[ く ] - そば用語の解説一覧 
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ku 1  例えば、五目ずしなどに混ぜ合わせる添え物のこと。主材料にたいする副材料でもあり、具材。種ともいう。そばやうどんに具をのせたものを関東では種物だが、関西では「かやく(加薬、加役)」のほうがわかりやすい。例えば、「かやくそば」「かやくうどん」。
ku 2  食いあわせ 食べ合わせ。同食すると良くない(と伝承されている)もので、現在でも例に出されるのに「蕎麦とタニシ」「蕎麦とスイカ」「蕎麦と柿」「ウナギと梅干し」「天ぷらと氷水」などたくさんある。 時代を遡ると、南北朝時代に書かれた「拾芥抄(しゅうかいしょう)」という書物に「合食禁」が出ていて「喬麥(ソバ)」が登場するので興味深い。ここでは、喬麥(この字が使われている)との合食禁は「猪・羊ノ肉」とある。興味ついでに逆に、相性の悪いとされる「猪」または「猪-肝(イノシシのキモ)」と合食禁としてあがっている食品を見ると「大豆」「秝米」「小豆」「芹」「鴫(しぎ?)」「鯉」などと多い。現在の知識から見ると、おそらく野生のイノシシの肉、又は肝の方に起因したのだろう。
「食いあわせ」とは逆に、日本料理では、良い組み合わせ、料理の相性の良いことを「であいもの」という。例えば「筍とわかめ」「ブリと大根」「サンマと大根おろし」さらに、鴨がネギを背負ってくる「鴨とネギ」などでこちらも多い。
ku 3  空中切り 薬味のネギの切り方のひとつ。白ネギ(根深ネギ)をまな板の上で薄く切ると、ネギの繊維が強いので割れたりつぶれたりして食感が損なわれるとして、手に持ったまま切り落とす。すなわち、空中切りで、人によっては二本とか三本持って切る場合もあるそうだ。
ku 4  九九・価格説 「二八そば」という言葉の語源には、「掛け算の九九・十六文価格説」と「粉の配合割合説」がある。十六文のそばを二八(ニハチ)としゃれた九九説は、説得力があって理解しやすいが、言葉が登場した頃の値段は六文とか八文だということを考えると語源の説明にはなり得ない。その後、そばの値段も物価と共に十二文などと移り変わり、十六文であったのは江戸の後期の7・80年間だけであった。従って、「ニハチ・十六文」という言葉の洒落が流行したのはそばやうどんの値段が十六文になってからのことで、「二八そば」の語源とは別物である。*「二八蕎麦(の)語源  二八の語源」の項参照。
ku 5  くくり 木鉢の作業は、前段の「水回し」と後段の「くくり」に分けられる。「水回し」は、粉に加水して素早く両手で撹拌しながら粉にまんべんなく水をゆきわたらせる作業で、これを繰り返していくと小さい粒々ができ、次第に大きな塊になっていき、それらをまとめる作業に移行する。すなわち「くくり」の作業で、全体をひとつの塊にまとめながら練り込み、さらに、木鉢の底面を利用して練り上げるとそば玉の表面に艶がでる。面(つら)が出た状態といい「面だし」ともいう。
ku 6  草切り ヨモギ切りのこと。ヨモギの葉をさらしな粉に練り込んだ変わりそばで、春の野草の香りと味が楽しめる。ヨモギの葉先を塩とミョウバンを少量入れて茹で、さらに湯を2~3度取り換えながら茹で、水に晒してから絞る。包丁で微塵切りで細かく刻み、すり鉢(ミキサー)にかけて、そば粉500gに5~6%ほどを混ぜて練り込む。ヨモギの繊維を意識して切り通しを心がける。
ku 7  久慈蕎麦
  久慈そば
茨城県久慈郡の金砂郷村や水府村一帯のそば。常陸秋蕎麦とか久慈蕎麦といって茨城県は古くからそばの名産地がある。東茨城郡には涸沼川の左岸に位置する蕎麦原というそばの地名まで残る。
ku 8  久須美祐雋(すけとし) 安政2年から文久元年(1855~61)まで大坂町奉行に在職。見聞した大坂の人情・風俗・物産・食物などについて書き記した随筆「浪花の風」を遺した。この随筆の中には、江戸人の口に合わないものの代表格として大阪のそばをあげている。「そばは・・其色合もあかみを帯て味ひ宜しからず・・風味劣れるなり・・製法もよろしからず」「うどんは・・・・おおいによろし その色は雪白で 味わいは甘味なり」と書いている。
ku 9  口開け 切ったそばの一本一本がくっつかないように、切ったばかりの切り口を開けること。切りのひと小間、ひと小間で、切ったそばの下に包丁を入れて切り口を開いてほぐし、麺線に打ち粉がつくようにする。(その後、余分な打ち粉は振るい落とす。)
ku10  クーチャオマイ ダッタンソバは、中国では「クーチャオマイ(苦ソバ)」、チベットでは「ギャブレ」、ネパールは「ティート・バーバル」と呼ばれている。ラテン語の学名は「ファゴビラム タータリカム、ゲルトネル(Fagopyrum tataricum Gaertner)」で、ラテン語の「タータリカム」を日本語に訳した「タタール人の:ダッタン人の」が日本での呼称となった。「ファゴビラム」は「ソバ属」、ゲルトネルは命名者の名前。
