはなにを意味するのか、そのように呼ばれるようになったいきさつや背景はなにかということである。 出現については、享保時代の「享保世説」に「仕出したは即座麦めし二八そば みその賃づき茶のほうじ売」という落首があり、文政13年(1830)刊「嬉遊笑覧」に、「享保半頃、神田辺にて、二八即座けんどんといふ小看板を出す。二八そばといふこと、此時始なるべし」とあって「二八」という言葉の初見は享保13年頃だとされている。問題は「二八」という言葉の語源についてであり、いまだにいろいろの説はあるもののどれも確証はなく結論が出ていないという不思議な言葉である。 |
ni14 | 二八蕎麦(の)語源 二八の語源 |
主たる語源説には、価格説と配合割合説があるが、価格説の二×八=十六文については、「二八そば」が出現した頃のそばの値段は六〜八文だからこれを語源だとするには無理がある。もう一つの配合割合についても、江戸時代の早い時期に粉の総量を十割としてそれに対する二割を小麦粉にし、八割をそば粉で計量する現在的な配合計算をしたとは考えにくい。おそらく「(そば粉)四杯と(小麦粉)一杯」とか「大きな枡一杯に小さい枡二杯」、または同じ分量の「同割り」の「一杯一杯」などの分量での計量であったと考えられる。特に、小麦粉(と塩)だけで作られるうどんにも「二八うどん」が登場している。「二八そば」の語源は「二八うどん」の語源と共通する必要がある。 ただし、これらも時代を経て、そばやうどんの値段が物価上昇で十六文になり、これが幕末近くまで続くので、ふたたびごろ合わせで「二八」という言葉が脚光を浴びて語源とは別の「ニハチ・十六文価格説」がおおいに流行する。やがて、幕末・維新の物価高騰で慶応(1865)には一気に24文になって「ニハチ・十六文」の根拠を失う。今度は新たにそば粉八割(つなぎ・小麦粉二割)という意味の配合割合という説が台頭してくるのである。 |
ni15 | 二八の時 | 十六文のそばを二八(ニハチ)としゃれた九九説は、それ自体に説得力があって理解しやすいが、十六文というのは江戸の後期の7・80年間だけであった。それ以前の六文とか八文の中で出現してきた言葉の説明にはなり得ないことは二八の語源で説明した。もともと二と八(の積)で十六を表している例などはそれ以前からあって、太平記(1368〜75)に「二八の春の比(ころ)より・・・」などとあり、とくに女性の年齢・十六才の異称として使われてきた言葉である。 |
ni16 | 二番粉 | 製粉の過程で、初めに出る内層部の粉が「一番粉」。その次に出るのが中層部の「二番粉」で、うす緑黄色で香りや風味に優れ、栄養価も高い。ソバの実(玄ソバ)を粗挽きして篩にかけると、「ソバ殻」、「(殻がとれた)丸抜き」、「(大きく割れた)上割れ」、「小割れ」、「花粉」に選別される。これら脱皮の工程を「挽き抜き」という。先ず最初に出た粉は打ち粉に使われる「花粉」で、さらに「上割れ」だけを挽いたのが「さらしな粉(御前粉)」。次に、残った「割れ」と「丸抜き」を挽いて篩うと「一番粉」(ロール製粉の場合は一番ロールを通って篩われた粉)である。ソバの実の中心部の白い粉(内層粉)。残ったのをもう一度挽いて篩うと「二番粉」で、同様に「三番粉」。最後に残ったのが「した粉(さなご)」である。 |
ni17 | 二番出汁 | 昆布や鰹節で先ず「一番出汁」をとり、一番出汁をとった後に水(お湯)を入れてもう一度煮出したものを二番出汁という。日本料理では「一番だし」は、主として吸い地(椀物の汁)に用い、「二番だし」はみそ汁や煮物のだしなどに使われる。そば屋の場合は「返し」を一番だしでのばしてざるやせいろの「つけ汁」にする(関東では「辛汁」という)。さらに、この「つけ汁(辛汁)」に二番だしを加えて2〜3倍にのばしたものを温かいかけそばや種物に使われる(関東では「甘汁」という)。 |
ni18 | 日本蕎麦協会 | 農林水産省所管の社団法人で昭和50年(1975)に設立された。会員はソバの生産農家、ソバ製粉業者、ソバ麺類販売業、玄ソバ輸入業者などの各団体で構成されている。住所 東京都千代田区神田神保町2−4麺業会館。 |
