[ こ ] - そば用語の解説一覧 
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ko 1  甲州説・信州説 江戸時代の半ば、そば切り発祥の地について二つの説が現れる。一つは、甲州説で、尾張藩士で国学者の天野信景が雑録(随筆集)・「塩尻」の巻之十三宝永(1704~11)のなかに、「蕎麦切は甲州よりはじまる、初め天目山(棲雲寺という臨済宗の山号)へ参詣多かりし時、所民参詣の諸人に食を売に米麦の少かりし故、そばをねりてはたことせし、其後うとむを学びて今のそば切とはなりしと信濃人のかたりし。」としているのが甲州説である。もう一つは信州説で、彦根藩の家臣で、松尾芭蕉十哲の一人でもあった森川許六が芭蕉門下の文章を集めて宝永3年(1706)に編纂した俳文集「本朝文選」、後に改題した「風俗文選」の中で、「そば切りといっぱ もと信濃の国本山宿より出て 普く国々にもてはやされける」とした雲鈴という門人の説を紹介している。これが甲州・信州両説の論拠であるが、双方共にそれ以外に裏付けとなる記録などは見あたらず、単にその当時の伝聞を書きしるしただけのものとの評価に止まっている。
ko 2  合類日用料理指南抄 元禄2年(1689)初版の料理書で江戸時代の料理百科と言われている。「合類日用料理抄」の麺類にそばについてあり、〇蕎麦切の方 〇同蕎麦切秘伝の方 〇そば切ゆでゝ久ク持様 とあって、それぞれについての解説がある。先ず、「そば切り」は、そば粉に少量の熱湯(よく煮たった湯)をたらして、混ぜ合わせる方法、次の「そば切りの秘伝」は、打ち粉に小糠をふるって使う方法と、その利点について記している。「蕎麦切りをゆでて長くおく方法」には、ゆで湯の中に砂糖少しとくるみ五つを入れるとある。それぞれについては、こまかくその効用を具体的に説明している。
ko 3  河内山(宗俊) 歌舞伎にも蕎麦がたびたび登場する。なかでも最も有名なのは、通称「河内山(宗俊)」とも言われる「天衣粉上野初花(くもにまごううえののはつはな)」のなかの場面で、雪の夜「直侍(なおざむらい)」が素足に雪駄で雪を踏みしめながら入った入谷村(台東区)の蕎麦屋でかけ蕎麦を食べる場面である。この蕎麦屋の主の名前は仁八である。(歌舞伎の舞台では本物のそばが使われる。)
ko 4  紅白蕎麦 紅白は祝い事で伝統的につかわれる色で、そばでは海老切りの赤(紅)と更科そばの白を盛り合わせる。または、桜の葉を裏ごししてさらしな粉に練り込んだ薄紅(ピンク)との組み合わせなど、紅白二色の変わりそばの組み合わせる。もうひとつは昼夜そば(合わせそば)で、紅白二種の生地を重ね合わせて延すことによって一本のそばが裏表紅白二色のそばができる。
ko 5  弘法大根 福島県大沼郡金山町のあざき大根のこと。金山町の在来種で、あざき大根の名は硬くて食べられないので人を欺く「あざむけ大根」とか、小さいみための割りに辛く人を欺くことからついた名前などといわれる。辛味が強くそばの薬味。元々は高遠の地大根が移入されたという説もある。
ko 6  凍りそば 長野県上水内群信濃町柏原の名産で、寒気に晒して凍らせた蕎麦。茹でた生粉打ちのそばを数本ずつ輪に巻いて厳寒の夜に戸外に置いて凍らせ、さらに40~50日間乾燥させる。江戸時代末から作られ献上品にも使われたが、次第に作られなくなっていた。その後、昭和の終わりころから地域おこし事業として復活している。熱々のだし汁を注ぐだけでお吸い物の種として食される。
ko 7  紺屋の明後日
   そば屋の只今
「こうやのあさって、そばやのただいま」。あてにならないものの例え。紺屋は染物屋のこと。紺屋の仕事は天候に左右されるので仕上がりの返事もその場しのぎが多い。そば屋の出前の催促にも「ハィッ 只今」か「今 出ました」の返事だが、まだしばらくかかる。どちらも、その場しのぎであてにできない。
