[ か ] - そば用語の解説一覧 
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ka 1  開化南蛮 そば屋の定番メニューの鴨南蛮は文化年間(1804~18)の江戸で売り出され、江戸時代末期になると穴子南蛮や親子南蛮が登場する。明治9年になると文明開化で流行りだした牛鍋をそばに取り入れた開化南蛮までもが出現したが、一時的な現象で長続きはしなかった。
ka 2  貝切り 貝柱といえば、昔は平貝(たいら貝、タイラギ)か青柳の小柱で、これらのすり身をさらしな粉に練り込んだ変わりそば。通称「有楽町更科」の藤村和夫元4代目主人の記録によると、平貝を生のまま下ろし金でおろし、粉の一割ほど混ぜ込むとある。
ka 3  開田村(誌) 五穀とは、米・麦・粟・豆とキビまたは稗が一般的であるが、五穀から米が外された地域がある。長野県木曽開田村は昔から高原ソバの産地として有名であるが、この地域に遺る江戸期の「開田村誌」に、享保9年(1724)の地検には水田の記載がない。ここでは米が出来ず稗・豆・粟・キビ・ソバが五穀であったし、同じ信州の川上や戸隠などの山村でも、ソバが五穀の筆頭であった時代もある。
ka 4  貝柱 そばの場合の貝柱はアオヤギ(江戸での呼称はバカガイ)の小柱のこと。かけそばの上に海苔を敷き貝柱を散らした「あられ」、「貝柱のかき揚げ」を浮かした天ぷらそばなど。
ka 5  かいもち 掻い餅で「そば掻き」のこと。そば粉に熱湯を加えて練り上げる。または、水を加え加熱しながら練り上げる。そば粉と水の量が同量が良いとされるがそれぞれの好みで、少し水が多いと掻きやすい。粉食の方法としては最も単純で古くから各地で行われ、その食べ方も呼び方も各地それぞれである。
ka 6  返し 一般に、そば汁を作る際の元汁のことで、これに「だし」をあわせて「そばつゆ」などを作る。醤油と砂糖を合わせたもの、または、味醂を加えることもある。なお、この「返し」を作ることを「とる」という。「返しをとる方法」は、醤油と砂糖を合わせて加熱する場合を「本がえし」、醤油に水で溶かした砂糖を加えて加熱しないものを「生返し」、砂糖を溶かす分だけの醤油を加熱して、それを醤油に入れる方法を「半生返し」という。いずれも、とった返しは「ねかす」ことによって角をとってまろやかにし、劣化を抑える効果もあるという。また、返しをとる方法や寝かしの期間などは店それぞれで、初めから返しを使用しない場合もある。
ka 7  替え玉 昭和30年頃、福岡の魚市場が長浜に移設されたことから長浜ラーメンが有名になり紅生姜を乗せ、その後、「替え玉」の仕組みも出来ていった。白濁豚骨スープの博多ラーメンで、ラーメンの麺を食べ終えて、新たに替玉を注文して残したスープに麺だけを入れてもらう。
ka 8  価格説
 二八そばの語源
二八という言葉の語源については江戸期以来議論されてきたがいまもってわからない。主たる二説は「掛け算の価格説」と「粉の配合割合説」で、どちらも単純で分かりやすい反面、矛盾点や問題点も分かりやすいという難点もある。十六文=2×8(ニハチ・ジュウロク)は理解しやすいが「二八」という言葉の出現は、享保年間(1728頃)といわれ、そばやうどんの値段は六~八文の頃だった。
ka 9  カキそば 新鮮なカキにさっと火をとおし、温かいそばの上に乗せた種物。例えば、釧路のそば屋ではプリッと太った大きなカキをいくつも乗せていたが、他に、東京の下町には綿実油でカキの表面を焼いてそばに乗せた牡蠣そばを冬季限定で出す老舗のそば屋もある。
ka10  掻き玉 鶏卵うどんともいう。片栗粉か葛粉でかけ汁にとろみをつけ、玉子を溶き入れた種物、すなわち、「あんかけ」と「玉子とじ」を合わせたような種物(かやくうどん)。そば屋では、そばを台にする場合もある。薬味にはおろし生姜が好まれる。
ka11  かけそば 「盛りそば」に対して「かけそば」。温かいそばのことで、茹でたそばを器(どんぶり)に盛り、熱いそばつゆをかけたもの。元々は、元禄の頃(1688~1704)に深鉢に入れたそばに汁をかける「ぶっかけ」と称する冷がけが現れたのが始まりではとされている。その後、寒い季節には、茹でたそばに熱い汁をかける「かけそば」が流行りだした。
