[ ま行 ] - そば用語の解説一覧 
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ma15  まかずそば
  まかず蕎麦伝説
江戸時代中期(享保・元文の頃)に紀伊藩(和歌山)が藩内の産物を調査して幕府に報告した紀州産物帳のなかに「蕎麦」は「小そば 大そば」とある。すなわち小粒と大粒そばの二品種だとしている。ここに取り上げたのはそれ以外に不思議な蕎麦についての記述がある。「まかずそば」で、それによると「まかずそばは牟婁郡之内平治川村どうじという所々山に三四拾間之間、鍬を入れ候得は、種まかずして蕎麦生立実成、常之そばと同様に食用に成」とある。(牟婁郡は紀伊半島の南部・熊野の地域)
紀州産物帳で報告されている「まかずそば」の産物や植物としての追跡はできないが、熊野本宮のデータベース(本宮つれずれ)というサイトのなかに「まかず蕎麦伝説」(本宮町大瀬地区)が紹介されている。「伝える所に依ると昔、弘法大師が修行された時、」とあって、要約すると「この地に立ち寄ったときの山中で日暮れて、貧しい老女の家に一夜の宿を乞うた。食べてもらう物がない中で、種用に置いていたソバを粉に挽いてそば掻きにして振舞った。来年用の種であったと知った弘法さんが、挽いた時に出たソバ殻を貰い受けて老女の畑に蒔き、来年からは蒔かずとも生えるからと伝えて立ち去った。年があけてソバの季節になると大瀬の畑の一面に広がった。」とある。
ma 1  巻き棒 江戸流といわれるそばの打ち方は、短い延し棒と、長い巻き棒2本のあわせて三本の麺棒を使う。巻き棒は主として麺生地を巻きつけるために使う。これに対して延し棒は、麺生地の上で回転させながら厚さを均等にしたり延したりするのに使われる。通常は、延し棒は長さ90cm×太さ〜3cm、巻き棒の長さ〜120cm×太さ2.6〜3cmが多く、使いやすい。
ma 2  松尾芭蕉 そばの俳句といえば、そばの句の多さからも一茶を連想しがちだが芭蕉にも有名なそばの句がある。松尾芭蕉は伊賀上野出身で江戸前期・寛永21年(1644)〜元禄7年(1694)の俳人で、「蕎麦はまだ花でもてなす山路かな」は元禄7年秋、伊勢から弟子の斗従が芭蕉を訪ね伊賀まで来てくれた。そば切りでもてなすことのできない心情が汲み取れる。なお、この句については菩提寺である三重県伊賀町の萬寿寺のほかに、長野県松本市郊外と長野市鳥坂峠にも句碑がある。「三日月に地はおぼろなり蕎麦の花」は、かすかな月明かりに映し出される一面に広がった蕎麦花の白さを詠んだ句ではあるが、不思議な情景を感じさせる句である。
ma 3  松茸そば 温かいそばに裂いた松茸をのせた種物。そばの上に海苔を敷いて裂いた松茸をのせる場合もある。そばつゆの中の松茸の香りと味覚はまさに秋を代表する季節そばである。松茸は根元を鉛筆を削るように薄く削ぎ取る。水でぬらし布巾で軽く汚れを拭きとりさっと水洗いしてすぐにふきとる。
ma 4  松屋会記 茶湯や茶会の覚え書きが「茶会記」で、そのもっとも古いのが「松屋会記」である。奈良転害郷に住む塗師松屋家の記録「松屋会記」は三代にわたって書きつがれた約120年間の大記録で、この中に、江戸時代の早い時期のそば切りの記録が登場する。元和8年(1622)大和郡山・藩主・松平忠明の朝の茶会に招かれた後、さらに昼になって予定外であった奥平金弥殿へもまねかれ、「ヒノウトン 又ソハキリ 肴色々 菓子モチ・クリ・コハウ」などを振る舞われた。とある。もちろん、奈良におけるそば切りの初見である。*「ヒノウトン」の項参照
ma 5  松館しぼり大根 秋田鹿角市の八幡平ら松館地域で古くから栽培されていた辛味大根でしぼり汁だけを使う特徴がある。霜が一回降りてから収穫したのが辛味が強く、皮ごとすり下ろして布などで搾った汁を使う。交雑種の「あきたおにしぼり」は辛みは特に強く、甘みもあるので薬味に最適という。
ma 6  松葉
      (京都)
文久年間(1861〜63)創業の京都のそば屋で、二代目の明治15年頃「にしんそば」を考案した。「にしんそば」は京都を代表するそばのひとつだが、いまでは地域を問わずそば屋の品書きの定番になっている。もともと身欠き鰊も棒鱈も海を持たない京の都にもたらされた貴重な魚類の保存食であり動物性タンパク質であった。その棒鱈を京芋と組み合わせたのが「いもぼう」であり、身欠き鰊にそばを組み合わせて「にしんそば」という二つの京都の味が出来ている。特に鰊は、いろんな惣菜にも使われ、関西で昆布巻きといえば「にしん昆布巻き」を指すくらいである。