ko 8  (澱粉質を)糊化 デンプンに水を加え加熱するとデンプン粒が水を吸収し、膨張して糊状の物質に変わる状態を糊化という。糊化することをα化といい、できた澱粉をα澱粉という。そば掻きや炊き立てのご飯はそれぞれの澱粉質を糊化させた状態で、おいしく消化されやすくなる。
ko 9  五畿内志 正式には「日本輿地通志畿内部」で、享保20年から21年にかけて大阪・京都・江戸で出版された畿内5ヶ国の地誌。当時の五畿内の事情を伝える資料として今日でも高く評価されている。 大阪府貝塚市にある蕎原(そぶら)という地名について「五畿内志」には蕎麦の産地と記されている。
ko10  極細打ち 細打ちよりも細く打った(切った)そばのこと。そばの切り幅は、延した生地の幅一寸(3.03cm)を23本に切った一本の太さが約1.3mmのそばを「中打ち」または「並みそば」としているが、それよりも細く打ったのが「細打ち」であり、それよりもさらに細く打ったそばのこと。「細打ち」は変わり蕎麦などに多く、延した生地の幅一寸(3.03cm)を40本ほどに切るので切り巾が 0.8mmくらいの細いそばで、「極細打ち」になるとそれよりも細くて、「切りべら50~60本」で仮に60本だとすると0.5mmの勘定になる。
*「御定法」「切りべら」の項を参照。
ko11  穀物自給率 食料自給率といえば穀物自給率をさす場合が多い。日本は世界の主要国の中でも最大の穀物輸入国であり、農林水産省試算(2014年)による食糧自給率は、カロリーベースで39%、生産額ベースで64%となっている。主要穀物である米の自給率についてみると加工用米を含めた全体は96~97%で推移しており、主食用は100%である。うどんや蕎麦に関わる小麦とソバについては、小麦は12%~13%となっている。ところが近年、ソバの自給率について調べても明確な数値が見当たらないように感じる。考えられる要因として、殻を取り除いた抜き実の状態で輸入される割合が増えていて、その数量が把握されていなかったという背景が推測されるが、2013年の国内産ソバ生産量33千トン、国内消費仕向量141千トンから、この年のソバ自給率は23%と推定される。
ko12  穀物(蕎麦)相場
        江戸期
そば麺としての値段推移ではなく穀物としてのソバの相場について。江戸時代の主要物価のなかで、特にソバの相場の実態把握はたいへん難しい。わずかに把握できる史料からソバの値段に関するデータを抜粋し、比較的史料が残っている米、小麦、大豆などと対比したのが当サイトの「江戸時代の穀物相場と蕎麦の相場を比較する」である。これによると、 きわめて大まかであるが「米の価格1とするとソバ0.5、小麦0.7~0.8」「ソバの価格を1とした場合の米は約2倍、小麦は1.8倍ほど」といえる。
ko13  ごくらくがらみ 長野県下伊那郡下條村親田地区に古くから産する親田辛味大根。蕪のような扁平の球形で甘みの中に辛味があるので「あまからぴん」とか、口に含んだ時はほんのり甘く、次に強烈な辛味があり、白と赤があって白い方を「ごくらくがらみ」、赤い方を「とやねがらみ」として品種登録されている。
ko14  極楽寺真如堂
       (資勝卿記)
元和10年(1624) 日野資勝は京都極楽寺真如堂のご開帳に出かけた後、「・・・大福庵へ参候て、弥陀ヲヲガミ申候也、其後ソハキリヲ振舞被申て、又晩ニ夕飯ヲ振舞被申候也」とあって、初めて京都にソハキリの記録が登場する。京都における初見を書きのこした日野資勝は、江戸のそば切りの初見「慈性日記」を書いた慈性の父である。 [画像]は、元禄6年に再建された現在の極楽寺真如堂 紅葉の名所でもある。応仁の乱で荒廃したあと市中を転々としたので日記に登場する場所とは異なる。天台宗。
ko15  語源説