ka12  かけ汁
   かけつゆ
温かい「かけそば」用のつゆで、関東地域ではあま汁(甘汁)ともいう。返し(元汁)を使う場合は、「返し」1に対し「だし」8~9を合わせる。辛汁(もりやざるに使うそばつゆ)をベースにする場合は「辛汁」1に対し「だし」2に合わせて作る。ただし、地域や店によって、または家庭では返しを使わない場合も多い。
ka13  嘉元記
 (うどん・初出)
「うどん」と「麩」の初出。奈良・法隆寺の史料「嘉元記」正平7年(1352)の「三肴毛立、タカンナ、ウトム、フ、サウメマ、一折敷・・・」という記録で、法隆寺西室の三経院で酒の肴とともに竹の子やうどん、麩など・・が出されたとある。素麺という文字の初見はこれより少し早く康永2年(1343)八坂神社の「祇園執行日記」である。
ka14  柏崎日記 江戸後期、桑名藩下級武士の父と越後柏崎飛び地領に赴任中の(養)子が交わした生活の交信日記。桑名では年越しそばはそば屋に食べに行く様子があり、一方、年越しそばの風習の無かった柏崎からは、天保10年(1839)「大晦日にそば切りを買いに遣わしたが、そば切りなど一切無之よし」「これまで御陣屋内にて大晦日にそば切りなど食べ候者は無之」とあって、三重・桑名の年越しそば風景と、年越しそばの風習が無かった新潟・柏崎について書いている。「桑名日記」と「柏崎日記」から。
ka15  柏原
  一茶の故郷
小林一茶の故郷は信濃国水内郡柏原村で、黒姫山(2053m)の麓の雪深い里である。この地域は、良質のソバが穫れることでも有名で、十五才で江戸の奉公に出るまでの一茶は、秋にはあたり一面に咲く白いソバ畑を見て育った。五十歳で再び故郷に戻り文政10年(1829)六十五才の生涯を終えている。一茶の発句(俳句)はおよそ二万句とも言われ、その中に33句とも35句ともいわれる蕎麦を詠んだ句を残している。
ka16  ガシカコイ 凶作のために準備した食物をガシカコイといった。(福島県田村郡滝根村ほか)。籾は14・5年ないし30年ぐらいの貯蔵品は食えた。ソバは、殻のまま貯蔵すれば、いつになっても役に立つので凶作の備えにそばを置けと伝えた。ソバノガシカコイという。ガシは飢饉のこと。
ka17  菓子司
 御用蕎麦司
京都では御所や公家などに納める菓子司。京菓子とそば屋を営む京都の老舗「本家尾張屋」は創業五百四十余年の「菓子司」で、江戸時代に「御用蕎麦司」をつとめている。 御所に手打ちのそばを届け、ときにはそばをつくりに伺うという、いわゆる宮内庁御用達のそば打ちをつとめたことになる。この店の栞を受け売りすると、『寛正6年(1465)に菓子司として創業し、いつの頃からかそば処としても京の町衆に親しまれるようになった。その後、そばが有名になって、由緒ある寺院や宮家からの注文がふえていった。本願寺からは「五色そば」の注文があったり、宮中にそばをつくりに行くこともしばしばであった。』とある。
ka18  河岸物
   ソバ
江戸時代中期以降、江戸では多くのソバが消費されることになり、近郷で収穫されるソバの他に、信州、甲州、武州から馬で運ばれてくる「山物」と、下総、上総、相模など船で運ばれてくる「河岸物」があった。山物は中野周辺のソバ製粉業者に運ばれ、河岸物は深川・佐賀町の問屋筋へ陸揚げされたそうだが、山物の方が良質とされて一割ほど値段も高かったという。
ka19  かすうどん
 かすそば
「かすうどん」はもともと、大阪・南河内の地域で食べられていた牛の小腸など内臓(ホルモン)をじっくり揚げた「油かす」を乗せたうどん。ホルモンをじっくり時間を掛けて揚げることで余分な油が抜け、表面はカリカリ、中はやわらかい独特の食感になる。大阪はじめ他の地域でもこれを出す店が現れ、そばとの相性も良いので「かすそば」もある。
ka20  数の謎解き
 二八語源の迷路
これまでは「二八」の語源を考えるにあたって、あまりにも、二八そばという「そばにかかわる数の謎解き」にこだわってしまい、当時の世相や庶民文化が持っていた別の側面を見落としてしまったのではなかろうか。「二八」の謎解きのつもりが「二八そばの数の謎解き」をしなければならないという意識が先に立ってしまって結論の出ない迷路にはまり込んでしまったのではなかろうか?
