二八そば・語源の謎  < 次へ < サイトへ

 そば粉とつなぎ  

そば屋の看板や暖簾には昔から特徴のある字体で「きそば」とか「そば処」などと書かれたものが多い。
変体仮名の「きそば」  *左の「きそば」も下の「そば処」も昔から見慣れたそば屋の字体である。江戸時代に使われた変体仮名のひとつで、「そば」の字母は「そ=楚」と「ば=者に ゛」だが、
明治に入って平仮名が「一音一字」に統一され一般には使われなくなった。
       「そば処」の変体仮名 

「きそば」とは本来、生粉打ち(きこうち)・生粉そば(きこそば)または十割そばなどと言われて「そば粉だけで打ったそば」を指す言葉である。
「そば切り」発祥の頃から江戸時代初期くらいまでは、そば切りはすべてそば粉だけの生粉打ちだったと考えられていてそばがつながりにくく、そば切りが作りにくかった。
江戸初期の寛永20年(1643)に出された「料理物語」では「めしのとり湯 ぬる湯 豆腐をすり(すった湯)」などを使ってそばをつなぎやすくする方法や、元禄2年(1689)の「合類日用料理指南抄」ではそば粉の一部分を熱湯(よく煮立った湯)で練って糊化させ全体をつなぐ方法(友つなぎ)が書かれている。
もともとそば切りの誕生する以前から素麺やうどんがあって小麦粉はまとめやすくつながりやすい性質であることを経験的にも熟知し扱い慣れてはいたが、まだこの段階には小麦粉をつなぎとして使う手法は知られていない。

 小麦粉による「つなぎ」の初見とされるひとつは、本山萩舟著の「飲食事典(昭和33年平凡社)」のなかで、江戸の初期に奈良の東大寺へ来た朝鮮の僧・元珍が「ツナギに小麦粉を入れる」とする「割り粉」の手法を伝えたとしているが「一説には・・・」とあって出典を記していないので難点がある。

 文献として初めて小麦粉(うどんの粉)によるつなぎの記述がみられるのは江戸初期の料理書で、寛文8年(1668)に書かれた「料理塩梅集」塩見坂梅庵著の「蕎麦切方」であろう。
「第一新そばよし・・・ ・・・四季共に水にてこねる也・・・   ・・・右は冬の也 夏はそば ひね申候故 少うどんの粉 そば一升に三分まぜ こねるが能候」とあって、そば粉のひねる(鮮度が劣化して古くなる)夏にはそば粉一升に対し三分のうどん粉をつなぎに使うと良いと具体的に記している。(出典・料理塩梅集についの注釈

 「つなぎ」の役割は言うまでもなくそばを麺状に保つためにそば粉とそば粉をつなぎ合わせることであるが、そば切りが誕生してからも「小麦粉によるつなぎ」の手法が普及するまでにはかなりの時間がかかっている。
 そして、小麦粉によるつなぎの手法が普及したあとも、小麦が収穫できず入手困難であったり、高価でなかなかそばのつなぎにまで使うことができなかった地域では、かつて日常生活の極く手近にあるものを工夫し試行錯誤しながら「そばのつなぎ」に活用したと考えられるものが各地にあってそれが現在に残っている。 まさしくそばをつなぐための工夫の足跡でもあり、それらは人々の味覚や嗜好にも適して生き残った事例である一方で、相いれずに淘汰されて消えていった事例もある。
 一見、意外性のある海藻の例がある。新潟を代表する郷土そばで海草のフノリを使った「へぎそば」と対比すべき実例がある。○「ふのり」(布海苔:フクロフノリの煮汁は糊に用いる。 昔はどの家庭でも着物の洗い張りなどで使った。) 新潟・小千谷市から十日町市にかけての魚沼地方は織物の産地で縦糸の糊付けに海草のフノリが欠かせない。フノリを煮てノリ状にして打った「へぎそば」「手振りそば」は今もこの地域の名物で、大きな長方形のせいろに一把ずつ並べた盛りつけと独特の歯触り、薄く青味がかったそばの色合いが特徴である。