   (二八そば)
二八という言葉の語源について江戸期以来議論されてきたがいまもってわからない。主たる二説は「掛け算の価格説」と「配合割合説」で、どちらも単純で分かりやすい反面、矛盾点や問題点も分かりやすいという難点もある。価格説の2×8=十六文は理解しやすいが「二八」という言葉の出現は、享保年間(1728頃)といわれ、そばやうどんの値段は六~八文の頃だった。一方、粉の配合説は、江戸時代の粉の計量などは升(ます)で量る方法が採られていた。時代背景を考えた場合の二割:八割=足して十割という現在的な計量と配合方法は不自然であるのと、何よりも「二八うどん」「二六」「三四」などの説明も困難である。
ko16  五穀 五穀とは、米・麦・粟・豆とキビまたは稗とするのが一般的であった。通常、ソバは五穀の中には入らず雑穀とされているが、米の収穫が困難な地域では五穀から米が外されて、代わりにソバが入る例もある。例えば、長野県木曽開田村に遺る江戸期の「開田村誌」ではヒエ・豆・粟・キビ・ソバが五穀で、同じ信州の川上や戸隠などの山村では、ソバが五穀の筆頭であった時代もある。
ko17  五穀断ち 仏教の行のひとつで、修行や立願成就のために穀物を食べずに行うこと。穀断ち(こくだち)ともいう。例えば、天台宗比叡山の「千日回峰」の籠山の行中は五穀と塩を断って、主食は蕎麦粉だけだと言われ、戸隠の修験者も、山中で五穀を断ち、わずかな野菜とソバの実を持ち歩き、粉にすりつぶし水でかいて食したと伝わる。比叡山・無動寺の「回峰行記」(元和元年~万延元年:1621~1860)によると、「蕎麦は六根清浄にて峰々を廻りし後に谷清水にて溶かし これを食す」と記されている。
ko18  五色そば ごしきそば。宮中の行事や仏教行事の際、または節句などの供え物とされた。さらしな、海老切り、茶そば、胡麻切り、卵切りなど「白・赤・緑・黒・黄」の五色のそばを盛り分ける。
ko19  御常法 江戸のそば職人によってそばの切り巾についての御定法(御常法)が確立されたとされている。そばの太さ(細さ)を、延した生地の幅一寸(3.03cm)を23本に切るとしていた。切ったそば一本の幅はほゞ1.3ミリとなり、これが並そばの太さであるとした。これが「中打ち」である。そこで、生地の厚みを約1.5mmに延ばしたとすると一寸(3.03cm)を23本に切った一本の切り巾は約1.3mmだから断面を考えると、多少縦長ぎみの長方形になっている。このような例を「切りべら二十三本」といって、たしょう延しが厚くても薄く切ることによって麺自体を細くした勘定になる。
この並そばが「中打ち」で、これよりも太めに打ったそばは「太打ち」であり、細めに打つ場合は「細打ち」である。あえて切りべらに当てはめると「太打ち」は「切りべら15~10本」で切り巾は2mmとか 3mmの太さになり、太い田舎そばなどに相当する。「細打ち」はさらしな粉で打った変わり蕎麦などに多く、「切りべら40本ほど」だから切り巾が 0.8mmくらいになる勘定だ。(いうまでもなく、延しの厚みはそれぞれに応じているのはいうまでもない。)
ko20  ごじる(呉汁) 大豆を水にしたしてすりつぶしたしぼり汁を呉汁という。豆乳。これをつなぎにして打ったそばを「ごじるつなぎ」という。津軽地方独特のそばに「津軽そば」があった。津軽そばは茹でて玉にしてからの保存性が優れ、茹でるとツルツルして腰が強く熱い種物に向いていたので江戸時代から明治まで夜そば売りに使われた。秋田県北秋田市の道城地区に伝わる「道城そば」もつなぎに大豆の呉汁を使う。さらに、この地域では「何杯もお替わりを強いる」風習もある。このようにみると、呉汁を使うそばも、お変わりを強いる習俗も、かなり広い地域で行われていたのかも知れない。