ma 7  松葉家 大阪船場の老舗・大阪うどんの松葉家(現 うさみ亭 マツバヤ)は明治26年の開店。「きつねうどん口伝 松葉家主人・宇佐美辰一(聞き書き) 筑紫書房」によると「きつねうどん」は開店当時に初代が信太ずし(いなりずし)の甘辛く煮付けた油揚げから考えたうどんで元祖だという。甘辛く煮付けた油揚げが昆布をたっぷり使った薄味のだし汁にしみ出る食感は、庶民の味に止まらずまさに大阪の味そのものである。
ma 8  神田 まつや 食通でも名高い池波正太郎が贔屓にしたことでも知られる連雀町のそば屋。 連雀町は現在の神田須田町で、この界隈はたまたま空襲をまぬがれた古い町並みでいまも老舗の名店が多く残っている。そば屋では神田まつやと神田藪蕎麦がある。
ma 9  まな板 そば打ちで使うまな板は、素人用では、打つそばの量にもよるが少なくとも70センチの長さが必要で、一般的には90センチくらいを使う場合が多い。巾は少なくても30センチは必要になる。さらに本格的なまな板となると切り板(きりばん)ともいって、巾や長さ、厚さも相当な大形である。材質は包丁の当たり具合のやさしい銀杏や朴の木などが使われるが、桐材や檜もあり、特に寄せ木細工のものは使っていて狂いが生じにくいとされ高級品である。
ma10  丸延し そば打ちの作業は「木鉢」「延し」「切り」の三工程に大別されるが、そのなかの「延し」に関する方法のこと。現在の江戸流といわれる「延し」は「「丸出し」「四つ出し」「本延し」の作業順序、すなわち「○を作ってそれを□にし、その□を長方形に延していく手法」である。江戸時代の後期あたりに編み出されたそばの打ち方であるが、それ以前はすべて、そばは座った姿勢で、延しは「丸出し」だけで丸を大きく延す「丸延し」であった。この「麺棒一本で大きな円に延していく丸延しの手法」はいまでも郷土そばの地域で見ることができるし、切りも小間板を使わず手ごまで切っていた。
ma11  蝮大根
    (まむしだいこん)
伊吹山の麓、滋賀坂田郡伊吹町に産する伊吹大根。古くから「峠の大根」としてこの地の名産品である。独特の甘味と辛味、小型で尻づまり、茎の部分が少し紫色。土中に浅いので蹴って掘り起こすので「けっから大根」とも、鼠大根と呼ばれる事も。石灰質の土質:この地以外では辛味を生成しないという。*伊吹大根・けっから大根・峠の大根・鼠大根の項も同じ
ma12  丸抜き(ぬき) ソバの実(玄ソバ)からソバ殻をとりのぞいた割れていない実。
*「剥き実(むきみ)」「抜き実」の項参照
ma13  萬盛庵
  山形の老舗
山形市の萬盛庵は大正4年(1915)に開業した老舗そば屋。昭和35年(1960)12月、二代目の時に「山形そばを食う会」を発足させて毎月第2日曜日に盛況に開催されてきたが平成17年(2005)12月の第529回で閉会され、その後、平成21年(2009)に閉店した。*紅切りの項参照
ma14  満天きらり 北海道農業研究センターが育成したダッタンソバの新品種。特徴は、従来品種と比べ、苦味を抑えるとともに加工食品のルチンの含量が多い新品種で、加工食品製造にも適しているので新規食品開発による地域産業の活性化につながる品種として期待されている。「満天きらり」の平成24年度の作付けは、7ha程度からスタートした。
     
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mi 1  身欠きにしん 「身欠き鰊」は保存用に鰊を乾かしたもので、とても硬く油分とアクの強い乾物である。「にしんそば」には、この身欠きにしんを二日間水で戻し、やわらかくなるまで甘辛く煮たものを使う。鰊は北海道など北太平洋の3・4月に産卵のため浅所に大挙して回遊してくる魚で、一時に大量に穫れるので食用はもちろん鯡油や肥料など多くの用途で使われた。その卵は「数の子」として重宝され、身は内臓や頭を取り除いてゆっくり寒風で乾燥させた。
mi 2  蜜柑切り 熟したみかんの皮を干した橘皮(ちんぴ)は古くからそばやうどんの薬味として使われた。例えば、寛延4年(1751)脱稿「蕎麦全書」の「家製に用る役味の品」のなかに橘皮:内皮をすき去り、至極細末(細かい粉)し用ゆ。とある。蜜柑切りはこの陳皮を粉末にして篩にかけたのをさらしな粉に練り込んだ変わりそば。
