[ な行 ] - そば用語の解説一覧 
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na 1  内藤流 明治時代の信州松本で手打ちの名人といわれた内藤峯吉翁のそば打ちの技法。江戸時代に信州佐久の武士が棒術を使ってそばを打って将軍家に献上したという故事から工夫をしたという手打ちの流儀という。これが受け継がれて内藤流と称するそば屋がいくつかある。信州内藤流ともいう。
na 2  中打ち ごく一般的なそばの太さのこと。「並みそば」または「中打ち」といって切ったそば一本の幅は1.3ミリほどである。 勿論、そばの太さには地域性や、打つそばの種類でも異なるが、太打ちでも細打ちでもない、江戸そばの普通の太さをいうことになる。一般的には太い田舎そばは噛んで食べるのに対し、さらしなそばや変わりそばは細くのど越しを楽しむ。江戸そばの「中打ち」は「切りべら23本」などといって延した生地の幅一寸(3.03cm)を23本に切るところから、一本の切り巾は約1.3mmという細さになる。ただ、一般的には1.3mmというそばはかなり細いそばだといえる。*「御定法(そばの太さ)」の項を参照
na 3  永坂更科布屋太兵衛 東京麻布十番にある更科そばのひとつ。更科の総本家は東京の麻布十番の永坂更科で、もとは、信州更級郡の反物商として保科家の江戸屋敷に出入りし、得意のそば打ちで代々殿様にそばを献じていたことに始まるという。寛政2年(1790)に麻布永坂に「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」の看板を揚げたのに始まり、信州更級と保科家から賜った科で「更科」としたのだそうだ。現在は「総本家更科堀井」「永坂更科布屋太兵衛」「麻布永坂更科本店」などの屋号がある。
na 4  長崎ちゃんぽん 「チャンポン」の語源については諸説あって、「混ぜること」の意味だとか、中国の福建省の言葉であるなどとも言われるが、よくわかっていない。明治の中頃、当時長崎に来ていた大勢の中国人留学生のために華僑の料理人が安い食材で料理を提供したのが始まりだといわれる。野菜や肉の切れ端などを炒め、中華麺を入れて煮込んだのを、ちゃんぽんと名付けた。その後、チャンポンは長崎の郷土料理になり、太い麺と具材の多さに特徴がある。さらに、多くの地域の麺料理にも影響を与えてきた。
na 5  長浜ラーメン 白濁豚骨スープの博多ラーメンの老舗のひとつ。昭和30年頃、福岡の魚市場が長浜に移設されたことから、屋台のラーメンも移転して長浜ラーメンとして有名になった。茹で時間の短い細めんで、「替え玉」の仕組みも出来ていった。
*「博多ラーメン」の項参照
na 6  中抜き包丁 福島県会津地方は、全国でも類を見ない珍しい型の「中抜き包丁」が伝わっていて包丁本体に長方形の窓があいた形の会津包丁で、押し切りで使う。包丁に共通する外部に突出した握り部分は無く、包丁本体の上部(天井)に長方形の窓があってここが握り部分である。窓あき包丁。会津型そば包丁とか中抜き包丁という。
na 7  夏ソバ @夏に収穫されるソバのこと。ソバの収穫には夏と秋があるが、昔は、夏のものは「新そば」とは呼ばれず、敢えて「夏そば」と言われて秋物と区別された。このことから、味も風味もいい秋のそばを称してのみ「秋新」とか「新そば」ということになっている。以上は、ソバの収穫期の違いによっていわれたことだが、季節による「夏のソバ」という場合もある。梅雨の時期を過ぎ、気温と湿度の高まる夏にはそば粉の色合いや食味も風味も落ちるといわれ、一般に「夏のそばはまずい」とされている。陳(ひね)ソバ。
Aソバの品種を播種の時期からみた夏ソバ(夏栽培型品種)と秋ソバ(秋栽培型品種)、それに中間型の品種に分けられる。夏ソバは4月〜6月(〜は地域による時期の違い)に播種して、6月〜8月に収穫する。秋ソバは、7月〜9月上旬に播種し9月〜11月中旬に収穫される。
na 8  夏焼き 焼畑は、地域や地形さらには山の高低や日照条件などによって「春焼き」と「夏焼き」に分けられる。いずれも焼いた初年目にはそれに適した作物を蒔き、2年目、3年目とそれぞれに適した作物に変えながらおおよそ4年から5年くらいを一区切りとして終える。その後は再び草木のはえるままに放置して自然の山に戻し、地力の回復した10年、20年後再び焼畑として用いる。山間僻地の生活では何世代にもわたる営みであり、何ヶ所もの焼畑用の山の区画を持って、順次一区切り(1サイクル)付く頃に次の用地を焼くという形で常にいくつかの焼畑が営まれながら焼畑農耕が続けられてきた。
na 9  浪花の風 安政2年から文久元年(1855〜61)まで大坂町奉行に在職した久須美祐雋(すけとし)の随筆。見聞した大坂の人情・風俗・物産・食物などについて記しているなかで、江戸人の口に合わないもののひとつとして大阪のそばをあげている。「其内蕎麦切は殊にあしく、其色合もあかみを帯て味ひ宜しからず・・・・・製法もよろしからず」「うどんは・・・・おおいによろし その色は雪白で 味わいは甘味なり」と書いていて、江戸のそばを食べ慣れた者からみた大坂のそばの評価について書いている。