ko21  御前粉 さらしな粉のこと。ソバを石臼で挽いて最初に出た粉は打ち粉に使われる「花粉」で、さらに「上割れ」だけを挽いたのが「さらしな粉(御前粉)」。白くてでんぷん質が多く、ほとんどそばの香りはないがのど越しや口当たりが良い。ロール製粉の場合も、粉の篩い分けと再度製粉機にかけることによって「一番粉」・「二番粉」・「三番粉」・・や「さらしな粉(御前粉)」など6~7種類の粉に挽き分けることもできる。
ko41  御膳本草 琉球の古書。渡嘉敷通寛著   (1823 注:文政6年)成立。琉球で唯一の食物本草学の書とされていて、前段では琉球国の産物311品目を16分類した産物帳の形式をとって、後段では産物個々についての本草医学面からの効能と害、および禁忌(食い合わせ)や疾病除去方をあげて記述している。沖縄には蕎麦栽培や蕎麦切の記録がないとされてきたが分類の筆頭である「穀類」のなかに「蕎麦」が書かれていて、次の「五穀造醸類」のなかには「蕎麦切」が登場する。これによって、かつての琉球国でソバが栽培されていて、士族層や宮廷料理のなかの御膳や振舞のなかに蕎麦切も入っていたと考えられる。「ごぜんほんぞう」とも読めるが、「ぎょぜんほんぞう」との説もある。
ko22  小蕎麦粒山 蕎麦が「地名」や「山の名前」として付けられている例がある。現時点わかる範囲では蕎麦にまつわる地名は全国で10ヶ所であり、山の名前は8山、沢の名前が1ヶ所となる。蕎麦の実は黒褐色で、三本の稜線で三面がそば立っている。その形状や山の険しい姿から山の名前として付けられている例が多い。岐阜県・揖斐郡奥美濃の高峰から見える蕎麦の実のような三角錐の「蕎麦粒山」(そむぎやま)は1297m。「小蕎麦粒山」は1230m。
ko23  古曽部焼 摂津国古曽部(大阪府高槻市古曽部町)で焼かれた陶器。生活陶器や茶陶などが多く、「くらわんか茶碗」や「くらわんか皿」は古伊万里のほかに古曽部焼も多かったという。淀川の三十石船に漕ぎ寄せて乗船客に飲食物を商ったくらわんか舟で使われた酒食を盛った雑器は使い捨てであったとする説と、食べ終わった茶碗や皿の数で代金を数えたので、客はそれを川に投げ入れ、勘定をごまかしたとする説がある。今も淀川の川底から出てきて、世に「くらわんか茶碗」とか「くらわんか皿」といわれている。
ko24  小谷城郷土館 大阪府堺市南部の小谷家邸宅の一部を一般公開している財団法人の博物館施設。小谷家は鎌倉時代から続く家柄で39代の郷土史家・小谷方明氏が収集した歴史資料を公開している。また、著書の「大阪の民具・民俗志 文化出版局」のなかにも大坂の麺類屋などの資料も紹介されている。
ko25  後段(ソハキリ) 後段(ごだん)。江戸時代の饗応の時、主たるもてなし(食事や茶など)のあとで出した軽い飲食物(素麺やそば切り・・)など。特に、初期の頃は「茶」の後段として素麺やそば切り、またはうどんの例がみられる。
ko26  こね鉢 木鉢のこと。そば粉に水を加えこねるときに使う鉢。総称として「こね鉢」で木製のものが「木鉢」。一般的には、内側が朱色で外側が黒(黒内朱)で、上物の木地・漆塗りは高価だが、樹脂漆仕上げ、樹脂ウレタン仕上げなど手の届きやすい価格帯で材質・種類も多く、形状にも浅型・深型などがある。昔の標準サイズは二尺(60センチ)とされていたそうだが、尺4寸(外径42センチ)、尺5寸(45センチ)、尺6寸(48センチ)、尺7寸(51センチ)・・などサイズもさまざまである。自分の力量に応じた使い勝手を重視して選択したい。
ko27  粉一升 (ことわざ)に、そば蒔きの時期を表したもので、蒔くソバの実一升から一升のそば粉がとれるというのがある。「粉八合」は一升の実から八合の粉がとれる。古来から星は、規則正しく季節や時刻を教えてくれることからも、農業に携わる人達にとっては貴重な存在であった。プレアデス星団・日本では昴(すばる・すまる)はその高さで蕎麦蒔きや麦蒔きの時期を知るための重要な目印とされてきた。例えば、「すまる、まんろく粉八合、頭巾落しの粉一升」ということわざは、「すばる」が夜明け方に南中したときにそばを蒔くとよく実り、一升の実から八合の粉がとれ、さらにまんろくが西へ過ぎ、頭巾がすべり落ちるほどの高さに達したときに蕎麦を蒔くと、一升の実から一升の粉が取れるという。*「プレアデス星団」の項参照