mi 3  水沢うどん 上州うどんといえば群馬県であるが、なかでも榛名山麓にある水沢観音の門前には400年の歴史と伝わるうどん店もある。しごき延しの手法でうどんとしては細打ちの3ミリ幅で、季節を問わず冷たいうどん盛りで食べる。
mi 4  水ごね そばを打つ場合、「水でこねる」方法と「湯でこねる」方法がとられる。そば粉にはわずかに水溶性のタンパク質が含まれているので、これを利用して水だけでそばをつなげるか、または、小麦粉のタンパク質を利用してグルテンを形成させてそばをつなげるのが水でこねる方法である。一方、「湯でこねる」方法は、そば粉のでんぷんを熱湯で糊化し、これを利用してそばをつなぐ方法である。特に、さらしな粉はソバの実(玄ソバ)の中心部の粉でほとんどがでんぷん質であり、この方法が欠かせない。昔は、そば粉の保存環境もよくなかったのでそばがつながりにくかったが、このような場合も湯練りが有効である。郷土そばのなかにはもともと湯練りでおこなうところもある。
mi 5  水そば もともと、福島県会津地方の山都町などでは飯豊山(いいでさん)からの岩清水で、または、山々に囲まれた富山県利賀村などではそばを冷水だけで食べることがあった。生粉打ちのそばに湧水の冷水を張って食べるのだが、近年、会津若松市のそば屋「桐屋」が新たに店の名目に加えて、改めて知られるようになった。
mi 6  水回し そばを打つ工程で最初におこなう作業。木鉢にそば粉(または、そば粉+つなぎ)を入れ、加水して素早く両手で撹拌しながら粉にまんべんなく水をゆきわたらせる作業。延しや切りの工程よりも地味な作業に見えるが、全工程の中でもっとも重要な作業とされる。素人の初心者にとって、一回目の加水・撹拌直後から変化していく粉の色とそばの香りを感じ取ることからそば打ちが始まる。つまんだり、握ったり、押さえつけたりといった人為的な力が失敗につながる。
mi 7  晦日(みそか)そば 晦日は毎月の最終日で「みそか」「つごもり」のこと。古くから商家では月の終わりに「みそかそば(つごもりそば)」をたべる風習があった。また、一年で最後の晦日は「大晦日」で「おおみそか(おおつごもり)」で年越しそばを食べる風習は各地に残っている。
mi 8  晦庵河道屋 京都の老舗そば屋。というより、元は享保年間(1716〜35)創業の菓子職「総本家河道屋」で「蕎麦ほうる」の元祖。「晦庵河道屋」は江戸時代から菓子を商う傍ら蕎麦を売っていたという。明治28年(1895)には13代主人が「蕎麦志」を刊行した。比叡山延暦寺は毎年5月17日に桓武天皇御講をおこなうが、河道屋の当主が登山して手打ち蕎麦を献供することになっている。
京都では、「その昔、菓子屋には寺院から蕎麦(切り)の依頼があるので、どの菓子屋も蕎麦が打てなければならなかった。上手く蕎麦を打つ菓子屋が良い菓子屋ということになり、蕎麦打ちの技量によって菓子屋の評価が左右された。」という。これは河道屋15代主人から聞いた話である。
mi 9  ミゾソバ 水辺に群生するミゾソバ(溝蕎麦)はタデ科タデ属で、タデ科ソバ属のソバとは葉も花もよく似ている。白地に先端が紅色の金平糖のような花が咲くといろんな昆虫が来て受粉の手伝いをするところも普通ソバと同じ虫媒による他家受粉である。ただし、水の流れが激しい湿原や環境の厳しい場合には、地中に潜ったままの枝を伸ばして先端に閉じたままの花(閉鎖花)をつけて自家受粉もする特性も持っている。「広辞苑」によると、ミゾソバの若葉はかつて食用にされリュウマチの民間治療薬としても使われたとある。
mi10  味噌煮込みうどん 名古屋名物として知られる赤味噌仕立ての汁で煮込んだうどん。八丁味噌などの豆味噌の濃い汁でうどんを煮込んだもので、鶏肉、ネギ、椎茸、餅などの具を入れる。うどんは塩水を使わず水だけで打ったコシの強い麺が特徴である。愛知県名古屋市を中心とする地域で広く食べられている。
mi11  味噌ラーメン 味噌ラーメンの発祥は札幌。札幌ラーメンは、戦後のススキノではじまった屋台の店からで名の通った店でもせいぜい昭和22・3年頃からの歴史である。昭和30年頃になって「味の三平」が味噌ラーメンを発売した。