 これに対し、「江戸歌舞伎役者の 日記 赤坂治績著 新潮新書」からの抜粋である。
幕末から明治初期を生きた歌舞伎役者、三代中村仲蔵が書き遺した自伝「手前味噌」で、諸国の珍品や名物、食べ物の記録が多く記され、旅興行で巡った土地の様子が実録として描写されている。
そばについてもあり、慶応2年(1866)越後で興行した際の中に、六日町(南魚沼市)から船に乗り、魚野川を下って小出(魚沼市)や小千谷(長岡市)で船が岸に寄った際の様子がある。女たちが七〜八人、すし、菓子、餅などを売りに来ている。
小千谷で仲蔵は、その中からねずみ色をした蕎麦を食べた。磯臭くて聞くと、、蕎麦のつなぎに「鹿角菜(角又:つのまた)と醤粉(しょうふ)」を入れているという。紅藻類の海藻と小麦を挽いたときに出る茶色の表皮の屑が麩で、この麩を水に浸し、底にたまった粉を乾かして作った糊である。
越後では、そばのつなぎに紅藻類の海藻と醤粉を使っていた。食べる気が失せ、半分だけ食べ、捨ててしまったとある。
 先にあげた海草のフノリを使う「へぎそば」は郷土そばの代表格として現在に残っているのに対し、不味いものは淘汰されて消え去った典型的な例であるといえる。

 その他、現在に残る、または記録に見られる特徴的なものを下記しておいた。
○卵やヤマイモ(自然薯)は地域を問わず各地で見られ、つなぎの代表例のように挙げられる。
ただ、卵は時代を問わず高価であり、生活に密着したなかで工夫されたつなぎとはいい難い。卵白より卵黄のほうがつなぐ効果は大きいという。
一方で、ヤマイモは各地に自生し粘り植物の代表格であり、野生種、栽培種ともに粘着性に富み好んで使われている。もっとも昨今のヤマイモの大半は栽培種であることはいうまでもない。
○長野「オヤマボクチ」(キク科ヤマボクチ属の多年草:雄山火口)はヤマゴボウ・ゴボウパ・ゴンボッパの方言のようにゴボウの葉によく似ている。オヤマボクチのボクチは火口(ほくち)で一種の採火材で、干した葉をもんでもぐさ状にし、火種をとるときに使った。
 干した葉を蒸して草餅に入れたり、干した葉をもんでもぐさ状にしたものをそばを打つ時のつなぎとして珍重してきた。  
富倉そば」は、信州北部と新潟の県境に近い山深い地方でヤマゴボウをつなぎに使ってそばを打つ技法が伝わっている。特につなぎに使われるヤマゴボウの葉は、6月中旬に刈り取ったものだけを乾燥させて使い、このそばは冬の寒い時期でも冷たい水でさらしたのを食する慣わしだそうだ。
○津軽の記録〜青森県の弘前地方ではかつて大豆(大豆汁や大豆粉)をつなぎに使った独特のそば打ち技法があったと伝わっている。そば関係の本では幻のそばとしてよく紹介されている。このそばは特に茹でてからの保存性に優れていたので夜そば売りに適していたという。
○北秋田市の旧合川町 道城地区の道城そばもつなぎに大豆の呉汁を使い津軽そばと同じ特徴のそばが伝わっている。
さるごま(黄蜀葵・とろろあおい) 〜根の部分を使う(群馬県勢多郡・北群馬郡)。アオイ科トロロアオイ属の植物で粘りがあり利用される。花がオクラに似ていることから花オクラともいう。
○この他にも、信越国境・秋山郷〜フノリとオヤマボクチ。乗鞍山麓・信飛地方〜ワラビ粉を使ったという記録。長野・新潟 〜ヨモギ。など
○「豆乳」「豆腐」を使う方法は古くからの記録にもある
○生そばを打つ際にそば粉の一部を熱い湯で「糊」状にしてつなげる友つなぎもつなぎの一手法といわれる。
酒つなぎ(酒を加えて打つそば) 〜太打ちの角が煮崩れないための目的であるが、酒の香りが強く一般向けしないという。

Top】    【Next