ni19 | 日本麺類業団体連合会 | 麺類業界の振興を目的とした全国団体で、社団法人日本麺類業団体連合会(略称:日麺連)と全国麺類生活衛生同業組合連合会(略称:全麺生連)の二団体がある。日麺連は農林水産省所管の公益法人であり会員数42組合、全麺生連は厚生省所管で24組合である。実際には人的・物的共に一体で運用されていて「総称して連合会と呼ばれている。 |
ni20 | 二六そば | 「二八そば」が現れたのは享保13年(1728)頃である。その後、二八そばや二八うどんだけでなく、二六そばや、更には二六にうめんも出現する。しかも、寛延4年(1751)脱稿の「蕎麦全書」のなかにも、二八そばや二六そばが登場しているので、わずか20年間に「二八」や「二六」を名乗るそば屋が出現していることもわかる。このことからも「二八」という最初のキャッチフレーズはなにを意味したのだろうか。ただし、物価が上がって十二文や十六文が現れてからの時代に限定すれば「二八」や「二六」の価格説は肯定できることになる。 |
ni21 | 二六新そば | 宝暦3年(1753年)初版「絵本江戸土産」の挿絵は、両国橋のたもとの賑わいを描いていて、右手奥に「きりや」という麺類店があり、置かれた行灯看板の片面に「うんどん」、もう片面に「二六新そば」と書かれている。また、その前の葭簀張りの店の左手に、掛け行燈の片面に「そば」もう一方に「二六にうめん」と書かれてある。さりげなく、うどんとそば、にうめんまで登場させている。新そばもにうめんも秋から初冬を表し、新そばとにうめんを「二六」としている。 |
ni22 | 二六にうめん | 宝暦3年(1753年)初版「絵本江戸土産」の挿絵は、両国橋のたもとの賑わいを描いていて、葭簀張りの店の左手に、掛け行燈の片面に「そば」もう一方に「二六にうめん」と書かれてある。「二六」の意味はさておき、にうめんは素麺を温かく煮込んだもの。一部に、温かく煮こんだそばを「煮麺そば(にうめん)」という場合もある。寛永20年(1643)跋刊の「料理物語」に「にうめん。まづ素麺をみじかくきり、ゆで候て、さらりとあらひあげおき、たれみそにだし加へ、ふかせ入侯。小菜・ねぶか・なすびなど入れてよし」とある。 |
ni23 | 日本山海名物図会 | 宝暦4年(1754)刊行の挿絵を主とした物産や名産の案内図会。著者も画家も大坂の住人のためか近畿の産物が多く載る。三輪素麺について「大和三輪素麺名物也、細きこと糸の如く白きこと雪の如し、茹でて太らず余国より出ずる素麺の及ぶところにあらず」と記している。また、「堺庖丁」については出刃・薄刃・刺身包丁・まな箸・たばこ包丁、いずれも名物であるとして、店頭風景が描かれている。 |
ni24 | 日本そば大学講座 | 全麺協が主催。そばによる地域活性化と地域振興のために、そばについて幅広い知識と教養を身に付け、そばの食文化の普及、啓蒙の指導的役割を担う人材を育成する目的で開催するもの。第1回が2005年に北海道・幌加内町で、第2回は06年長野県飯田市で開催された後、福島県喜多方市と埼玉県での開催を経て再び北海道・十勝新得で第5回が催された。いずれも東日本地域である。第6回 神戸須磨学舎は初めて西日本地域で行われたもので、総勢260人が北海道から九州までの各地から参加した。参照:全麺協(全国麺類文化地域間交流推進協議会) |
ni25 | 日本農林規格 JAS |
農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律に基づく、農・林・水・畜産物およびその加工品の品質保証の規格(1950年公布のJAS法で、JAS規格)。この規格に適合した製品にはJASマークと呼ばれる規格証票を付した出荷・販売が認められている。そばについては、重量比でそば粉の配合率が30%以上であれば食品としての分類は「そば」となり、乾麺の場合は、JASマーク・標準でそば粉40%、上級が50%となっている。 |
ni26 | 日本の食風土記 | 著者:市川 健夫(1927年 〜 )は長野県上高井郡小布施町出身の地理学者。「信州蕎麦学のすすめ」など著書多数。「日本の食風土記 白水社」では、ワシントン大学の塚田松雄教授によると、島根県飯石郡頓原町から一万年前のソバの花粉が発見され、高知県高岡郡佐川町では九千三百年前、更に北海道でも五千年前のソバ花粉が出ているとある。 |