ka21  数の符丁 大坂で有名な「符丁」は、魚市場「雑喉場(ざこば)」や魚屋が使った符丁で、一説に豊臣秀吉から教わったとされる「1から9」までの数の符丁である。雑喉場のセリにはすべて「さ り と わ お も し ろ い」の符丁が使われた。一方、青物市場の場合は梅桜松竹で、「む め さ く ら ま つ た け」であったという。「符丁」は客など第三者には分からないように値段や合図などを「隠語」にしたもの。「通し言葉」は店内用語を符丁も交えながら簡略化して客の注文を調理場や作業場に伝達する役割を持っている。
ka22  風邪をひく 昔から「そば粉は風を嫌う」といって、劣化したそば粉は「風をひいた粉」という。そば粉の保存についての心構えを言ったもの。そば粉が空気にふれていると香りや風味がなくなり湿気を含んで悪化するので注意を要する。
ka23  片倉康雄 栃木県足利「一茶庵」創業者。そば打ちの指導に貢献し、多くの弟子やそばの人材を輩出した。
ka24  かちん 香ばしく焼いた餅が二つばかり入った種物。香ばしくて熱いつゆと合う。大坂の麺類処の張札(値札)では、うどんもそばも共に16文、あんかけ18文、かちん24文、おだ巻きむし38文などとあるので、おそらく江戸時代後期に登場したのだろう。「カチン」は江戸時代の女房言葉で「餅」のこと。「力うどん」「力そば」。大阪のお蕎麦処「道頓堀 今井本店」の「かちん」には香ばしく焼いた餅が入るかけうどんに細く切った青ネギ以外は入れていなかった。「かちんそば」もある。*「力うどん」の項参照
ka25  金砂郷 金砂郷村(現:常陸太田市)。金砂郷在来種から選抜飼育した常陸秋ソバが有名になった。江戸時代から久慈郡・金砂郷村や水府村一帯の玄そばが有名である。
ka26  鹿屋在来種 鹿屋在来種は鹿児島や宮崎など大隅半島一帯で古くから栽培されてきた小粒ソバの在来種である。九州は他にも、大分の波野在来種、長崎・対馬には対馬在来種の対州そばがある。
ka27  鹿家 蕎麦 九州には在来種のソバは多いが、さらに調べると、佐賀県唐津市の「唐津市史 近世」によると、享保6年(1746)唐津藩で伝わる松浦雑記のなかに松浦名物があげられていて、そのなかの農産物に「鹿家 蕎麦」と書かれ、この地域でもソバが栽培され特産になっていたことが窺える。また、「若宮田川づくり交流会のサイト・犬鳴川流域における農水産物史考」のなかで、福岡県北部の宮田町と若宮町は遠賀川にそそぐ犬鳴川流域では江戸時代後期から明治前期にはほとんどの村で蕎麦が産したと記録されている。(両町は06年2月から若宮市に)
ka28  釜揚げ 茹でたての熱いままの麺で、茹で汁も添えてだす。つけ汁で食べる。一般にはうどんの場合が多いが、そばもある。一方、釜揚げをせいろに盛った熱盛りもある。出雲のそば屋では、「割子そば」の他に「釜あげ」も出していて、茹でたての十割そばをそば湯と一緒に盛り薬味をのせ、割子のだし汁をかけて食べる。
ka29  釜前 そばを茹でる職人のこと。そば屋にも大店が現れると、仕事の分業化がすすみ職制ができてゆく。そばを打つ役割の「板前」、釜を担当して茹でや盛りの「釜前」、種物や汁を整える「中台」、客の注文を聞いて調理場に通す「花番」、「外番(出前)」などである。以上はそば屋の職制での釜前だが、素人のそば打ちやそばの活動でも釜前の役割は重要である。ともすると「そばを打つ」ことだけが重視されがちになるが、「そばの茹でと盛り付け」が揃ってこその美味しいそばである。
ka30  鴨南蛮
 (なんば なんばん)
南蛮の代表格である鴨南蛮が最初に売り出されたのは文化年間(1804~18)の江戸で、その後、江戸時代末期になると穴子南蛮や親子南蛮が登場する。どういう訳かこの「南蛮」の読み方には東西の違いがあって、東では鴨なんばん・カレーなんばんなど「なんばん」、西の上方では鴨なんば・カレーなんばと言って「なんば」である。もっとも「鴨南」「鳥南」など略した場合は「かもなん」「とりなん」で東西どちらも同じであることは言うまでもない。