ko28  粉八合 粉一升と同じだが、「すばるまんどき 粉八合」など「すばる」が南中したときの諺(ことわざ)が多いが、「三つ星まっ昼粉八合」はオリオン座の三ツ星で、すばると同様に、蕎麦まきの時期を言い表したもので、静岡県富士郡では夜明け前に三つ星が南中するころに蕎麦の種をまくと、一升の実から八合の粉が取れるとのことわざである。*「プレアデス星団」の項参照
ko29  粉の配合割合
       二八の解釈
そばの値段は長く十六文で定着していたが、幕末以降の物価高騰で一気に五十文となり、明治には五厘から再出発することになる。いよいよ「二八・十六文の価格」とするニハチの根拠が無くなってしまう。そこで現れたのが「粉の配合割合」を表す言葉、すなわち「二八の割合」という新しい解釈が生まれる。ところがこの説にも難点が多い。先ず第一に、小麦粉と食塩水だけが原料のうどんにも二八うどん・二六うどん、更には二六にうめんなどがあって配合比率ではとても説明することのできない矛盾に突き当たる。そばにも「二六そば」や「三四そば」など説明が困難である。
ko30  粉の文化史 粉体と石臼研究の第一人者であった三輪茂雄氏の言葉。エジプト文明から今日まで粉を造って、練って、固めてというパターンは変っていない。旧石器時代から現代のハイテクまでの文化史を、すべて粉の文化史としてとらえている。また、どんな文明の機器であっても生産の原点までたどると必ず素材としての粉がある。とする。
ko31  小堀屋秘伝書 千葉県佐原市(現・香取市佐原)の天明2年(1782)創業というそば店「小堀屋」に伝わる変わり麺57種などが記された麺作りの秘伝書。享和3年(1803)に初代がまとめたもので、現存の一巻は弘化5年(1848)に二代目が転写したものだろうとされる。書かれている変わり麺の数は57品におよび茶切、柚子切、菊切、香切、鯛切、魚切、黒切、白切、寿々切、笹々切、など多種で、変わりうどんや変わりそばの製法を簡略で記している。
ko32  小間板  駒板 小間板または駒板。そばを切るときに使う定規のような道具で、均等に切るときの大切な役割をしてくれる。小間板に使われている木の材質は杉や桧などの薄い板と、包丁の当たる部分の立ち上がり(枕とか駒ともいう)には堅い木が使われる。地域性もあって、江戸流の小間板は薄板で立ち上がりも低く、上方などでは比較的厚板で枕も高く握り手の付いたものもある。また、小間板を使わずに手を添えて菜切り包丁を使って切る「手ごま」という古い時代の手法を伝えている地域も残っている。なお、小間板が使われるようになった時期はわかっていない。現在私たちが使っている刃が柄の真下まで伸びた(柄が刃の中心付近まで侵入した)形状のそば切り包丁も同様で、はっきりした時期はわかっていない。
ko33  小麦の自給率 日本の穀物自給率は29%前後と極めて低くそのなかでも小麦は13%である(2014年)。また小麦は、パンや麺類、菓子用など多くの用途に使われているが、例えば、パン用は強力粉、中華麺は準強力粉であり、うどん用には中力粉、菓子類は薄力粉など原料となる小麦の品種が異なる。国内産小麦のほとんどが中力粉用と薄力粉用で主としてうどんなどの日本麺に使われている。
ko34  米の自給率 米の自給率は100%、ただしこれは主食用米に限定した場合で、加工用米を含めた米全体でみると96~97%となっている。他に関係するものでみると小麦が12~13%、ソバが~23%~で、穀物自給率は28~29%前後と極めて低い。(2013~2014年)