mi12  霙蕎麦 (みぞれそば) 天明2年(1782)刊行の豆腐百珍は100種類の豆腐料理を解説しているが、そのなかの豆腐と蕎麦を組み合わせた蕎麦(豆腐)料理。
霙蕎麦について「おぼろ豆腐を達失豆油(だししょうゆ)にて、尋常よりからめに烹調(調合)よく、〇蕎麦きりをつねの如く?(茹)で器へよそひ、右の豆腐をざぶりとかくるなり。豆腐はそばよりは少し多くすべし。〇葱白きざみ、擦蘿蔔(おろし大根)、おろし山葵、つねの如し。」とある。 *おぼろ豆腐は固まりきる(固める)前のやわらかい状態での豆腐。
mi13  三谷 一馬 日本画家、江戸風俗研究家で、明治45年(1912)〜平成17年(2005)。失われていく江戸風俗の資料画を描くことに専念し、「江戸職人図聚」「江戸商売図絵」「彩色江戸物売図絵」「明治物売図聚」などで多数の貴重な資料画を遺した。例えば「明治物売図聚  立風書房」の「なべやきうどん売り」のなかで、明治38年「太平洋」から引用した文があり「看板の行燈へ、当り屋とか千歳屋とか延喜の好ひ名を記し屋台の上へ今戸焼の焜炉(こんろ)二個を添へた荷を貸す饂飩問屋がある。これで屋台を借りて売子となったら、何時でも鍋焼饂飩屋となれるのだが・・・」「之を借入れても、付属品の汁注ぎ薬鑵 行平鍋 箸 箸入れ・・・雑具は売子の自弁」と解説と資料画など、ごく一例である。
mi14  三ツ星 「三つ星まっ昼粉八合」は蕎麦まきの時期を言い表したもので、静岡県富士郡では夜明け前に三つ星が南中するころに蕎麦の種をまくと、一升の実から八合の粉が取れるとのことわざである。「三ツ星」と呼ばれる星は、鼓のような形をしたオリオン座の中央部分のベルト付近に規則正しく並んでいる三ツ星のことである。
mi15  美々卯 大正13年創業の大阪の麺類店。「うどんすき」は、美々卯の先代が戦後になって考案し、昭和35年に商標登録している。その後、「うどんすき」という呼称自体は普通名詞になってしまった感がある。この店が出した熱盛りの「うずらそば」は鶏卵ではなく、うずらの卵が付いている。*「うどんすき」の項参照
mi16  みみうどん 栃木県佐野市(旧葛生町)仙波に伝わる郷土料理でお正月に食べる。うどんと同じように小麦粉を塩水で捏ねて寝かし、麺棒で延ばした生地を長方形に切って耳の形に整える。醤油味の麺料理で、鬼の耳に見立てたものだという。
mi17  妙興寺報恩禅寺 愛知県一宮市にある臨済宗妙心寺派の寺院。室町時代の開山で、ここには慶長13年(1608)6月21日と記された「妙興禅林沙門恵順 寺方蕎麦覚書」があって蕎麦の調理法が書かれているという。ただ、この史料は公開されていないために評価は得られていない。
mi18  三輪茂雄 紛体工学が専門で、粉体と石臼、鳴き砂などの研究の第一人者であった。日本の石臼の歴史や文化の研究にも貢献した。「日本文化 民具が語る:粉の文化史から見た民具  河出書房新社」「日本を知る 粉と臼 大巧社」「粉がつくった世界  福音館書店」「石臼の謎  クオリ」「粉の文化史―石臼からハイテクノロジーまで 新潮社」など著書多数。
mi19  三輪素麺 奈良県桜井市を中心とした三輪地方で古くから生産されている素麺。素麺が各地に広がる元となったといわれる三輪素麺は、安土桃山(16世紀末)の頃、大神神社(三輪神社)の神主によって始められたといわれ、慶長年間には小麦の粉も自家製粉するほどの設備と専門的な技術者集団を有するまでに発展していて、その素麺作りの技術が全国に広まっていったといわれている。
mi20  宮崎大粒 宮崎在来の秋型をもとに宮崎大学農学部が育成した四倍体の新品種。大粒の黒褐色。宮崎、鹿児島などを中心に栽培されている。昭和57年(1982)に「みやざきおおつぶ」として品種登録された。
     
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むかしむかし物語 享保年間(1716〜36)成立とされるこの書にはいくつもの書名があるが、「八十翁昔物語」も別題名のひとつ。80歳になった著者・新見正朝が70年以上も昔のことを思い起こして慶長から延宝に至る(1596〜1680)までの江戸の風俗見聞を書き記したものである。これによると「寛文4年頃(1665)には、麺類を扱うほとんどの店の看板が「うどん蕎麦切り」だったと書かれている。」すなわち、うどんが主であったことを示している。これに対し、江戸の後期になると、天保8年(1837)起稿の「守貞謾稿」に、「上方ではうどん屋が主になってうどん屋で蕎麦も扱われ、江戸は蕎麦屋でうどんが売られるようになった。」とあり、天保14年(1844)の 随筆「用捨箱」の「温飩の看板」に「昔は温飩おこなはれて、温飩のかたはらに蕎麦きりを売る。今は蕎麦きり盛んになりて、其傍に温飩を売る。」すなわち、うどんとそばの立場は逆転しているのである。
