そばの歴史・そばの文化 < サイトへ

棒手振り 蕎麦・うどん売りの風景

 初期の頃のそば切りの記録は、寺社などの振舞いとして登場することが多かったが、ひろく普及していくにしたがって商いとしてのそば切りが登場するようになっていく。
やがて、江戸時代の中頃からは店を構えたそば屋が市中に登場するようになり、そば屋の軒数も増加していく。

 一方でこの時代は、店を張らずに広く町中で商売(あきない)をする物売りが繁盛し、そば切りやうどん売りは勿論のこと、野菜売り・魚売り・飴売り・甘酒売り・水売り・氷売り・すし売り・〜といった食べ物や薬類・小物・道具類 などさまざまな物を売り歩いた。
その姿は、江戸時代から明治の頃まで続き、職種によってはほんの少し前の昭和の時代までどの町でも見られた風景であった。
そのほとんどは天秤棒の両端に荷を付けて担ぐか、肩に担ぐ、背負う、頭上に乗せるなど、さまざまに荷を運ぶ姿が各所で行き交った。
天秤棒を担いで物を売り歩くのを、棒手振(ぼてふり)とか振り売りとも言うが、そばうどんも天秤棒に担がれて売り歩かれたのである。
 天秤棒で売り歩くのを棒手振(振り売)りという
   守貞漫稿:(大坂唐辛売り)
  やがて屋台が登場する
   
     (京坂温飩屋)
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   風鈴そば屋台
     (忠臣蔵前世幕無:風鈴そば屋台)


 貞享3年(1686)の江戸では、防火のためにうどん・そば切りの夜売りを禁ずるという御触書が残っていることからも、この頃にはすでに天秤を担いだ夜売りが盛んに出現していたことが分かる。大方は夜売りであったので夜鷹そばと呼ばれ、上方では、そばとともにうどんも売るので夜鳴(夜泣き)うどんといわれ繁盛した。
 夜鷹そばは、「かけそば」専門で、その扱いも不衛生であったといわれるが、宝暦(1751〜64)の頃になると、屋台に風鈴をつけ、鳴らしながら担ぐ風鈴そば売が登場している。 器なども清潔な物を使って「しっぽく」(かやくの一種:具をのせたそば・うどん)などの種ものも扱うようになっていった。 
 落語に、夜鷹そばを種にした小咄があって、夜中に腹を空かして家に帰ったそば売りが、女房から「荷のそばを食べればいいじゃないか」と言われて、「こんな汚ねえものが食えるか」と言う。当時の夜鷹そばがよくわかる咄である。
 明治へと時代が移っても、初期の頃は江戸時代と同じ棒手振りの屋台が主流であったが、中頃になると屋台の下に車が付くなど荷車の方へと時代が移って行く。

鍋焼きうどん売り」
 鍋焼きうどんは、幕末の頃大坂で流行し、明治の初めに東京にも伝わった。
元治2年(1865)に、大坂で上演された「粋菩提禅悟野晒(すいぼだいさとりののざらし)」という芝居の中で、四天王寺山門前で夜鳴きうどん屋が、鍋焼きうどんの流行の様子を客に話している台詞が出ている。
また、明治13年に、東京・新富座で上演された河竹黙阿弥作の「島鳰月白波(しまちどりつきのしらなみ)」のなかで、夜鷹そばの売り手が少なくなって、鍋焼うどんが増えていると話す夜そば売と客とのやりとりが台詞となっている。

【明治物売図聚 三谷一馬著 立風書房】116頁 「なべやきうどん売り」のなかで、明治38年「太平洋」から引用した文があり「看板の行燈へ、当り屋とか千歳屋とか延喜の好ひ名を記し屋台の上へ今戸焼の焜炉(こんろ)二個を添へた荷を貸す饂飩問屋がある。これで屋台を借りて売子となったら、何時でも鍋焼饂飩屋となれるのだが・・・」「之を借入れても、付属品の汁注ぎ薬鑵 行平鍋 箸 箸入れ・・・雑具は売子の自弁」
また、「普通の鰹節と上等醤油で汁を塩味にして・・・上等に食わせるには、汁と種に存外費用が嵩むもので、夫に夜業だから石油と炭に追はれ・・・」てたいへんだが、そこそこの稼ぎにはなるので、「農業の閑を見て、例年遠国から態々出稼に来ることになって居る。」
云々とあって、当時流行った鍋焼きうどん売りの様子などがよく分かる。また売り子の装束などは、外見上では江戸時代の夜鷹そば売とあまり変わらなかったようである。

 なお、この本(118頁)には、大阪の行商のうどん屋「うどん玉売り」と、東京の「ゆで出しうどん売り」についても書いていて、この中に「うどんは東京の品よりも一段と風味よし。そのかわりそば切りの味は美ならず」とある。
また、「風俗画報」(明治39年346号)の「大阪商人の呼売」を引用して、「うどん玉売 是はうどんを箱に入れて肩にし夕刻うどんの玉宜しと云って呼び歩くもの」と、当時の様子を描写している。
「鈴のひびき高く、屋形荷を先頃まで肩にせしを、近頃車にて引くやうなりぬ。」
『そば、うどんー』『あんかけなんばー』荷物の屋根は白紺の市松張に横掛行灯を灯す。これに流行の俳優の名と定紋をかかぐ。愛顧客そのヒイキなるを好みて買い行く。夜明街頭を歩くとて往時めあかし役人などこれに混ぜしと、印袢天に紺股引、手拭を宗十郎かぶりにて、ちょっと意気なる粧ひ、廓遊郭にて別て夜は賑へり。そば売りの主人常にいふ盗賊と素見客で世を送ると」。
多少長い引用文になったが、この中には、当時の行商のそば売りについて詳しく描写されていて、意外に粋な装いであることと、初めて車が四輪ついた屋台が登場している。
四輪の車の付いた屋台
太鼓やラッパを鳴らしながら屋台を曳く
なお、同じく121頁に風俗画報」の明治40年前後の、「京都の夜泣きうどん」の記述と図があって、「深夜の辻に・・・夜泣きうどんの鈴か、太鼓の耳に入るべし。・・・又ラッパもあり」とある。帽子に長い丈の外套と足袋は黒で統一され洋装風か。 「屋台店を曳きうどんそばの熱きを得意とす。」
大きな輪の二輪で、車軸には両端には屋台を支える鋼鉄のバネが付いている。
関西一帯の夜泣きうどん売りの様子だったそうだ。

 これらは店を張らずに、棒手振りの屋台から始まったそば・うどん売りの風景であったが、大正・昭和と時代が替わっていくなかで、そういった物売の姿を見ることが無くなり、最近ではテレビや芝居のセットでしか見られなくなってしまった。