二八そば・語源の謎  < 次へ < サイトへ

「逆二八説」の論拠となるそばの実態があったこと  

 「逆二八説」とは、そば粉が二割だとする配合割合説である。そば粉が八割でつなぎ粉が二割なら、主原料の八割が先で「八二」と表現されるべきであるのに、「二八」となっているのは、そば粉が二割で小麦粉が八割だからとする説。
これに対しては、肝心のそば粉が二割しか入っていなくて小麦粉主原料のような(粗悪な)そばは不自然だと決めつける風潮もあって議論の主流になり得ていない。

 そば切りは、江戸時代の初期くらいまではすべてそば粉だけで作る生粉そばだった。その後、そばをつなぎやすくする工夫の中から小麦粉を割粉として混ぜるようになった。これが「そば(切り)」の通説となっている。
つまり、そば粉だけの「生粉そば」(十割そば)のほかに、割粉を二割とか三割、またはそれよりも多く入れて打つそば切りも作られるようになったのである。この過程では、あくまでもそば粉が主役で割粉(つなぎ)は脇役だから、割粉(小麦粉)を多く入れて作ったそばは、どうしても、そばとして軽視(蔑視)されるがごとき風潮があって、ときには「駄そば」などに分類されたりする。
だから、せいぜい同割(そば粉と小麦粉が同率)あたりが限界で「そば粉以上に小麦粉を多く入れる」のはそばにあらずというような錯覚を与えてきたのである。
 ところが、うどんやそばの普及過程を振り返ると、先ず小麦粉で作る(素麺や)うどんの歴史が長く続いていて、その後発としてそば切りが作られるようになった。
うどんやそばの商いの歴史を江戸に限って見ると、初めは(少なくとも江戸時代の半ばくらいまで)うどんが全盛で、そば切りが徐々に広がった経緯があり、その後にそばがうどんを逆転している。
 初めはそば粉だけで混ぜものなしのそば切りで始まって徐々に割粉(小麦粉)を混ぜるそば切りが普及していったように、(塩以外混ぜものなしの)小麦粉だけで作っていたうどんにも、徐々にそば粉を混ぜて打ってみる「そば粉混じりのうどん」が作られるようになったとしてもなんら不思議ではないと考えられる。

 「二八そば」という言葉が出現したとされる享保13年(1728)の頃より20年ほど後の寛延四年(1751)脱稿の「蕎麦全書」は、この時代では唯一といえるそばの専門書である。
 著者の日新舎友蕎子は自らもそばを打ち、「手製蕎麦家法」の冒頭に「手前にては挽抜そばといふ上物を用ゆ」「そば粉を用ひて手製する時は、随分吟味して小麦粉のまじりなく、至極上々の御膳粉と云ふを用ゆべし」などと書いていて、自分自身がそばを打つ場合の心得として、そば粉は「挽き抜き蕎麦という上物を挽いて」使うか、脱穀した「挽き抜き」が手に入らない場合は粉屋(そば製粉屋)が小麦粉を混入していないそば粉を充分に吟味した上で最上級の御膳粉を使うようにしている。とある。
このように自らは「混じりなし」のそば粉で作る蕎麦にこだわり、市中の蕎麦切屋のそばが、小麦粉の割が多い現状を嘆いている箇所があって、いかに割粉(小麦粉)を多く入れたそば屋が多かったかがわかる。
ただ、時代は江戸中期であり、蕎麦切屋(そばが主の店)と、麺類屋(うどんも多く扱う店)が分化していく時期でもあったと考えると、以下の抜粋箇所の麪店家」とあるのは後者の麺類屋の実態だったのかも知れないのである。

 引用が長くなるが、蕎麦全書に書かれている内容はおよそ以下の通りである
@江戸中蕎麦切屋の名目の事」  「予按ずるに、そばは近代の製といへども、今にては食中日用の佳品となれり。夫故、当時上下の隔なく発向して大きによろしく、専ら盛になれり。」・・・・の書き出しに始まり各店の名目を紹介しているところに・・・・・「比ごとく色々の品あり。逐一挙がたし。只其大概を書出す也。」「右の通そば色々の名目はあれ共、麪店家の蕎麦はとかく小麦粉をまじへ、其製よろしからず。手前にて念を入能製したるにあらざれば、真のそばとは云がたし。そば好寄なる人いかがおぼすらん。」
A「雑小麦麪煉」 「昔よりつなぎと称して、そば斗りは製しがたしとて小麦麪をいるる事になりぬ。わけて麪店家にてはそばに小麦の粉を入るるにあらず、小麦粉にそば粉を加へ入るる様になりたり。是を常とす。麪店家の蕎麦を食して善悪を云事いとおかし。・・・」
B「蕎麦切屋のそば小麦粉を入る割の事」のなかに 「 或る人の談に、麪店家のそば、通例小麦粉四升にそば粉一升を入るる也。四分一の割也。予、先年聞ける事あり。神田須田町伊勢屋茂兵衛と云穀物屋有り。そばを多く商ふ。出店に麪店家を出せり。彼人云、頃日は蕎麦をよくせり・割を多く入三分一にせりと。予問て日、そば三分にうどん一分なりやといへば、左にあらず。小麦三分にそば一ッ分入るるとなり。比談と相合す。今そば屋と云はじして、うどん屋と唱ふるは、うどんを多く主に遣うゆえにやとおかし。」などと当時のそばの商いの実例を挙げている。