ku11  球磨焼酎 焼酎はいずれもそば湯との相性が良い。熊本県南部の人吉盆地(人吉・球磨地方)で生産される米焼酎。薩摩の隣国にありながら、米に恵まれた球磨地方の相良藩の伝統がいまに残したものである。他に麦と芋が焼酎の代表格で、麦焼酎の発祥といわれる壱岐焼酎があり、伝統的な本格焼酎となると元々南九州の地酒であった芋焼酎がある。歴史の浅いのは「蕎麦焼酎」で、昭和48年に宮崎で開発され、都市部を中心に広がった。高千穂など奥日向での生産が多かったが、いまでは他県でも多くの銘柄が生まれている。
ku12  国替 江戸時代におこなわれた大名の国替え。これがそば切り伝播の役割を担った例が認められる。例えば、出雲そばと出石そばはその代表例であろう。各種随員の移動を伴う国替えによって旧地の食習慣や生活様式までも新任地へ移入されるからであるが、そば切りの先進地域であった信濃諸藩からも多くの大名が他地域へ国替えされている。
ku13  くらわんか皿 陶器の世界で言う下手物(げてもの)で、多くは淀川の三十石船に漕ぎ寄せて乗船客に飲食物を商ったくらわんか舟で使われた酒食を盛った雑器のこと。使い捨てであったとする説と、食べ終わった茶碗や皿の数で代金を数えたので、客はそれを川に投げ入れ、勘定をごまかしたとする説がある。今も淀川の川底から出てきて、世に「くらわんか茶碗」とか「くらわんか皿」といわれている。
ku14  くらわんか茶碗 大阪・北浜のそば屋「手打ちそば三十石」の箸袋が三十石文庫②となっていて、淀川の蕎麦切舟の歴史を掲載していて、その中に当時の蕎麦切り舟が使っていたというそば鉢の写真も載せている。小さい写真であり判じがたいが陶器の世界で言う「くらわんか茶碗」の一種だろうか。
「下手物(げてもの)」という言葉がある。上等な美術工芸品などを「上手(じょうて)」「上手物」と言うのに対し「下手」「下手の物」と言い、素朴で力強い美しさを持ち、かつて日常使われていた簡素でも捨てがたい趣を持った雑器などをさす。この下手の代表格に古伊万里の「くらわんか」の皿や茶碗がある。古伊万里のほかに、大阪・高槻の古曽部で焼かれた古曽部焼も多く、さらに遠くは、長崎県の波佐見や愛媛県の砥部で焼かれたものもあるという。
ku15  くらわんか舟 大坂では淀川の三十石船に漕ぎ寄せて乗船客に飲食物を商う「荷売舟」「貨食舟」などとも言う「くらわんか舟」、一方、江戸の隅田川では船遊びの屋形船や屋根舟の間を漕ぎまわって飲食物を売った「売ろ舟」「うろうろ舟」が活躍した。淀川ではその中の変わり種としてうどんやそば切りを売り回った「蕎麦切舟」があり、隅田川にもいろんな物売りの中に「そば切り売りの舟」もあったという。
ku16  グリアジン
   とグルテニン
小麦粉にはグルテニンとグリアジンという二つのたんぱく質が含まれている。グルテニンは弾力に富むが伸びにくく、グリアジンは弾力は弱いが粘着力が強くて伸びやすい性質をもって、これに水を加えてこねることによって異なるたんぱく質が結びつきつながりあって粘着性と弾性を適度に備えたグルテンになる。
ku17  グルテン 小麦粉が持っているグルテニンとグリアジンというたんぱく質に水を加えて捏ねるとつながりあってグルテン(麩素)を形成する。うどんやパンの歯ごたえや食感はこのつながりによるもので、そばの「つなぎ」もこの小麦粉の特性を利用したものである。
ku18  暮れそば 年越しそばは土地土地で違った呼び方をされてきた。岡山県上道郡(赤磐郡)では「暮れそば」、大阪や京都周辺では「つごもりそば」とか「みそかそば」、東京で「みそかそば」、東北の一部の「運そば・運気そば」、「歳とりそば」「大年そば」や「福そば」「寿命そば」など運や福、長寿など、さらには旧年の労苦や厄災を断ち切りたいと願う「年切りそば」や、回顧しながら食べる「思案そば」など様々である。全国的な共通語となるとそれらを総称してやはり「年越しそば」であることはいうまでもない。
ku19  久呂無木 蕎麦の和名は、曾波牟岐(そばむぎ)または久呂無木(くろむぎ)といい、「そば」は古名「そばむぎ」の略。平安時代の書物から見ると、「本草和名」では「喬麥 和名:曾波牟岐」(喬の字の呑が右)とあり、「和名類聚抄」では「蕎麦 和名:曾波牟岐 または久呂無木」とある。南北朝時代に書かれた「拾芥抄(しゅうかいしょう)」という中世の百科事典ともいわれるなかに、「合食禁(食い合わせ)」として挙げられたいろいろな食物のなかに「喬麥(ソバ)」が登場するが、すでにこの時代、和名は付されていない。「本朝食鑑」元禄10年(1697)刊行には、「蕎麦  曾波と訓む。久呂無木ともいう。」とある。
ku20  桑名日記 「桑名日記」と「柏崎日記」。江戸時代の後期、桑名藩下級武士の父と、越後柏崎飛び地領に赴任中の(養)子の交信日記。桑名では年越しそばをそば屋に食べに行く毎年の様子を書き、一方、年越しそばの風習の無かった柏崎からは、「大晦日にそば切りを買いに遣わしたが、そば切りなど一切無之よし」「これまで御陣屋内にて大晦日にそば切りなど食べ候者は無之ことのよし・・」とあって、三重・桑名の年越しそば風景と、新潟・柏崎には年越しそばの風習が無かったことを書いている。
     
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