ni27 | 日本歴史地名体系 | 古代・中世・近世を通じ全国の地名20万についてあらゆる角度から収録して解説した歴史地名事典。例えば、蕎麦の地名「茨城県東茨城郡茨城町蕎麦原」について、蕎麦原村は涸沼川の左岸に位置し、東は越安村。中世は宍戸氏の支配下にあった。慶長7年(1602)秋田氏領となったことを示す御知行之覚に、そば原村九四八五七石が出る。江戸時代は旗本領で元禄郷帳に「蕎麦原村」とみえる。幕末は、松平蔵之介知行地。とある。 |
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ぬ | 抜き ぬき実 |
玄ソバからソバ殻を取り除いた薄い緑色のソバの実。「丸抜き」「挽き抜き」ともいい、ソバの実(玄ソバ)を粗挽きして篩にかけ、ソバ殻を除去して甘皮に包まれたソバの実。ここまでが製粉工程の「ぬき」のこと。 以下はソバの自給率の算出に関わる問題で、2009年までのソバの輸入量は、輸入統計品目「そばの実(殻付)」すなわち玄ソバの数量であった。しかし実態は、玄ソバのほかに抜き実の状態で輸入されるものの割合が増えていた。このことから、2010年以降、国内産ソバ生産量(玄ソバ)に対する外国産ソバ輸入の総量(抜き実の玄ソバ換算を含めた)が統計上で把握算出されることになった。*「玄ソバの国別輸入量」を参照。 |
抜き 例えば「天ぬき」 |
種もののそばを抜いたもの。例えば、釧路の竹老園東家総本店の蕎麦コースには、「かしわそば」からそばを抜いた「かしわぬき」が付いている。東京のそば屋でも最近はあまり見られなくなったが、天麩羅そばのそばを抜いたものを「天ぬき」または「天すい」。鴨南蛮の「鴨ぬき」など。酒の肴、または、吸い物として一部の客に好まれた。 | |
抜き屋 | 江戸時代から明治・大正のころまでは水車を利用して雑穀類を脱穀する商売があった。江戸のソバでは信州、甲州、武州から馬で運ばれてくるのは中野周辺に集積されて、江戸市中のそば屋に卸されたが、ソバの実(玄ソバ)からソバ殻を取り除いて甘皮に包まれた緑色のソバの実(抜き実)にする商いがあって抜き屋といわれた。 | |
ぬき湯 | そば屋の茹で湯のこと。そばのぬき湯は栄養価もたかくそば湯として客に供されるが、うどんを茹でた湯は塩分を含むので捨てられた。 昔から、うどんを茹でた湯は捨てられる運命にあったため、役に立たない者の例えに「うどんの湯」とか「うどんのぬき湯」とも言われたそうだ。 |
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布屋太兵衛 | 更科そばの老舗、寛政2年(1790)に麻布永坂に「信州更科蕎麦処布屋太兵衛」の看板を揚げた初代。もとは、信州更級郡の反物商として保科家の江戸屋敷に出入りし、得意のそば打ちで代々殿様にそばを献じていたことに始まるという。信州更級と保科家から賜った科で「更科」としたのだそうだ。 | |
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ね | 葱 ネギ | そばやうどんにはネギは欠かせない薬味で、関西では青ネギを刻むことが多いが、関東では白根を薄く切って冷水で晒したものを水切りして添える。昔、信濃では、辛みの強い大根にネギを挟んで下ろし、これを味噌に加えて延ばし蕎麦つゆとした。そば切りの薬味としてネギが初めて記録されているのは、寛永13年(1636)中山道の贄川宿で「蕎麦切ヲ賜、・・・蘿蔔汁ニ醤ヲ少シ加ヘ、鰹粉・葱・蒜ヲ入レ・・」と書いた「中山日録」である。また、「生葱:根の白味斗りを用ゆ」と書いているのは寛延4年(1751)10月脱稿の蕎麦全書である。 |
ねぎ(箸)そば | 福島県会津地方に「ねぎ箸そば」といって、椀に入れたそばに20センチ程の葱を丸ごと入れていて箸代わりにも薬味にもしてそばを食べる風習が残っている。祝い事など「そば口上」がある席で出されるそうだ。この地域は昔、高遠のそばが会津へ伝わったという話から「高遠そば」というそばの食べ方もあり、ねぎ(箸)そばで、葱が添えられる。 | |
寝覚蕎麦 寿命そば・越前屋 |
江戸時代から木曽路名物のそば屋。中山道上松宿を通る参勤交代の諸藩の大名も味わった老舗そば屋である。当時の賑わいを浮世絵師・歌麿は「寝覚蕎麦越前屋の図」でそばを食べる商人や旅人を配した店の様子を描き、十辺舎一九は「木曾街道続膝栗毛」で「寝覚蕎麦越前屋」について「それより寝覚めの建場にいたる。此ところ蕎麦切の名物なり、中にも越前屋といふに娘のあるを見て、名物のそばぎりよりも旅人はむすめに鼻毛のばしやすらむ・・・」など書いている。店によると、創業は寛永元年(1624)開業とあり、一説には、元禄の頃ともいう。 | |