na10  浪華百事談 幕末から明治初年にかけての大坂の風俗史料。作者は未詳。天保以後のことについて神社仏閣の縁起や名勝旧跡、物産風俗の移り変わりや食べ物の記述など実際に見聞きした記事が多い。蕎麦の繁盛店として大手筋錦蕎麦と田葉清の蕎麦が尤も佳品だと書いている。また、「三四拾年前は、大坂市中に蕎麦而已うちて売舗は二三軒よりなく、麪類を売る家も、今の如く多からず。」「文政、天保の頃には蕎麦のみ製し商ふ家、大坂市中には至て少し。」とある。
na11  生返し 「返し」と「だし」をあわせて「そばつゆ」などを作るが、その「返し」の作り方のひとつ。水に砂糖を加えて煮溶かしたものを醤油に加え、加熱しないで「ねかす」。これに対し、醤油と砂糖を合わせて加熱するのを「本がえし」、砂糖を溶かす分だけの醤油を加熱して、それを醤油に入れる方法を「半生返し」という。*「返し」の項参照
na12  生舟 (なまぶね) 「なまぶね」は聞き慣れない言葉だが、切った麺を入れておく蓋付きの長方形の箱のこと。元々は木製の箱であったが、名前の由来は「生(なま)そば」を入れて保存するための平たい箱(ふね)のこと。杉板を使うことが多い。
na13  生めん 手打ちそばの場合は茹でる前の生(なま)の麺のことで、生そば(なまそば)という。一般的に「生麺」と言う場合は、麺類を成形したままの状態で未加熱・未乾燥のもの。なお、この状態で凍結させたものも生めんの一種とされて冷凍生めんという。
na14  並木・藪蕎麦 藪そば系を代表する三店のひとつ。「かんだやぶそば」の三男が東京都台東区雷門前で創業。「薮の辛つゆ」としても有名である。藪そば系を代表する三店とは、明治13年(1880)創業の「かんだやぶそば」、大正2年(1913)の「並木藪蕎麦」、「池之端藪蕎麦」は昭和29年(1954)の創業である。
na15  なめこそば ナメコを具にしたそば。大根おろしとナメコを一緒に上置きすることが多い。ナメコは表面を覆っているぬめりと歯触りが身上で、特に岩手、山形、秋田など東北の天然物が上質とされたが、現在では各地で栽培されている。
na16  鍋焼うどん 鍋焼きうどんは、幕末の頃大坂で流行し、明治の初めに東京にも伝わった。土鍋を用い、具には海老の天ぷら、鶏肉、かまぼこ、鶏卵、しいたけ、青物などが豪華に入る。元治2年(1865)に、大坂で上演された「粋菩提禅悟野晒(すいぼだいさとりののざらし)」という芝居の中で、四天王寺山門前で夜鳴きうどん屋が、鍋焼きうどんの流行している様子を客に話している台詞が出ている。また、明治13年に、東京・新富座で上演された河竹黙阿弥作の「島鳰月白波(しまちどりつきのしらなみ)」のなかで、夜鷹そばの売り手が少なくなって、鍋焼うどんが増えていると話す夜蕎麦売と客とのやりとりが台詞となっている。
na17  鍋焼きうどん売り 今では、全国のうどん屋の定番になっているが、先ずは幕末の大坂で流行し明治の初め頃東京に伝わって全国に普及した。【明治物売図聚 三谷一馬著 立風書房】の「なべやきうどん売り」のなかで、明治38年「太平洋」から引用した文があり「看板の行燈へ、当り屋とか千歳屋とか延喜の好ひ名を記し屋台の上へ今戸焼の焜炉(こんろ)二個を添へた荷を貸す饂飩問屋がある。これで屋台を借りて売子となったら、何時でも鍋焼饂飩屋となれるのだが・・・」「之を借入れても、付属品の汁注ぎ薬鑵 行平鍋 箸 箸入れ・・・雑具は売子の自弁」また、「普通の鰹節と上等醤油で汁を塩味にして・・・上等に食わせるには、汁と種に存外費用が嵩むもので、夫に夜業だから石油と炭に追はれ・・・」てたいへんだが、そこそこの稼ぎにはなるので、「農業の閑を見て、例年遠国から態々出稼に来ることになって居る。」云々とあって、当時流行った鍋焼きうどん売りの様子などがよく分かる。また売り子の装束などは、外見上では江戸時代の夜鷹そば売とあまり変わらなかったようである。
na18  鳴門(なると) なると巻き。かけそばやうどん、鍋焼などに乗せる具材で、白身の魚肉のすり身を延ばし、紅色を一枚巻き込んで蒸したもので、小口切りにした断面が渦巻き模様となる。紅白の彩りを添える。最近はあまり使われなくなったが、昔は、食堂風の店で食べる、そばやうどん、またはラーメンには多く使われた。店によっては一枚、または二枚など。鳴門海峡のうず潮が由来とも。
na19  南光坊天海 江戸時代初期の天台宗の僧。徳川家康に仕え江戸幕府の宗教政策に大きく関与し、二代将軍秀忠や三代家光にも仕えた。江戸におけるそば切り初見である慈性日記に登場する「そば切り振舞やうどん振舞」の舞台は、天海をとりまく天台宗の僧たちの逗留生活の出来事である。幕府の戸隠神社への政策でも家康が朱印高千石を与え、後に家光は東叡山寛永寺の末寺として別当を派遣している。戸隠神社の公式ホームページには江戸から派遣された別当をもてなすそば切りの流儀が発達したとある。
na20  「なんば」「なんばん」
   東西での違い
そば屋の定番メニューに、鴨南蛮・鳥南蛮・カレー南蛮などがあるが、どういう訳かこの「南蛮」の読み方には東西の違いがあって、東では鴨なんばん・カレーなんばんなど「なんばん」、西の上方では鴨なんば・カレーなんばと言って「なんば」である。もっとも「かもなん」「とりなん」などと略して「なん」とつまる場合は東西どちらも同じだ。