ka31  かやく 上方では、そばやうどんに数種類の具をのせたのを「かやくそば(加薬蕎麦)」「かやくうどん」という。少し豪勢になって椎茸や蒲鉾、鶏肉、焼き卵、ほうれん草、海苔などを豪華に入れたのを「しっぽく」(うどん台が多いがそばも)という。関東では「かやく」と言わず「種物」である。もともとの「かやく」は、飯(五目)や麺に乗せる具や薬味のことでもある。
ka32  粥卜(かゆうら) 粥を用いてその年の天候や作物の豊凶など吉凶を占う年占で、各地に分布する。神社の祭礼で多くは小正月に神にあずき粥を献ずるときに行う。享和元年(1801)刊行の「河内名所図会」では、牧岡神社の粥卜という占穀の祭事の「御粥占祝詞」には、赤ごま、まめ、いも、もちきび、そばなどが記録されている。今の東大阪でもソバが穫れたことがわかる。
ka33  辛汁 関東地域で使われるそば汁の用語。冷たい「もり」や「せいろ」のつけ汁用に使う濃い汁のこと。普通は、「返し 1」に対し「だし汁 3」に薄めた程度の濃さが目安とされる。これに対し「甘汁」は、温かい「かけそば」や「種物」にかける薄い汁のこと。それぞれ店によって加減や工夫をする。*甘汁の項参照*返しの項参照
ka34  辛味大根 そば切りの食べ方の初期の記録から大根のしぼり汁が登場する。蕎麦全書にも「蘿蔔汁至極辛辣のものを用ゆべし(大根汁は至極辛いのが良い)」とあって辛い大根がそばに合うとされて重用されてきた。辛味大根の多くは、肉質が硬く水分が少なく、大根の辛味成分を多く含む品種である。それらは、在来種の古い地大根に由来するものや、細々と自家栽培で伝えられてきたもの、さらには野生種を選抜育種したものなど、地域それぞれの特性や独自の個性を受け継いできたものが多い。現在は辛味大根の品種は多いが、江戸期に各藩が幕府に報告した産物調べでは、一部の藩にのみ「からみ大こん」または「鼠大根(祢つミ大こん)」を産すると個々の品種として報告しているので、この時代「辛い大根の総称」としての辛味大根はなかったようだ。
ka35  辛味成分 アリルイソチオシアネートまたはイソチオシアン酸アリル。大根の辛味成分は、ワサビ、カラシ、などアブラナ科の植物に含まれる化学物質(芥子油)である。辛味大根は皮付きでおろすと辛味が増し、あまり時間を置くと辛みが減少する。
ka36  からみそば 大根おろしで食べるそば。福井や武生の「越前そば、越前おろし蕎麦」小浜では「からみそば」など。*「越前そば 越前おろし蕎麦」の項参照
ka37  軽口初笑 享保11年(1726)京都で刊行された笑話本。「時そば」の元になったのは上方落語の「刻うどん」を江戸に移入したもので、さらにその原話が「軽口初笑」のなかの「他人は喰い寄り」にあるという。江戸時代には、短い笑話集や軽口本などがたくさん発表されている。
ka38  カレー南蛮 国産のカレー粉は大阪の薬の街・道修町で薬用スパイスから考案された。カレーライスが一般に普及するようになったのは明治20年代後半で、それを大阪・谷町の「東京そば」の主人がそばに合うカレー粉に工夫して、カレー南蛮として大阪で売り出したのが明治42年だとされている。大阪ではたいそう人気が出て繁盛したが、その後、東京ではなかなか受け入れられなかったが、大正になってようやく普及するようになった。
ka39  河漏 「かろん かろう」。言葉の背景に、江戸時代から「そば切りはいつどこで誕生したか?」という議論が盛んであった。 享保19年(1734)刊行の「本朝世事談綺」によると「もろこし(中国)」の河漏津という港の名物になっているそば麺とする。そしてこれが日本のそば切りだとしている。ただ、中国をふくめこれを裏付ける事柄はみあたらない。「蕎麦切  中古二百年以前の書、もろもろの食物を詳に記せるにも、そば切の事見えず。ここを以て見れば、近世起る事也。もろこし河漏津と云船着の湊の名物、茶店に多これを造る。よって河漏と云。是日本のそば切の事也。・・・」とあって、二百年遡っても蕎麦切について書いた書物は出てこなかったとして支持された一時期があった。これが「河漏(かろん かろう)」という言葉の出典である。 ただ、この説に対しては実態がよくわからないという見方が大方であり、この地名については中国でも見当たらないともいう。一方で、この説がもとになって河漏はそば切りの事だとする書物や事例はいくつも残っている。*本朝世事談綺の項参照