ねずみ大根 鼠大根 |
その姿が下ぶくれで、寸詰まりの大根で、ついている根が細くて長いので鼠の尻尾に似ているところから「ねずみ大根」といわれる辛味大根がある。信濃では埴科郡坂城町のねずみ大根で、江戸時代に長崎から薬草として導入されたともいわれる。強い辛味のあとに芳醇な大根の香りと甘味が広がるので土地では「甘もっくら」と表現する。 近江国(滋賀県)では伊吹山の麓、坂田郡伊吹町大久保地区の鼠大根は古くから存在が知られ、「峠の大根」といわれ独特の甘味と辛味が特徴の名産品だった。また、土中に浅いので蹴って掘り起こすので「けっから大根」とも。石灰質の土質のこの地以外では辛味を生成しないという。江戸期に各藩が幕府に報告した産物調べのなかでは「祢づミ大こん」とか「鼠大こん」と書かれ、伊豆国、尾張国、越前国、美濃国などに産している。 |
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根付け | 根付(ねつけ、ねづけ、ねっけ)は、江戸時代に印籠や巾着、煙草入れなど提げ物の根元に結び付けられて着物の帯の上に引っかけて提げられた留め具。めずらしい蕎麦打ち職人の根付は、わずか3.5センチほどの小さい彫刻だが大きなそば玉を体重をかけながら練り込んでいるそば打ち職人の力量が伝わってくる傑作である。 | |
練りくり | 煮てつぶした薩摩芋にそば粉を入れて練った食べ物。岡山県浅口郡鴨方町に伝わる練りくりはそば粉とサツマイモを煮て塩味で食べる。山梨県の山間地でも「ねりくり」というのがあって、薩摩芋を茹でて皮をむいてすりこ木でつぶし、そば粉を入れて練って塩味を付ける。宮崎では、「ねりくり、ねったくり」などというが、煮た薩摩芋と残り餅(またはもち粉)を入れてさらに煮て少しの塩を入れてすりこ木でつき混ぜる。きな粉をかけたり、まぶしたりもする。 | |
年切りそば ねんきりそば |
「年越しそば」には、迎える年の運や福、長寿などを願いながら食べるしきたりが多いが、そばは切れやすいので旧年の労苦や厄災を断ち切りたいと願って「年切りそば」という地域がある。*「年越しそば」の項参照 | |
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の | 延し | そばを打つ時の麺生地を均一な厚さで平らに延ばすこと。元来、そばの打ち方は「丸出し」を一本の麺棒を使ってさらに大きな丸に延していく方法であったが、現在の江戸流といわれる打ち方は麺棒を三本使い、「丸出し」「四つだし(角だし)」「幅だし」「肉分け」「本のし」で一連の延しの作業を終え、「たたみ」を経て「切り」に入る。 |
延し板 延し台 |
そばやうどんを延ばす時に使う台。打ち板(うちばん)とか麺台ともいう。素人の初心者用そば打ちには90cm×90cm程度の板でも良いが、少し本格的になると、幅が120(150)cm×奥行90(100)cmくらいが使いやすい。これだと、粉の量が1.5キロや2キロくらいにも使える。さらに大きくなると200cm巾、奥行き120cmなどもあるが素人のそば打ちでは必要ない。生粉打ち(十割そば)の延し板は一般的に小さく、例えば75cm×60(90)cmなどが多く、寺子屋の机のような形状が多い。材質は桐や朴、シナ合板などが手ごろだが、桧材などの延し板は高価である。碁盤や将棋盤などに使われる桂材のものが最上だそうだ。 | |
延しべら | 「延しべら」は「切りべら」の反対の意味から出たそば用語。そば生地の「延した厚さ」と「切りの幅」が同じであれば切ったそばの断面はマッチ棒のように正方形になるが、 「切りべら」は「延した厚さ」よりも「切りの幅」が狭い(細い)、具体的には江戸のそば職人は、延した生地の幅一寸(3.03cm)を23本に切るのを基準にしていたので厚みを約1.5mmに延して23回で切ると一本の切り幅は約1.3mmになり多少縦長ぎみの長方形にはなるが麺自体を細くした勘定になる。このような例が「切りべら二十三本」である。 「延しべら」はこの反対で、延したそば生地の厚さよりも切り幅が広いことをいう。そばの断面は横長気味の平たい麺になる。形の上での例をあげると「きしめん」状になる。*「切りべら」の項参照 | |