ko35  米焼酎 「米焼酎」の代表は、熊本の球磨焼酎が有名で、熊本県南部の人吉盆地(人吉・球磨地方)で生産される。薩摩の隣国にありながら、米に恵まれた球磨地方の相良藩の伝統がいまに残したものである。
「麦焼酎」の発祥といわれるのは壱岐焼酎であり、伝統的な本格焼酎となるともともと南九州の地酒であった芋焼酎である。「蕎麦焼酎」の歴史は案外浅い。昭和48年に宮崎で開発され、都市部を中心に広がった。高千穂など奥日向での生産が多かったが、いまでは他県でも多くの銘柄が生まれている。
ko36  米蕎麦 ①粒食での米そば。 現在、ソバの食べ方は、麺類など粉食が主流だが、粒食ではそば米または米そば、剥きそばといってソバの実を料理する。ソバの実(玄ソバ)を煮て塩を加え、乾燥させて殻を崩さずに脱穀したものを米に見立てて、そば米雑炊やそば粥、またはそば米の吸い物などにする。有名なのは徳島県三好郡東・西祖谷村の郷土料理であり、山形県庄内地方ではむきそばは祝い事には欠かせない。
②江戸期のソバの品種。 江戸時代には、地域ごとにいくつかのソバの品種(いまでいう在来種)が栽培されていることが多く、そのなかの一品種として「米そば」を栽培していた地域があった。具体的には、江戸時代中期の諸国産物帳のなかで「米そば」の記録は、水戸領産物留、尾張国産物、和泉産物、紀州産物帳、出雲国産物帳、長門産物名寄、筑前国産物帳に記載されている。品種としてのソバの特性はわからないが、当時としても粒食に適した植物的な特性をもって名前を付けていた可能性も否定できないが、現在まで記録されている在来種の中に痕跡を残すものはなく忘れ去られたソバの品種といえる。
ko37  コリン コリンは、そばに含まれる有効成分のひとつで、肝臓に脂肪がたまるのを防ぐ効果があるといわれている。
ko38  御用蕎麦司 京菓子とそば屋を営む京都の老舗「本家尾張屋」は創業五百四十余年の「菓子司」で、江戸時代に「御用蕎麦司」をつとめている。 この場合の御用蕎麦司は、(京都)御所に手打ちのそばを届け、ときにはそばをつくりに伺うという、いわゆる宮内庁御用達のそば打ちをつとめたことになる。 この店の栞に書かれた内容を受け売りさせてもらうと、『寛正6年(1465)に菓子司として創業し、いつの頃からかそば処としても京の町衆に親しまれるようになった。その後、そばが有名になって、由緒ある寺院や宮家からの注文がふえていった。本願寺からは「五色そば」の注文があったり、宮中にそばをつくりに行くこともしばしばであった。』とある。
ko39  こんにゃくそば こんにゃく麺にそば粉を混ぜ込んだ「こんにゃくそば」が、山形や群馬で商品化されている。いずれも、そば粉にこんにゃくを練り込んだ変わりそばとはいい難い。 NHK 連続テレビ小説「おひさま」では昭和20年(1945)敗戦前後のそば屋が舞台になっている。この時代はそば粉や小麦粉は入手できず、昭和21年の大晦日用に蒟蒻の麺をつくって年越しそばの代用とする。あるとき、少しのそば粉を入手したが、そばを打ったのでは多くの人に食べてもらえないので、やむなく、こんにゃく麺にそば粉を混ぜて打ち、少しでも大勢の人に「そばの味」を味わってもらおうと考えたそうだ。
ko40  昆布切り
  黒切り
「小堀屋秘伝書」には、「黒切」とあって「こんぶ黒やきにして」とのみ書かれている。従って、そば粉を使った変わりそばなのか、割り粉(小麦粉)の変わり麺なのかは判然としない。ただ現在、千葉の小堀屋本店では、粉末にした昆布をさらしな粉に練り込んで、真っ黒で艶のある変わりそばを名物にしている。*小堀屋秘伝書の項参照
     
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