  麦切  むぎ切 江戸初期を代表する料理書である『料理物語(寛永20年1643)』の「後段之部」に、大麦の粉で製する「麦切」について記している。
「麦きり 大麦の粉也、うちやうきり麦のごとくうちて、みじかくきりて、汁うをき、そばきりのごとくしてよし(麦切は、大麦の粉で、打ち方は切麦のように打つが短く切る。汁と上置きはそば切りのときと同じが良い)」とある。
後段之部初めには小麦の粉で製する「うどん」があって、その他「切麦」、「にうめん(素麺をみじかく切り・・)」などがある。そば粉では「蕎麦切」の製し方や食べ方について初めて書いた書物でもある。大麦と小麦は共に古来からの重要な穀物であるが、大麦の粉にはグルテンは含まれていない。
  麦焼酎 「そばと酒」は日本料理で言うところの「であいもの」でお互いの良さを引き立てる組み合わせであるが、そば湯との組み合わせとなると焼酎でこの相性は「であいもの」である。どの焼酎もそれぞれにそば湯との相性は良くそば屋の定番になっている。 「麦焼酎」の発祥といわれるのは壱岐焼酎であるが、特に大分・福岡が有名である。もともと清酒が多かった大分であるがいまでは麦焼酎が広く全国に知られるようになった。 *「芋焼酎」「米焼酎」「蕎麦焼酎」の項参照
  剥きそば ソバの実(玄ソバ)を煮て乾燥させ、殻を崩さずに脱穀したもので、山形県酒田ではたっぷりの水で何度か茹でて水にさらし、それぞれの味付けをして食べる。徳島県三好郡東・西祖谷村でははソバ米といって、祝い事には欠かせない郷土食のひとつ。そば米の吸い物や、そば粥、そば米雑炊などそれぞれ地域の郷土料理である。*ソバ米も同じ
  麦縄 麦縄は、奈良・平安時代に小麦粉と米粉を練って縄状にした索餅(さくべい)という「麺」の祖先らしきものと同じとの解釈が多い。ただ、資料文献に書かれて登場するのは圧倒的に索餅である。索餅や麦縄は、素麺の祖ともされるが、むしろ素麺やうどんの共通の祖と考えたほうが良いのかもしれない。
  麦麺 師守記の暦応3年(1339)に「麦麺」が登場する。一方、「素麺」という表記が初めて登場するのが京都・八坂神社の「祇園執行日記」で、康永2年(1343)の記録である。ほぼ同年代であるところからも「素麺」のことである可能性も否定できない。そば切りの初見が見つかった木曽・大桑村の常勝寺の古い記録にも「麦麺」がある。永享10年(1483)2月の「定勝寺 校割(きょうかつ:備品目録)」に「麦麺甑子(こしき) 六重同蓋二ケ」があって麦麺と書かれていて、おそらく麦麺を蒸すこしきの数を記録したものであろう。同寺の応永29年(1422)7月晦日 正心記之とある「定勝寺年貢納同手作田自八月次至七月下行帳」に「・・・正月二日点心索麺代物」とあり「索麺」の表記を記している。
  剥き実 玄ソバを皮むき機などでソバ殻を取り除いた実。剥き実(むきみ)または抜き実(ぬきみ)。製粉工程の初期の段階で、この状態から石臼やロール製粉機にかけて製粉に入る。または、ソバ米としてそば雑炊やソバ味噌などにも使う。
ソバの流通の問題から見ると、従来は玄ソバをもって消費量や輸入量としてきたが、国内においてはソバの産地で殻を取り除き、「むき実」の販売に取り組むケースが出ている。さらに、輸入においても、玄ソバで輸入されるもののほかに殻を取り除いた抜き実の状態で輸入されるものが増えているという実態がある。*丸抜き(ぬき)割れないでそのままの形をとどめているもの。*「抜き実」の項参照
  蒸しそば切り 「熱盛りそば」が登場した背景には諸説あるが、江戸時代の初期の頃に流行ったとされる蒸籠で蒸す「蒸しそば切り」と、茹でて洗ったそばをもう一度熱い湯に通したり、盛りつけた上に熱湯を掛けるなどの方法がとられる。また、そば切りが切れやすいので蒸籠で蒸したことから「蒸しそば切り」で、その名残として茹でたそばを盛る器のことを「せいろ」と称し、それに盛ったのも「せいろ」というようになったともいう。