na21  難波(村)とネギ 多くの料理書やそば関係の書物は、大坂・難波がネギの産地であったので、大阪ではネギのことを「なんば」という。と書いている。たしかに江戸時代から明治初期に至るまでの摂津西成郡難波村は、大坂の畑場八ヶ村のひとつで多くの野菜類が穫れた。しかしながら、元禄14年(1701)刊行の「摂陽群談」に始まり、「摂陽群談」、「浪花茶里八景」、「摂陽奇観」、さらには享保10年(1725)に難波百姓市の青物立ち売り禁止に対して難波村が大坂町奉行所に訴え出た「乍恐御訴訟申上候」などを調べても、様々な野菜類が記載される中でネギの記録には出くわさない。このようにみていくと、大坂の難波という地名がネギの代名詞になるほどネギが多く栽培されていたとは考えにくい。さらに、江戸時代から明治初期に至るまでの記録のなかで、ネギの代名詞として「なんば」と称したり「難波」の字が当てられている例には出くわさないのである。
na22  南蛮 「南蛮」という言葉は、鎖国以前にキリスト教とともに、多くはポルトガルから伝来した。南蛮文化とか南蛮料理、南蛮菓子などと使われたり、南方方面から渡来した異国人や物を総称したり、異風・奇異なものにまでかなり多方面に使われた。さらには、茶人の間でも、中国南部から東南アジア一帯で造られた粗相な焼き締め造りの陶器などにも「南蛮」という言葉を使い、たとえば、南蛮水指という例もある。料理に関するものでは南蛮貿易を通じて野菜類がもたらされ、南蛮黍・唐辛子・ジャガ芋・瓜類ではスイカやカボチャなども南蛮物と言った。*「南蛮料理」の項参照
na23  南蛮煮
  難波煮
大坂や上方には古くから南蛮煮という料理があって、角川古語辞典でも「新撰大阪詞大全」や「浪花聞書」などに「ねぶかにて炊いたものを南蛮煮(なんばんに)(なんばに)と云う」とあって、ネギと南蛮煮の関係がわかる。一方で、料理早指南・初編では「難波煮 鯛焼きて 春ねぜり(根芹)夏さきずいき(夏先芋茎) 秋はったけ 冬ねぶか」とあって、南蛮煮(難波煮)のことを紹介しているがここでは旬の冬にはネギを、それ以外の季節はそれぞれ旬の野菜と組み合わされていて、ネギ以外のものであっても南蛮煮という名前が付けられている。
na24  難波村百姓市 江戸時代、大坂の青物市場といえば天満だが、これ以外の野菜産地でも野市的なものが発生していて、例えば難波村百姓市だとか堀江の青物市などがあった。このことからも難波村は有数の野菜産地であったことがわかり、大坂近郊の畑場八ヶ村のひとつであった。享保10年(1725)に難波百姓市である青物の立ち売りが禁止された際、難波村が大坂町奉行所にたいして「乍恐御訴訟申上候」と訴えを出している。おおよその内容は「難波村は畑地であり、冬春は麦を六分作り、菜・大根・ねぶか・わけぎ・かりぎなどで四分、夏秋には藍・木綿がおよそ六分で、茄子・干瓢・白瓜・冬瓜などを作っていて年中青物が絶えない」とある。
na25  南蛮料理 鎖国以前に南蛮人(多くはポルトガルやスペイン人)からもたらされた料理のこと。特に、南蛮貿易を通じてもたらされた南蛮黍・唐辛子・ジャガ芋・瓜類ではスイカやカボチャなどの南蛮野菜を使った料理。いつの間にか、本来は南蛮とは関係がなくても異風なる料理をさして南蛮と称した例もあり、そばの分野でも鴨南蛮やカレー南蛮などの呼称が生まれている。
na26  南杣笑楚満人 なんせんしょうそまひと。江戸後期の洒落本・黄表紙・合巻作者で、軍記や敵討物を書き続けた。黄表紙「仇敵 手打新蕎麦」文化4年版(1807)では、そば屋を営みながら親の仇を追う武士を登場させているが、そばを打つ風景に、長短・複数の麺棒が見え、単なる巻き延しでなく四つ出しにも見える図を描いている。そば切り包丁もあるがまだ現在のそば包丁のような特化は見られない。そばを打つ技法で麺棒が複数本使われるようになった年代を推し量る資料のひとつであろう。
     
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ni 1  新島 繁 そばの歴史・文化・民俗研究の第一人者で、市井のそば博士といわれた。「蕎麦史考」「近世蕎麦随筆集成」「蕎麦歳時記」「蕎麦年代記」「蕎麦の事典」など著書多数。2001年初め逝去80才。蕎麦に関わる歴史資料や古文書、各地に埋もれていた食文化や食習慣などについての発掘や研究に大きな功績を残した。特に、素人でそばの勉強や研究を志す後輩たちにとってはきわめて大きな存在であるとともに、与えている影響も大きい。
ni 2  煮え前は恥 そばを煮るといっていた時代の教訓である。「煮え前は恥」「そばの煮過ぎは恥じゃない」そばは芯を残さずしっかりと茹でるべきだということ。しっかりした歯ごたえがほしいときは、冷水でしっかりと締めればよい。特に素人が打ったそばの茹で時間はむつかしい。迷ったときは短めよりも長めに茹でるのが良い。昨今、固めでさえあれば「こしがある」として好まれる風潮にあるが、いま一度、先輩方が遺した言葉の真意を考えてみるのも大切では。
*「茹で前は恥」の項参照
ni 3  煮掛け お煮掛けともいう。甲信地方の農山村で古くから食べられてきた一種の煮込みで、そばやうどんにかけて食べる。 季節の野菜やきのこ類、油揚げなどをだし汁に煮込む。味噌汁の場合もある。茹でて小分けしておいたそばをとうじ籠で鍋に入れて暖め、椀に入れて野菜や汁をかける「とうじそば」もある。
ni 4  苦蕎麦 ニガソバ ダッタンソバのこと。普通ソバと同じタデ科ソバ属の一年生草本。中国の四川省(や雲南省)には、ダッタンソバを主食にしている高地の少数民族がいて、生活習慣病の発生率が極めて低いことからにわかに注目を浴びるようになった。苦味のある特徴から「苦蕎麦・ニガソバ」ともいわれ、このソバに含まれるルチンが普通ソバに比べて数10倍〜100倍も多いことがわかってさらに注目されるようになった。*「タータリカム(苦ソバ)」「ルチン」の項参照