 「逆二八説」とも言われるそば粉二割だとする配合割合説は、おそらくこのような背景をふまえての主張ではなかろうか。
江戸時代の初めから中頃までは「そばよりもうどんが主流」であった時代背景を思い起こすと、あながち軽視する訳にはいかないことと、江戸がうどん主流からそば主流に変わっていく過程で「そば粉二割」が売り出されたとしても不自然ではなく、ちなみに、現在の日本農林規格では、そば粉の重量比率が三割以上であれば「そば」と表示しても良いことになっている。
さらに、「二八うどん」「二八そば」双方にも比較的無理がなくあてはまる点も悩ましく傾聴に値する説であるともいえる。

 ただ、どうしても次の二点が引っ掛かる。第一は、時代背景を考えると、二割:八割=足して粉の総量を十割と考える現在的な百分率をもちいた「二八」の不自然さである。第二は、先の項で述べたのと同様に、当時のそば粉などの計量には枡(容積)が使われていた。さらに、枡に代わる実用的な器を使うこともあるなかで「二八」すなわち八杯と二杯で計10回計量するというのにも無理があるといわざるをえないのである。

以下は「二八そば」の語源を探るテーマからは外れるが
「どれくらいの量のそばを打っていたのだろうか?」
 先にあげた「料理塩梅集」の例では粉の総量は一升三合。蕎麦全書に書かれているのは粉の総量5升と4升である。いずれも枡(ます)で量る容積なので、目方(重さ、グラム)とは異なるが、これらの数量をイメージするために現在の計量(グラム)に沿って例をあげると、素人も慣れれば1kg(1000g)〜1.5kg(1500g)くらいが打ちやすい。手打ちそば屋も店によってそれぞれだろうが1.5kg〜3kg、私の見た量の多いそば打ちは5kgであった。
なお、木鉢の作業(水回しや捏ね)は大きな(多い)量をしておいて、延しの作業は小分けするケースもあるので、蕎麦全書にある5升は実際に一度に打つ量かどうかはわからない。

「市販されている乾麺や茹麺の主原料」
 市販されている多くのそば製品(乾麺や茹麺)の現状をみると、本来はそば(麺)の主原料はあくまでもそば粉の筈で、原材料の表示も、そば粉、小麦粉の順に記載されていると思いがちだが、おおかたは原材料名が小麦粉・そば粉・(食塩)の順になっていて、どうみても主原料は小麦粉になっている。
ちなみに、日本農林規格(JAS)では、重量比でそば粉の配合率が30%以上であれば食品としての分類は「そば」となり、生めん類の表示に関する公正競争規約でも「そば」とはそば粉3割以上となっている。言い換えると70%以下の割合であれば小麦粉の方が多くても「そば」という表示で良いとされている。(乾麺の場合は、JASマーク・標準でそば粉40%、上級が50%)

「つなぎとしての小麦粉の働き」
 つなぎとしての小麦粉の働きをみると、小麦粉にはグルテニンとグリアジンという二つのたんぱく質が含まれていて、これが水と結合するとグルテンを形成して互いにつながりあうという特性を持っている。「つなぎ」はこの特性を利用したものであり、単純な言い方をすると、つなぎ(小麦粉)の量が多くなるとたんぱく質の量も増えるのでグルテンも多くなり、つながる力も増えることになる。
勿論この場合、小麦粉の持つ弾力や食感といったものがそばの風味や食感にたいして微妙に影響すると考えられるが、その度合いや評価についても微妙であり個人差もあってどう判断するかはむつかしい。

「昔のそばは黒かったのか」
 「本物のそばは黒い」という間違った先入観にも理由があった。
昔は、殻のまま挽いたソバ粉で、石臼の種類も少なく、細かく砕けた外皮も一緒に挽かれていた。篩い分けも不充分なために黒い微粉が残ってしまい、全体に黒っぽいそば粉が主流になっていた。(今は、殻を取り除いて挽かれるので総じて白っぽい粉になる。)
かつて枕に入れたそば殻と同じ外皮は、ほとんど水にも溶けず消化もしないので、当時は、そばはあまり消化の良くない食べ物のほうに分類されていたのである。

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