  六連星 (むつらぼし) 牡牛座にあるプレアデス星団、すなわち昴(すばる・すまる)は、六つの星が連なったように見えることから、静岡から東北までの東日本では「六連星」という呼び方が多く使われ 、地域によっては六連(むづら)、六星(むつぼし)・六連珠(むつれんじゅ)、六神様(むつがみさま)などもある。古来から星は、規則正しく季節や時刻を教えてくれることからも、農業に携わる人達にとっては貴重な存在であった。「六連空なか 粉八合」(静岡県)は、「すばるまんどき 粉八合」と同じそばまきの時期を表したもので、「すばる」が南中したときが「まんどき」で、夜明け方に南中したときにそばを蒔くともっともよく実り、一升の実から八合の粉がとれるという俚諺である。他にも昴とそば蒔きの諺は多い。
  棟上げ蕎麦 棟上げ(上棟式)にはそれぞれの地域によって様々な風習があり、おそらくどの地域にも共通したのは「餅まき」だが、ハレの食べ物であるそばを振舞う場合もあった。棟上げ蕎麦、または建前そばともいう。棟上げの祝に酒とともにそばや肴を出して振舞い祝儀などを工事の関係者などに配った。江戸時代から行われていた風習だという。
  村おこし そばによる地域の活性化。地域おこしとか町おこしともいわれ、地域振興策の一環として取り組まれる活動。それぞれ地域に応じたテーマが設けられるが、過疎化の進む農山村では「そばをテーマ」にして活性化に取り組んでいる地域も多くみられる。
  村瀬忠太郎 村瀬忠太郎は、「名人やぶ忠」といわれた東京滝川中里(北区滝野川町中里)にあった手打ちそば屋「日月庵やぶ忠」の主人。安政6年(1858)〜昭和13年(1938)。父は美濃大垣藩の武士であったが浪々の後、江戸で美濃屋というそば屋を始めた。忠太郎の代になって「日月庵やぶ忠」を始め、昭和初期には「名人やぶ忠」と称された。村瀬忠太郎の口述による「蕎麦通」の初版本は昭和5年に発行されている。後に、そば打ちの指導に貢献した片倉康雄(足利 一茶庵)、高井吉蔵(山形 萬盛庵)は一時期やぶ忠で修行したという。
     
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名目 「めいもく」とは、他の店のそばと差別化するために付けるキャッチフレーズのようなもの。寛延4年(1751)脱稿の「蕎麦全書」巻之上「江戸中蕎麦切屋の名目の事」とあって当時のそば屋とそれぞれの店の名目を挙げている。同書から一例をあげると「大名けんどん」「芳野蕎麦」「玉垣そば」「朝日蕎麦」「雪巻蕎麦」「さらしな蕎麦」「ざる蕎麦」・・・などがある。
  名人やぶ忠 そば屋で生まれそば屋で育った村瀬忠太郎は東京滝川中里(北区滝野川町中里)に「日月庵やぶ忠」という手打ちそば屋を始め、当時の食通のあいだで「名人やぶ忠」と称されるようになり、昭和5年には「そば通」の初版本を発行した。昭和13年に80歳で他界するが、この間、そば打ちの指導に貢献した片倉康雄(足利 一茶庵)、高井吉蔵(山形 萬盛庵)はやぶ忠で修行したという。*「やぶ忠」の項参照
  メッシュ 篩の網目の大きさを表す単位で、1インチ(2.54cm)がいくつに仕切られているか、すなわちこの中に何本の網目が通っているかを表す値のこと。例えばそば粉でいうと、1インチに80本の網が通っている80メッシュで篩った粒子は細かく、40本の40メッシュのほうが粗いということになる。もうひとつ、国産の篩には「目」という単位もあって、1寸(3.03cm)の中に何本網が通っているかを示している。
  「目」と「メッシュ」 どちらも篩の目の大きさを表す単位で、「目」は1寸(3.03cm)がいくつに仕切られているかを表す値であり、「メッシュ」は1インチ(2.54cm)がいくつに仕切られているかを表す値である。しかし最近は、篩を構成している網の太さによって篩目の開きは値としては小さくなるので、「目」や「メッシュ」ではなく実際の開き目のサイズをマイクロメートルで表す傾向にあるという。
  めしのとり湯 江戸初期の寛永20年(1643)に出された「料理物語」や元禄2年(1689)の「合類日用料理指南抄」などに、そばをつなぎやすくするために「めしのとり湯 ぬる湯 豆腐をすり(すった湯)」などを使うと良いと書いている。「めしのとり湯」は、米を多めの水で炊き、沸騰した湯をとる「湯とり飯」と逆の方法。湯とり飯は米を多めの水で煮てざるにあげ、ふたたび蒸して作る。「料理物語」の蕎麦切りには「めしのとりゆにてこね候て吉 又はぬる湯にても 又とうふをすり水にてこね申事もあり・・・」とある。