ni 5  肉分け そばを打つ時の「延し」の工程でおこなう四つ出しの次の作業で、「肉分け」と「幅出し」を同時に行うことが多い。四つ出し直後は麺生地の四辺の中央部が厚くなっているので延し棒で厚みを均等にならす。要するに、厚いところの肉を薄いところに分けて均等にする作業。同時に、左右の角を出し辺を平行に揃えることによって「幅出し」もする。*「四つ出し」「幅出し」の項参照
ni 6  (大手筋)錦蕎麦 幕末から明治初年にかけての大坂の風俗史料といわれる浪華百事談に書かれている当時の繁盛そば屋。「にしき蕎麦と呼て商ふ蕎麦舗は、大手通り谷町筋より少し西の北側にありしなり。三四拾年前は、大坂市中に蕎麦而已うちて売舗は二三軒よりなく、麪類を売る家も、今の如く多からず。殊に此錦そばは古き名にて、其製のよろしきを以て、大手蕎麦とも云ひて、人賞して求しものなり。」とある。*「浪華百事談」、「田葉清の蕎麦」を参照。
ni 7  西素麺屋町 素麺が地名になっている例がある。山梨県身延地区には西素麺屋町や東素麺屋町があり、広島県三次市には下素麺屋一里塚という地名も残っている。 素麺は古くから朝廷や貴族、または寺社を背景にした素麺供御人や素麺座が形成された。なかには荘園領主や寺領の供御年貢を取り扱う任務を請け負う「素麺屋」が登場した例もある。*「東素麺屋町」も同じ
ni 8  にしんそば 身欠きにしんを柔らかく煮込んでそばに載せた種物。文久年間(1861〜63)創業の京都のそば屋「松葉」の二代目が明治15年頃考案して評判になった。底冷えのする京の冬の味覚にもあってそばの名物のひとつになっている。その後、全国各地にも広まって地域を問わずそば屋の定番品書きのひとつである。もともと海を持たない京の都にもたらされた貴重な動物性タンパク質の身欠き鰊とそばを組み合わせた出会い物。
ni 9  (日本唐土)
     二千年袖鑒
嘉永2年(1849)刊行の歴史年表集で、嘉永2年までの年数を注記した絵入年代記。この中に「すなば」の暖簾が見える津の国屋の店先が描かれ「天正十二 根元そば名物 砂場 二百六十五年 吉田氏 出所 泉州 東畑村」との添書きがある。すなわち、天正12年(1584)に大坂でそば屋・津の国屋が開店したとある。時代は、秀吉がほぼ天下を掌握して大坂城の築城を始めたのが天正11年で、いまの西区新町にあって「大坂城築城の砂や砂利置き場」で通称「砂場」と呼ばれた場所であった。 ただし、後世の書物であるので、当時の実録ではないという異論もある。
ni10  日新舎友蕎子 江戸時代中期に書かれた「蕎麦全書」の著者。日新舎友蕎子については自らもそばを打ち、そばに精通していた江戸の住人としかわっていないが、寛延4年(1751)に三巻一冊本を脱稿(書き終え)している。蕎麦全書は、江戸時代で唯一といえるそばの専門書で、「本朝食鑑」を引用しながら私見を述べ、ソバの産地や有名ソバやそば粉のこと、そばの作り方や茹で上げたそばの扱い、そばつゆの作り方や薬味について、さらには江戸市中のそば屋の屋号や有名店の消息、粉屋など、多くの貴重な解説と史料を残している。
*「蕎麦全書」の項参照
ni28  煮貫
  にぬき
江戸時代より前、またはしょう油が普及する以前の味噌由来の調味料
「垂れ味噌」は、味噌に数倍の水を加えて煮出したのち、布袋に入れて垂れてきた(漉した)もの。これの火を入れないものが「生垂れ」。「煮貫き」は、生垂れに削った鰹節を入れて煮詰め、漉したもの。
「料理物語」で、そばつゆについて「汁はうどん同前」とあって、うどんには「汁はにぬき 又たれみそよし」とある。
「料理物語」 なまだれ:みそ一升に水三升入て袋に入たれこし候也。たれみそ:みそ一升にみず三升五合入三升にせんじ袋に入たれてよし。にぬき:なまだれをして又かつうを入せんしたるをにぬきといふ也。 だし汁:かつうをよき所をうすうすとかきて一升あらは 水一升五合か二升入せんし あちはひをすい見候て よきところにあけてよし(せんじすきたるも又あぢはひあしくなるものなり) 注:「垂れ味噌」の説明もこれと同じ。
ni11  仁八

        二八
「二八そば」の語源はわかっていない。江戸中期以降の風俗資料や芝居の登場人物に「二八」とか「仁八」という名前を「二八そば」にかけて意図的に登場させている。安永5年刊行で初物評判を記した「福寿草」の「四季初物惣目録」の第一番に初かつお(夏)・二番手に初さけ(秋)・三番は初酒(秋)・四番目に新そば(秋)が登場する。この新そばの口上に、「深大寺の強力正直坊」「木曽殿のとちめん棒」「中げん二八」など蕎麦に掛けた人物を挙げながら「二八という人物」を登場させている。また江戸後期の浮世絵師・歌川豊国筆の「花街模様薊色縫」では、歌舞伎の題材で二八そばの看板を付けた蕎麦売りの図に仁八という男を登場させている。他にも、歌舞伎の通称「河内山(宗俊)」と言われる「天衣粉上野初花」の場面で、雪の夜「直侍」が入る入谷村の蕎麦屋の主も仁八である。さらにあげると、鶴谷南北の芝居「四天王楓江戸粧」のなかに出てくる風鈴そば売りの名前もまた仁八である。
