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近世の史料・文献に見る 蕎麦を打つ風景 |
三都と名古屋に見る そばを打つ姿勢 ( 座位から立った姿勢へ ) 「大坂・座ってそばを打つ女性」 :「大坂市街図屏風」の部分から[林家所蔵] ![]() この屏風絵は近世初期の傑作で慶長(1596〜)・寛永(1624〜)のイメージといわれている 右は六曲一隻の大きな屏風の中のごく一部分ではあるが、女性が体重をかけて麺生地を延している図はリアルである 思いのほか麺棒が細くて長く 「丸延し」をしている 手前を拡大すると右前には木鉢 左に包丁があり その形状から畳んだ生地に手を添えて布を裁つように手前に引いて麺線に切っていたのであろうか 「京都・座ってそばを打つ」 :京都・[本家尾張屋]の手提げ袋にあるそば打ち図の部分 ![]() 延し板の広さから大きなそばの生地を「丸延し」している様が見てとれるが この時代はどこでも麺棒は一本で、座って打っていた 軒から吊している絵馬型の板にひらひらした切り裂きをつけているのは 近世初期の麺類屋の看板:招牌(ショウハイ)で 「そば切 切むぎ」と書かれている 火を焚くかまど(へっつい)の図も希少である 「大坂・座ってうどんを打つ」 :「「川口遊里図屏風」の部分から [大阪市所蔵] ![]() 江戸時代前期の大坂、木津川河口の港、三軒屋にあった遊里は明暦3年(1657)に移設されたので、それ以前に描かれたものとわかる 遊里の賑わいを描いた10曲一双の屏風 川に面した板場であろうか うどんかそばを打つ姿が生き生きと表現されている この時代は大坂も江戸もうどんが主でそば切りはまだ少なかった 麺棒の太さ以外の特徴はわからないが 時代背景からもおそらくうどんを打っているのであろう 「江戸・座ってそばを打つ」 :手打ち「そば打つ所」と題した挿し絵 : 「酒餅論」挿絵より ![]() この書物の版行年はわからないが寛文(1661〜73)や元禄以降(1688〜)などの説がある 木鉢の中に捏ね終えた小さいそば玉が三個入っていて 包丁は現在のような特化は見られないがこれとほぼ同一形状のものが少し後の元禄9年(1696)刊の「茶湯献立指南」という料理本で初めて「蕎麦切包丁」の区分が登場する *本文中の「めんるひ(類)」のところに「けんどん」の言葉も登場している 「江戸又は名古屋・武士がそばを打っている」:「遊楽図屏風(相応寺屏風)」 徳川美術館蔵 ![]() 尾張・三代藩主徳川綱誠の十九男松平通温(1696〜1730)の遺愛品として名古屋・相応寺に収められたという記録から江戸時代初期に描かれたものであろう やっと訪れた太平の世を楽しむ人々を描いた屏風で長刀を指した多くの武士たちの自由闊達な遊興の様子が伝わるなかに 蕎麦かうどんを打っている図が描かれている 登場している人物たちと場の雰囲気 そばを延している人物の髷などから武士であろうか 「京都・立ってそばを打つ」 :「色ひいな形」画面右にあるそば屋の二階部分はカットした ![]() 上方浮世絵の第一人者・京の西川祐信作 宝永八年(1711)刊「色ひいな形」は いずれも「笑い絵(春画)と組み合わせていて 京都のそば屋の二階から見た図である この時代で 立ってそばを打っている姿は おそらく 初めてではなかろうか *画面右半分(そば屋の二階)をカットしたが逢い引きの場面が展開している 「江戸・座ってそばを打つ」 :雑司谷鬼子母神 藪の蕎麦切 ![]() 江戸名所百人一首(神社仏閣江戸名所百人一首) 享保年間(1716-1735)の刊行で 上句に小倉百人一首の一部を、下句に江戸の名所の名を入れている この店は「蕎麦全書」では藪の中爺が蕎麦として登場していて 「薮」という名称の興りでもあり名物だったので藪蕎麦を名乗る店があちこちに現れたという この境内には天明元年創業(1781)という駄菓子屋が今もある 「大坂・立って?そばを打つ図」 :「絵本御伽品鏡」大坂:蕎麦切屋の店先風景 ![]() 「絵本御伽品鏡」は享保15年(1731)刊 長谷川光信の筆による大坂の名物風俗が描かれた書で暖簾の文字からみると享保頃の「いづみや」らしい この絵の隣には置き行燈があって「壱せん・そば切・八文」(壱せんは一膳)と「うんとん」の文字も見える そばもうどんも八文の時代であるとわかる 格子越しに包丁が見えて 重量感が窺えるようにはなったが 現在のようなそば包丁へ特化していく兆しはみられない 「江戸・座ってそばを捏ねる」 :蕎麦打ち職人の「根付」 ![]() 大きなそば玉を体重をかけながら練り込んでいる わずか3.5センチほどの小さい彫刻だがそば打ち職人の力量が伝わってくる傑作 NHK:06年6月9日に放送された 「美の壺」(根付)より *NHK Re: [#780140]による 「名古屋・ひとつの絵巻に立位と座位」 :「享元絵巻」の部分(名古屋城総合事務所蔵) 尾張・徳川宗春の享保15年から元文4年(1730〜39)頃の名古屋城下の賑わいを描いた絵巻で当時の名古屋を知るうえで貴重な資料である この中に そばを打つ図が二ケ所もあって 一つは 当時としてはごく普通に座った姿勢で延しているが もう一つは立った姿勢で打っている 座位のそば打ちから 立った姿勢のそば打ちへの転換期であることがわかる ![]() ![]() 上の絵は明らかに立った姿勢で打っているが 下では座って打っている 「大坂・立ってそばを打つ図」 :「摂津名所図会」砂場いづみやの店内風景から ![]() 「摂津名所図会」は寛政十年(1798)刊行 この図は大坂・砂場いづみやの店内風景の中のごく一部分だが この時代に 何人ものそば職人が揃ってそばを打っているのはとてもめずらしい それと なによりも全員が立った姿勢でそばを打っているのが特筆される 後ろの二人はうどんを踏んでいるとも考えられるが この図全体の作業の流れから判断すると 小分け用の大きなそば玉を踏んでいるのであろう 「江戸・中腰でそばを打つ図」 :座位の姿勢ではあるが 半座半立ちで打っている ![]() 黄表紙「仇敵 手打新蕎麦」文化四年版(1807)南杣笑楚満人作 歌川豊広画 そば屋は親の仇を追う武士で髷が異なる この時代になると長短・複数の麺棒が見え 単なる巻き延しでなく四つ出しにも見える 職人の後ろに三箱重ねているのは生舟(なまぶね)といって 切った蕎麦を入れておく木箱 画面右端中央に黒い包丁を立てているが 現在私たちが使っている柄が刃の中心付近まで侵入したそば切り包丁は まだ認められない 従って小間板もまだ登場しない |