のし棒 | 麺棒・のし棒。そばやうどんをのす道具。地域性や打ち方の違いがあって、一本だけで打つ場合や、太い麺棒や細いの、長短三本を使い分けるなどいくつかのケースがある。江戸流といわれる打ち方は、短い延し棒と、長い巻き棒が2本のあわせて三本を使う。延し棒(長さ90cm×〜3cm)が一本、巻き棒(〜120cm×〜3cm)が二本である。のし棒の延しは麺生地を均一な厚さで平らにするのが目的で、巻き棒は生地を巻き取って作業をしやすくする。材質は、ひのき、ひば、樫、朴の木、桜、栂など。延し棒はいったん反りがでると修正ができないのでできるだけ柾目が通り節目のないのを選びたい。保管時の直射日光や湿気にも注意が必要である。 | |
野尻 抱影 | 日本の天文研究家で天文民俗学者。古今東西の星座・星名を調べ星の和名の収集研究者であり、冥王星の命名者でもある。「日本星名辞典」「星座巡礼」「日本の星」など著書多数。古来から星は、規則正しく季節や時刻を教えてくれることからも、農業に携わる人達にとっては貴重な存在であった。牡牛座にあるプレアデス星団を日本では昴(すばる・すまる)と呼び、その高さで蕎麦蒔きや麦蒔きの時期を知るための重要な目印とされてきた。そば蒔きの時期を表した諺には、「すまる、まんろく粉八合、頭巾落しの粉一升」ということわざは、「すばる」が夜明け方に南中したときにそばを蒔くとよく実り、一升の実から八合の粉がとれ、さらにまんろくが西へ過ぎ、頭巾がすべり落ちるほどの高さに達したときに蕎麦を蒔くと、一升の実から一升の粉が取れるという。他にも、 「三つ星まっ昼粉八合」などソバと星の諺を紹介している。 *粉八合・粉一升を参照。 |
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のの字食い | おそらく旦那衆の遊びが高じてであろうか、現在ではとても考えられないそばの食べ方がある。「そばの曲食い」と称する代表的なものに「のの字食い」と出雲の「拍子木食い」がある。明治の中頃まで行われたという「のの字食い」は二本の箸先をそばのなかに差し込んでのの字を書くようにして、ひとすくいにそばを口中にかっ込んでしまう食べ方という。出雲地方の「拍子木食い」は昭和初期までみられたそうで、割子そばを盛った角形のわりごを左右の手にひとつずつ持って拍子木のようにカチカチ打ってそばを口の方に寄せながら箸を使わずにすすり込んで食べる。 | |
のれん (暖簾) | 古くは、日除け、風や塵よけ、または目隠しなどで店先に掛けた布地だったが、次第に商家の目印として文様を入れるようになった。江戸時代になると文字を染抜いて屋号や商標を入れ、次第に商家にとってさまざまな意味合いを持つことになった。奉公人制度からの「暖簾分け」や暖簾を共有する「暖簾会」をはじめ、日常の「暖簾を出す(仕舞う)」などなど。ときには、店や商標についての信用や格式などを代表することもある。 | |
のれん御三家 | 江戸そばの老舗で代々続いている「のれん御三家」といえば、数ある中でもやはり代表は「藪」と「更科」それと「砂場」である。「薮」という名称の興りそのものは江戸・雑司ヶ谷鬼子母神の近くのやぶのなかにあった百姓家の「爺が蕎麦」で当初は「薮の内」とも言われたそうだが、名物であったので一時期藪蕎麦を名乗る店があちこちに現れている。 「更科」は、信州更級郡の反物商として保科家の江戸屋敷に出入りし、得意のそば打ちで代々殿様にそばを献じていたことに始まるという。寛政2年(1790)になって麻布永坂に「信州更科蕎麦処布屋太兵衛」の看板を揚げたのに始まり、信州更級と保科家から賜った科で「更科」としたのだそうだ。「砂場」の発祥は大阪で、いまの大阪・西区新町にあった「津の国屋」「いづみや」というそば屋で、そこは「大坂城築城の砂や砂利置き場」であったので通称「砂場」と呼ばれ、そこにあるそば屋も同様に「すなば」と呼ばれるようになった。この大坂のすなばの系統が江戸に進出した年代やいきさつはわからないが、寛延4年(1751)の「蕎麦全書」の「江戸中蕎麦切屋名寄附名目」では江戸にも「砂場」を名乗るそば屋が何店か登場している。 | |