ni12  二八うどん 二八そばは有名だが同時に「二八うどん」もあった。それどころか「二六そば」「二六うどん」更には「二六にうめん」まであった。にもかかわらず、多くの書物が「二八の語源」として挙げる説明に「粉の配合割合説」がある。いうまでもなくそば粉と小麦粉の割合が「2:8(8:2)」のことと主張する。だとすると、小麦粉(と食塩水)だけが原料のうどんやにゅうめんの説明にはなりえない。要するに、「二八そば」の語源は「二八うどん」の語源としての説得力もなければならないのである。
ni13  二八そば 江戸時代の比較的早い時期に出現したとされる有名なそば用語の「二八そば」の語源については、二つの観点からみる必要がある。ひとつはその出現時期であり、もうひとつは「二八」とはなにを意味するのか、そのように呼ばれるようになったいきさつや背景はなにかということである。 出現については、享保時代の「享保世説」に「仕出したは即座麦めし二八そば みその賃づき茶のほうじ売」という落首があり、文政13年(1830)刊「嬉遊笑覧」に、「享保半頃、神田辺にて、二八即座けんどんといふ小看板を出す。二八そばといふこと、此時始なるべし」とあって「二八」という言葉の初見は享保13年頃だとされている。問題は「二八」という言葉の語源についてであり、いまだにいろいろの説はあるもののどれも確証はなく結論が出ていないという不思議な言葉である。
ni14  二八蕎麦(の)語源
  二八の語源
主たる語源説には、価格説と配合割合説があるが、価格説の二×八=十六文については、「二八そば」が出現した頃のそばの値段は六〜八文だからこれを語源だとするには無理がある。もう一つの配合割合についても、江戸時代の早い時期に粉の総量を十割としてそれに対する二割を小麦粉にし、八割をそば粉で計量する現在的な配合計算をしたとは考えにくい。おそらく「(そば粉)四杯と(小麦粉)一杯」とか「大きな枡一杯に小さい枡二杯」、または同じ分量の「同割り」の「一杯一杯」などの分量での計量であったと考えられる。特に、小麦粉(と塩)だけで作られるうどんにも「二八うどん」が登場している。「二八そば」の語源は「二八うどん」の語源と共通する必要がある。
ただし、これらも時代を経て、そばやうどんの値段が物価上昇で十六文になり、これが幕末近くまで続くので、ふたたびごろ合わせで「二八」という言葉が脚光を浴びて語源とは別の「ニハチ・十六文価格説」がおおいに流行する。やがて、幕末・維新の物価高騰で慶応(1865)には一気に24文になって「ニハチ・十六文」の根拠を失う。今度は新たにそば粉八割(つなぎ・小麦粉二割)という意味の配合割合という説が台頭してくるのである。
ni15  二八の時 十六文のそばを二八(ニハチ)としゃれた九九説は、それ自体に説得力があって理解しやすいが、十六文というのは江戸の後期の7・80年間だけであった。それ以前の六文とか八文の中で出現してきた言葉の説明にはなり得ないことは二八の語源で説明した。もともと二と八(の積)で十六を表している例などはそれ以前からあって、太平記(1368〜75)に「二八の春の比(ころ)より・・・」などとあり、とくに女性の年齢・十六才の異称として使われてきた言葉である。
ni16  二番粉 製粉の過程で、初めに出る内層部の粉が「一番粉」。その次に出るのが中層部の「二番粉」で、うす緑黄色で香りや風味に優れ、栄養価も高い。ソバの実(玄ソバ)を粗挽きして篩にかけると、「ソバ殻」、「(殻がとれた)丸抜き」、「(大きく割れた)上割れ」、「小割れ」、「花粉」に選別される。これら脱皮の工程を「挽き抜き」という。先ず最初に出た粉は打ち粉に使われる「花粉」で、さらに「上割れ」だけを挽いたのが「さらしな粉(御前粉)」。次に、残った「割れ」と「丸抜き」を挽いて篩うと「一番粉」(ロール製粉の場合は一番ロールを通って篩われた粉)である。ソバの実の中心部の白い粉(内層粉)。残ったのをもう一度挽いて篩うと「二番粉」で、同様に「三番粉」。最後に残ったのが「した粉(さなご)」である。
ni17  二番出汁 昆布や鰹節で先ず「一番出汁」をとり、一番出汁をとった後に水(お湯)を入れてもう一度煮出したものを二番出汁という。日本料理では「一番だし」は、主として吸い地(椀物の汁)に用い、「二番だし」はみそ汁や煮物のだしなどに使われる。そば屋の場合は「返し」を一番だしでのばしてざるやせいろの「つけ汁」にする(関東では「辛汁」という)。さらに、この「つけ汁(辛汁)」に二番だしを加えて2〜3倍にのばしたものを温かいかけそばや種物に使われる(関東では「甘汁」という)。
ni18  日本蕎麦協会 農林水産省所管の社団法人で昭和50年(1975)に設立された。会員はソバの生産農家、ソバ製粉業者、ソバ麺類販売業、玄ソバ輸入業者などの各団体で構成されている。住所 東京都千代田区神田神保町2−4麺業会館。
ni19  日本麺類業団体連合会 麺類業界の振興を目的とした全国団体で、社団法人日本麺類業団体連合会(略称:日麺連)と全国麺類生活衛生同業組合連合会(略称:全麺生連)の二団体がある。日麺連は農林水産省所管の公益法人であり会員数42組合、全麺生連は厚生省所管で24組合である。実際には人的・物的共に一体で運用されていて「総称して連合会と呼ばれている。
ni20  二六そば 「二八そば」が現れたのは享保13年(1728)頃である。その後、二八そばや二八うどんだけでなく、二六そばや、更には二六にうめんも出現する。しかも、寛延4年(1751)脱稿の「蕎麦全書」のなかにも、二八そばや二六そばが登場しているので、わずか20年間に「二八」や「二六」を名乗るそば屋が出現していることもわかる。このことからも「二八」という最初のキャッチフレーズはなにを意味したのだろうか。ただし、物価が上がって十二文や十六文が現れてからの時代に限定すれば「二八」や「二六」の価格説は肯定できることになる。