ka40  瓦そば 山口県下関市豊浦町の川棚温泉発祥の瓦そば。焼いた瓦の上の茶そばに牛肉、錦糸卵、海苔、もみじおろし、レモンなどを乗せている。九州では熊本・阿蘇から大分・湯布院へ行く途中のたしか水分峠のレストハウスだったと記憶するが、焼いた瓦に茶そばを載せ肉ののった「瓦そば」があった。
ka41  川口屋蒸蕎麦 大坂伏見町の名店、菓子店で蒸し蕎麦も売っていた。井原西鶴の「好色一代男」(天和2年1682)や「好色一代女」(貞享3年1688)にも登場し、「守貞謾稿」には「鶴屋のまんじゅう、川口屋蒸蕎麦、椀屋の蒲鉾・・・」と、元禄の頃(1688~)からの名店・大坂川口屋の繁昌振りを書いている。
ka42  河内名所図会 江戸時代後期に流行した地誌「五機内名所図会」のなかのひとつ。
大坂シリーズとしては、「河内名所図会」享和元年(1801)刊のほかに「摂津名所図会」、「和泉・・」、「住吉・・」がある。名所の由来記と挿絵が多く地誌兼観光案内書。
ka43  変わりそば 「さらしな粉」は色が白くそば粉の特性が少ないので、様々な混ぜ物をして打つそばに適している。色を楽しむ場合は「色物」といったり、混ぜ物の特徴の味や香りを打ち込んだものを「変わりそば」という。江戸中期あたりに登場して工夫を凝らし、句会の席や雛祭り、京都では寺社からの注文でも打たれた。 卵、柚子、抹茶、けし、ごま、よもぎ、エビ、・・・など五十種以上という。卵切、柚子切、茶切(茶そば)、芥子切、海老切・・・など。
ka44  寛永通宝
 と蕎麦の値段
二八そばが現れた頃のそばやうどんの値段は六~八文。その頃の通貨は寛永通宝の1文銭だけで6枚とか8枚で支払っていた。その後、明和5年(1768)に4文銭が登場する。このあたりを観察すると面白いことに気付く。4文銭が登場したあたりからのそばの値段は12文に始まって申し合せたように16文がベースになっている。1文銭を十数枚かぞえて払うよりも、4文銭を三枚とか四枚、または4文銭に1文銭を交えた少ない枚数で払われることの方が多くなっていったのだろう。守貞漫稿の上方と江戸の品書きに目をやると、基本形の16文の他に、具を乗せた種物(加薬)では、あられ・しっぽく・花まきなどは24文、天ぷら・玉子とじなど32文、(鴨や親子)南蛮・小田巻は36文、上酒(一合)40文、御前大蒸籠48文、など4の倍数が多くなっている。
ka45  寒晒そば 玄ソバを寒中の清流に一週間ほど浸けたあと、天日と寒風に晒して乾燥させたソバの実。またはこれを挽いて打ったそば。記録では、信濃・高遠藩の享保7年(1722)の将軍家への献上物の書状に「寒晒蕎麦」があり、信濃・高島藩(諏訪藩)には寛政元年(1789年)「暑中寒晒蕎麦」として献上している。寒晒しによって暑中までソバの風味が保たれるともいわれる。
ka46  かんすい 鹹水(かんすい)。中華麺やワンタンの皮などに特有のこしや風味を出すために加える食品添加物で、麺の色合いも出るアルカリ塩水溶液のこと。 もともと中国では天然のものが使用され、日本にも輸入されていたが現在ほとんどすべてが化学的合成品から作られている。*沖縄そばの項参照
ka47  神田・藪蕎麦 神田淡路町にある薮蕎麦本店の看板をあげる「かんだやぶそば」。(そばもやしの青汁を打ち込んで)青みがかったそばは明治13年といわれる創業以来の特徴。店内ではいまも「通し言葉」を使っている。*関東大震災(大正12年)の直後に建てられたという木造店舗は、都の歴史的建造物に選定されていたが平成25年2月の火災で焼失したが、その後平成26年10月新店舗で再開した。
ka48  乾麺 生麺を乾燥させたもの。生麺よりも保存性がたかいが、一般に、風味は劣るといわれることもある。JAS規格では「小麦粉、そば粉又は小麦粉若しくはそば粉に大麦粉、米粉、粉茶、卵等を加えたものに食塩、水等(かんすいを除く)を加えて練り合わせた後、製麺し、乾燥したもの」とある。
     
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