  麺切台 そばやうどん作りで、手打ちの補助をするための道具。半自動送り包丁のことで、包丁の上げる高さや太さ調整位置によって麺の切り幅を設定して、包丁の上げ下げだけで自動的に麺を切り進む道具。
  麺台 打ち板(うちばん)、打ち台、延し台ともいって麺類を延ばす台のこと。素人が家庭で500g程度のそばを打つのであれば90cm×90cmの正方形もあれば足りるが、普通は120(150)cm巾×100cmくらいが一般的。さらに大きくなると200cm巾、奥行き120cmなどもある。*「のし板・のし台」の項参照
  麪店家 麺類を商う店すなわち麺類屋のこと。江戸時代の半ばまでは、麺類を扱う店はうどんが主で饂飩屋すなわち総称して麺類屋であった。その後、そば切りの普及とともに、そば切りを主に扱う麺類屋すなわち、そば切屋(そばが主の店)と、うどん屋(うどんが主の店)が分化していく。寛延4年(1751)脱稿の「蕎麦全書」では、そば切屋であっても、小麦粉を多く入れて、そばかうどんかわからないようなそば切りを商う店が多く登場している。これらを著者・日新舎友蕎子は「麪店家」と称している。
  麪(麺)毒 江戸時代の中頃まで、「そば切りを食べすぎると食あたりする」といわれていた。これを「麺毒」といって、そば切りを食べた後には麺毒を消すために豆腐の味噌煮を吸物として出していたという。その後、そば切りを食べた後にそば湯を飲むと「麺毒」を消す効用があるということになって「そば湯」が普及することにもなった。昔は、そばは消化が悪く足の速い(傷みやすい)食べ物とされていたことがわかる。
  麺棒 のし棒、打ち棒ともいう。そばやうどんを打つ道具。地域性や打ち方の違いがあって、一本だけで打つ場合や、太い麺棒や細いの、長短三本を使い分けるなどいくつかのケースがある。もともとは一本であったが、一度に多くのそばを打つ効率から三本の麺棒を使うことが多く、江戸流のそばの打ち方などという。普通、延し棒(長さ90cm×〜3cm)が一本、巻き棒(〜120cm×2.4〜3cm)が二本で合計三本。材質は、ひのき、ひば、樫、朴の木、桜、栂など。長い・短い、太い・細いなど。*「打ち棒」の項と同じ*「のし棒」の項参照
  麺棒掛け 複数本の麺棒を二点支えで差し渡してかけられるように壁などに取り付ける。麺棒の整理整頓の目的と、麺棒の反りを防ぐ効果もある。直射日光が当たらず湿気の少ない場所が良い。
  麺前 麺類を食べる前に飲む酒のこと。また、そば振舞のときに最初に出る酒を「そば前」という。その後、そば屋で注文したそばが出るまでのひとときを楽しむ酒を「そば前」と言ったのだろう。そばは、茹でて盛りつけると時間をおかずに食べるものだから、だらだらと飲む酒の相手には不向きである。そこから「そば前」という領域が生まれたともいえる。だから、そば屋では度を超さぬ程に飲むのがいいようだ。麺前とある以上、うどん屋でも同じことがいえる。
  麺類 小麦、ソバ粉、米粉、その他穀類の粉などを水でこねて細長く延ばしたもの、または切った食品の総称。そば、うどん、素麺、ラーメン、冷麺、スパゲッティなど多種がある。麺の状態も、生めん、茹でめん、半生麺、乾麺、即席麺、冷凍麺などがあり、それぞれ保存性においても短期のものから長期保存までさまざまである。
  麺類屋
   麺類処
江戸時代の半ばまでは、そば屋と称するようなそば切りを主で商う店はなかった。麺類を商う店はうどんやにうめん、そば切りなどの麺類を扱うので総称として麺類屋といった。麺類処はうどんやにうめんを商っていることを強調するための店側のキャッチフレーズであろう。行灯看板の片側に「そば切り」その反対側は「うどん(うんどん)」と書かれることが多かったが、なかには、片側を「生蕎麦」とし、他方に「麺類処」と書いた行灯もあった。
     
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元汁(もとじる) 醤油と砂糖(味醂を加えることもある)を合わせたものが「返し」で、そばつゆを作る元になるところから「元汁」ともいう。これに「だし」をあわせて「そばつゆ」などを作る。*「返し」の項参照