ni21  二六新そば 宝暦3年(1753年)初版「絵本江戸土産」の挿絵は、両国橋のたもとの賑わいを描いていて、右手奥に「きりや」という麺類店があり、置かれた行灯看板の片面に「うんどん」、もう片面に「二六新そば」と書かれている。また、その前の葭簀張りの店の左手に、掛け行燈の片面に「そば」もう一方に「二六にうめん」と書かれてある。さりげなく、うどんとそば、にうめんまで登場させている。新そばもにうめんも秋から初冬を表し、新そばとにうめんを「二六」としている。
ni22  二六にうめん 宝暦3年(1753年)初版「絵本江戸土産」の挿絵は、両国橋のたもとの賑わいを描いていて、葭簀張りの店の左手に、掛け行燈の片面に「そば」もう一方に「二六にうめん」と書かれてある。「二六」の意味はさておき、にうめんは素麺を温かく煮込んだもの。一部に、温かく煮こんだそばを「煮麺そば(にうめん)」という場合もある。寛永20年(1643)跋刊の「料理物語」に「にうめん。まづ素麺をみじかくきり、ゆで候て、さらりとあらひあげおき、たれみそにだし加へ、ふかせ入侯。小菜・ねぶか・なすびなど入れてよし」とある。
ni23  日本山海名物図会 宝暦4年(1754)刊行の挿絵を主とした物産や名産の案内図会。著者も画家も大坂の住人のためか近畿の産物が多く載る。三輪素麺について「大和三輪素麺名物也、細きこと糸の如く白きこと雪の如し、茹でて太らず余国より出ずる素麺の及ぶところにあらず」と記している。また、「堺庖丁」については出刃・薄刃・刺身包丁・まな箸・たばこ包丁、いずれも名物であるとして、店頭風景が描かれている。
ni24  日本そば大学講座 全麺協が主催。そばによる地域活性化と地域振興のために、そばについて幅広い知識と教養を身に付け、そばの食文化の普及、啓蒙の指導的役割を担う人材を育成する目的で開催するもの。第1回が2005年に北海道・幌加内町で、第2回は06年長野県飯田市で開催された後、福島県喜多方市と埼玉県での開催を経て再び北海道・十勝新得で第5回が催された。いずれも東日本地域である。第6回 神戸須磨学舎は初めて西日本地域で行われたもので、総勢260人が北海道から九州までの各地から参加した。参照:全麺協(全国麺類文化地域間交流推進協議会)
ni25  日本農林規格
     JAS
農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律に基づく、農・林・水・畜産物およびその加工品の品質保証の規格(1950年公布のJAS法で、JAS規格)。この規格に適合した製品にはJASマークと呼ばれる規格証票を付した出荷・販売が認められている。そばについては、重量比でそば粉の配合率が30%以上であれば食品としての分類は「そば」となり、乾麺の場合は、JASマーク・標準でそば粉40%、上級が50%となっている。
ni26  日本の食風土記 著者:市川 健夫(1927年 〜 )は長野県上高井郡小布施町出身の地理学者。「信州蕎麦学のすすめ」など著書多数。「日本の食風土記 白水社」では、ワシントン大学の塚田松雄教授によると、島根県飯石郡頓原町から一万年前のソバの花粉が発見され、高知県高岡郡佐川町では九千三百年前、更に北海道でも五千年前のソバ花粉が出ているとある。
ni27  日本歴史地名体系 古代・中世・近世を通じ全国の地名20万についてあらゆる角度から収録して解説した歴史地名事典。例えば、蕎麦の地名「茨城県東茨城郡茨城町蕎麦原」について、蕎麦原村は涸沼川の左岸に位置し、東は越安村。中世は宍戸氏の支配下にあった。慶長7年(1602)秋田氏領となったことを示す御知行之覚に、そば原村九四八五七石が出る。江戸時代は旗本領で元禄郷帳に「蕎麦原村」とみえる。幕末は、松平蔵之介知行地。とある。
     
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抜き
     ぬき実
玄ソバからソバ殻を取り除いた薄い緑色のソバの実。「丸抜き」「挽き抜き」ともいい、ソバの実(玄ソバ)を粗挽きして篩にかけ、ソバ殻を除去して甘皮に包まれたソバの実。ここまでが製粉工程の「ぬき」のこと。
以下はソバの自給率の算出に関わる問題で、2009年までのソバの輸入量は、輸入統計品目「そばの実(殻付)」すなわち玄ソバの数量であった。しかし実態は、玄ソバのほかに抜き実の状態で輸入されるものの割合が増えていた。このことから、2010年以降、国内産ソバ生産量(玄ソバ)に対する外国産ソバ輸入の総量(抜き実の玄ソバ換算を含めた)が統計上で把握算出されることになった。*「玄ソバの国別輸入量」を参照。
  抜き

  例えば「天ぬき」
種もののそばを抜いたもの。例えば、釧路の竹老園東家総本店の蕎麦コースには、「かしわそば」からそばを抜いた「かしわぬき」が付いている。東京のそば屋でも最近はあまり見られなくなったが、天麩羅そばのそばを抜いたものを「天ぬき」または「天すい」。鴨南蛮の「鴨ぬき」など。酒の肴、または、吸い物として一部の客に好まれた。
  抜き屋 江戸時代から明治・大正のころまでは水車を利用して雑穀類を脱穀する商売があった。江戸のソバでは信州、甲州、武州から馬で運ばれてくるのは中野周辺に集積されて、江戸市中のそば屋に卸されたが、ソバの実(玄ソバ)からソバ殻を取り除いて甘皮に包まれた緑色のソバの実(抜き実)にする商いがあって抜き屋といわれた。
  ぬき湯 そば屋の茹で湯のこと。そばのぬき湯は栄養価もたかくそば湯として客に供されるが、うどんを茹でた湯は塩分を含むので捨てられた。
昔から、うどんを茹でた湯は捨てられる運命にあったため、役に立たない者の例えに「うどんの湯」とか「うどんのぬき湯」とも言われたそうだ。
  布屋太兵衛 更科そばの老舗、寛政2年(1790)に麻布永坂に「信州更科蕎麦処布屋太兵衛」の看板を揚げた初代。もとは、信州更級郡の反物商として保科家の江戸屋敷に出入りし、得意のそば打ちで代々殿様にそばを献じていたことに始まるという。信州更級と保科家から賜った科で「更科」としたのだそうだ。
     
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葱  ネギ そばやうどんにはネギは欠かせない薬味で、関西では青ネギを刻むことが多いが、関東では白根を薄く切って冷水で晒したものを水切りして添える。昔、信濃では、辛みの強い大根にネギを挟んで下ろし、これを味噌に加えて延ばし蕎麦つゆとした。そば切りの薬味としてネギが初めて記録されているのは、寛永13年(1636)中山道の贄川宿で「蕎麦切ヲ賜、・・・蘿蔔汁ニ醤ヲ少シ加ヘ、鰹粉・葱・蒜ヲ入レ・・」と書いた「中山日録」である。また、「生葱:根の白味斗りを用ゆ」と書いているのは寛延4年(1751)10月脱稿の蕎麦全書である。
  ねぎ(箸)そば 福島県会津地方に「ねぎ箸そば」といって、椀に入れたそばに20センチ程の葱を丸ごと入れていて箸代わりにも薬味にもしてそばを食べる風習が残っている。祝い事など「そば口上」がある席で出されるそうだ。この地域は昔、高遠のそばが会津へ伝わったという話から「高遠そば」というそばの食べ方もあり、ねぎ(箸)そばで、葱が添えられる。
  寝覚蕎麦
  寿命そば・越前屋
江戸時代から木曽路名物のそば屋。中山道上松宿を通る参勤交代の諸藩の大名も味わった老舗そば屋である。当時の賑わいを浮世絵師・歌麿は「寝覚蕎麦越前屋の図」でそばを食べる商人や旅人を配した店の様子を描き、十辺舎一九は「木曾街道続膝栗毛」で「寝覚蕎麦越前屋」について「それより寝覚めの建場にいたる。此ところ蕎麦切の名物なり、中にも越前屋といふに娘のあるを見て、名物のそばぎりよりも旅人はむすめに鼻毛のばしやすらむ・・・」など書いている。店によると、創業は寛永元年(1624)開業とあり、一説には、元禄の頃ともいう。
  ねずみ大根
  鼠大根
その姿が下ぶくれで、寸詰まりの大根で、ついている根が細くて長いので鼠の尻尾に似ているところから「ねずみ大根」といわれる辛味大根がある。信濃では埴科郡坂城町のねずみ大根で、江戸時代に長崎から薬草として導入されたともいわれる。強い辛味のあとに芳醇な大根の香りと甘味が広がるので土地では「甘もっくら」と表現する。
近江国(滋賀県)では伊吹山の麓、坂田郡伊吹町大久保地区の鼠大根は古くから存在が知られ、「峠の大根」といわれ独特の甘味と辛味が特徴の名産品だった。また、土中に浅いので蹴って掘り起こすので「けっから大根」とも。石灰質の土質のこの地以外では辛味を生成しないという。江戸期に各藩が幕府に報告した産物調べのなかでは「祢づミ大こん」とか「鼠大こん」と書かれ、伊豆国、尾張国、越前国、美濃国などに産している。
  根付け 根付(ねつけ、ねづけ、ねっけ)は、江戸時代に印籠や巾着、煙草入れなど提げ物の根元に結び付けられて着物の帯の上に引っかけて提げられた留め具。めずらしい蕎麦打ち職人の根付は、わずか3.5センチほどの小さい彫刻だが大きなそば玉を体重をかけながら練り込んでいるそば打ち職人の力量が伝わってくる傑作である。
  練りくり 煮てつぶした薩摩芋にそば粉を入れて練った食べ物。岡山県浅口郡鴨方町に伝わる練りくりはそば粉とサツマイモを煮て塩味で食べる。山梨県の山間地でも「ねりくり」というのがあって、薩摩芋を茹でて皮をむいてすりこ木でつぶし、そば粉を入れて練って塩味を付ける。宮崎では、「ねりくり、ねったくり」などというが、煮た薩摩芋と残り餅(またはもち粉)を入れてさらに煮て少しの塩を入れてすりこ木でつき混ぜる。きな粉をかけたり、まぶしたりもする。
  年切りそば
  ねんきりそば
「年越しそば」には、迎える年の運や福、長寿などを願いながら食べるしきたりが多いが、そばは切れやすいので旧年の労苦や厄災を断ち切りたいと願って「年切りそば」という地域がある。*「年越しそば」の項参照
     
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延し そばを打つ時の麺生地を均一な厚さで平らに延ばすこと。元来、そばの打ち方は「丸出し」を一本の麺棒を使ってさらに大きな丸に延していく方法であったが、現在の江戸流といわれる打ち方は麺棒を三本使い、「丸出し」「四つだし(角だし)」「幅だし」「肉分け」「本のし」で一連の延しの作業を終え、「たたみ」を経て「切り」に入る。
  延し板
   延し台