  本山宿 中山道32番目の宿場。松尾芭蕉十哲の一人でもあった森川許六が芭蕉門下の文章を集めて宝永3年(1706)に編纂した俳文集「本朝文選」、後に改題した「風俗文選」の中で、「蕎麦切といっぱ、もと信濃の国本山宿より出て、普く国々にもてはやされける」とした雲鈴という門人の説を紹介している。そば切りが信州の本山宿で誕生したというのである。ただ、これ以外に裏付けとなる記録などは見あたらず、単にその当時の伝聞を書きしるしただけのものとの評価に止まっている。*「森川許六」の項参照
  本山 萩舟 「飲食事典」の著者。もとやまてきしゅう 明治14年(1881)〜昭和33年(1958)。新聞記者・小説家・随筆家で料理にも造詣が深く東京京橋に「蔦屋」を開店。食文化の研究に尽力し多くの著書を残し、集大成である「飲食事典」は没後の発刊となった。そば関係では、「小麦粉によるつなぎ」の初見で、「一説には江戸の初期に 奈良・東大寺へ来た朝鮮の僧・元珍が小麦粉によるつなぎの手法を伝えた」としている。残念ながらその出典を書きのこしていない。
  揉み方三年 「揉み方三年 切り方三月」という。これと同じ言葉に「包丁三日 延し三月 木鉢三年」というのもある。そば打ちの工程の難易度を表現したもので、木鉢すなわち「水回しと捏ね」が一番難しくかつ重要であるといっている。さらに「木鉢一生」ともいう。どれを見ても木鉢が一番難しく重要であることを説いている。*「一鉢二延し三包丁」の項参照
  もり 盛りそばのこと。そばを盛り付けるところからの呼称。笊(ざる)に盛り付けて「ざる」、蒸籠に盛るから「せいろ」だが、地域や店によって呼称が異なる場合もある。
  森川 許六 彦根藩の藩士で俳人。松尾芭蕉十哲の一人で宝永3年(1706)に芭蕉門下の文章を集めた俳文集「本朝文選」を刊行した。直後に改題した「風俗文選」の中で、雲鈴という門人の説を紹介して「蕎麦切といっぱ、もと信濃の国本山宿より出て、普く国々にもてはやされける」と書いている。これは、そば切りが信州の本山宿で誕生したというのであるが、これ以外に裏付けとなる記録などは見あたらず、単にその当時の伝聞を書きしるしただけのものとの評価に止まっている。
また、滋賀県・伊吹山のソバについては「伊吹ソバ天下にかくれなければ、からみ大根また此山を極上と定む」と述べている。*「本朝文選」「風俗文選」の項参照
  守貞漫稿 江戸時代後期の京坂と江戸の風俗、事物を図解や挿絵をまじえて説明した一種の百科事典で、起稿は天保8年(1837)で、約30年間書き続けられた近世風俗史の基本文献である。著者は喜田川守貞で嘉永6年(1853)成立した近世風俗研究にとって重要な資料である。そば屋や麺類屋の看板、品書きなど食に関する記述も多い。
  盛り分け 「相乗り」ともいう。種類の違うそばを同じ器に盛り合わせること。例えば、その店の並みそばと田舎そば、色物との組み合わせなど。三色そばなど。そばとうどんを盛り分けるのもある。
  師守記 (もろもりき) 北朝の大炊頭や外記を務めた公家・中原師守の日記で暦応2年(1339)〜応安7年(1374)に及び、南北朝時代の第一級史料とされる。大炊頭も外記もともに平安時代から中原氏が世襲した役職だが、特に大炊寮(おおいつかさ)は宮中で行われる神事や仏事の供物、宴席の食料や調理などの管理も担当した。一方で、「素麺」という文字が初めて史料で認められるのが京都・祇園社(八坂神社)の祇園執行日記で康永2年(1343)であるが、これより先、「師守記」の歴応3年(1340)に「麦麺」という記録が登場している。「素麺」の表記が認められるのは康永4年(1345)である。
  門前そば 古くから寺社と麺類の関係は深く、儀式や振舞などに素麺や饂飩、そば切りが使われてきた。その寺社の参詣者のために発達したのが門前そば屋であり、うどん屋である。門前そばのごく一例を挙げると、やはり筆頭は信州善光寺の門前で、江戸時代からのそば屋も多い。戸隠神社の周辺には「ボッチ盛り」のそば屋が軒を連ねる。他にも、福井県永平寺、東京調布市の深大寺、島根県の出雲大社の門前そばなどは代表例であろう。門前うどんも同様で、例えば群馬県の水澤寺(水澤観音)山門下には天正10年(1582)創業だといううどん屋を筆頭に何軒も軒を連ねている。
     
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