そばやうどんを延ばす時に使う台。打ち板(うちばん)とか麺台ともいう。素人の初心者用そば打ちには90cm×90cm程度の板でも良いが、少し本格的になると、幅が120(150)cm×奥行90(100)cmくらいが使いやすい。これだと、粉の量が1.5キロや2キロくらいにも使える。さらに大きくなると200cm巾、奥行き120cmなどもあるが素人のそば打ちでは必要ない。生粉打ち(十割そば)の延し板は一般的に小さく、例えば75cm×60(90)cmなどが多く、寺子屋の机のような形状が多い。材質は桐や朴、シナ合板などが手ごろだが、桧材などの延し板は高価である。碁盤や将棋盤などに使われる桂材のものが最上だそうだ。
  延しべら 「延しべら」は「切りべら」の反対の意味から出たそば用語。そば生地の「延した厚さ」と「切りの幅」が同じであれば切ったそばの断面はマッチ棒のように正方形になるが、 「切りべら」は「延した厚さ」よりも「切りの幅」が狭い(細い)、具体的には江戸のそば職人は、延した生地の幅一寸(3.03cm)を23本に切るのを基準にしていたので厚みを約1.5mmに延して23回で切ると一本の切り幅は約1.3mmになり多少縦長ぎみの長方形にはなるが麺自体を細くした勘定になる。このような例が「切りべら二十三本」である。 「延しべら」はこの反対で、延したそば生地の厚さよりも切り幅が広いことをいう。そばの断面は横長気味の平たい麺になる。形の上での例をあげると「きしめん」状になる。*「切りべら」の項参照
  のし棒 麺棒・のし棒。そばやうどんをのす道具。地域性や打ち方の違いがあって、一本だけで打つ場合や、太い麺棒や細いの、長短三本を使い分けるなどいくつかのケースがある。江戸流といわれる打ち方は、短い延し棒と、長い巻き棒が2本のあわせて三本を使う。延し棒(長さ90cm×〜3cm)が一本、巻き棒(〜120cm×〜3cm)が二本である。のし棒の延しは麺生地を均一な厚さで平らにするのが目的で、巻き棒は生地を巻き取って作業をしやすくする。材質は、ひのき、ひば、樫、朴の木、桜、栂など。延し棒はいったん反りがでると修正ができないのでできるだけ柾目が通り節目のないのを選びたい。保管時の直射日光や湿気にも注意が必要である。
  野尻 抱影 日本の天文研究家で天文民俗学者。古今東西の星座・星名を調べ星の和名の収集研究者であり、冥王星の命名者でもある。「日本星名辞典」「星座巡礼」「日本の星」など著書多数。古来から星は、規則正しく季節や時刻を教えてくれることからも、農業に携わる人達にとっては貴重な存在であった。牡牛座にあるプレアデス星団を日本では昴(すばる・すまる)と呼び、その高さで蕎麦蒔きや麦蒔きの時期を知るための重要な目印とされてきた。そば蒔きの時期を表した諺には、「すまる、まんろく粉八合、頭巾落しの粉一升」ということわざは、「すばる」が夜明け方に南中したときにそばを蒔くとよく実り、一升の実から八合の粉がとれ、さらにまんろくが西へ過ぎ、頭巾がすべり落ちるほどの高さに達したときに蕎麦を蒔くと、一升の実から一升の粉が取れるという。他にも、 「三つ星まっ昼粉八合」などソバと星の諺を紹介している。
*粉八合・粉一升を参照。
  のの字食い おそらく旦那衆の遊びが高じてであろうか、現在ではとても考えられないそばの食べ方がある。「そばの曲食い」と称する代表的なものに「のの字食い」と出雲の「拍子木食い」がある。明治の中頃まで行われたという「のの字食い」は二本の箸先をそばのなかに差し込んでのの字を書くようにして、ひとすくいにそばを口中にかっ込んでしまう食べ方という。出雲地方の「拍子木食い」は昭和初期までみられたそうで、割子そばを盛った角形のわりごを左右の手にひとつずつ持って拍子木のようにカチカチ打ってそばを口の方に寄せながら箸を使わずにすすり込んで食べる。
  のれん (暖簾) 古くは、日除け、風や塵よけ、または目隠しなどで店先に掛けた布地だったが、次第に商家の目印として文様を入れるようになった。江戸時代になると文字を染抜いて屋号や商標を入れ、次第に商家にとってさまざまな意味合いを持つことになった。奉公人制度からの「暖簾分け」や暖簾を共有する「暖簾会」をはじめ、日常の「暖簾を出す(仕舞う)」などなど。ときには、店や商標についての信用や格式などを代表することもある。
  のれん御三家 江戸そばの老舗で代々続いている「のれん御三家」といえば、数ある中でもやはり代表は「藪」と「更科」それと「砂場」である。「薮」という名称の興りそのものは江戸・雑司ヶ谷鬼子母神の近くのやぶのなかにあった百姓家の「爺が蕎麦」で当初は「薮の内」とも言われたそうだが、名物であったので一時期藪蕎麦を名乗る店があちこちに現れている。 「更科」は、信州更級郡の反物商として保科家の江戸屋敷に出入りし、得意のそば打ちで代々殿様にそばを献じていたことに始まるという。寛政2年(1790)になって麻布永坂に「信州更科蕎麦処布屋太兵衛」の看板を揚げたのに始まり、信州更級と保科家から賜った科で「更科」としたのだそうだ。「砂場」の発祥は大阪で、いまの大阪・西区新町にあった「津の国屋」「いづみや」というそば屋で、そこは「大坂城築城の砂や砂利置き場」であったので通称「砂場」と呼ばれ、そこにあるそば屋も同様に「すなば」と呼ばれるようになった。この大坂のすなばの系統が江戸に進出した年代やいきさつはわからないが、寛延4年(1751)の「蕎麦全書」の「江戸中蕎麦切屋名寄附名目」では江戸にも「砂場」を名乗るそば屋が何店か登場している。
     
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