史料・文献に見る蕎麦切り  その      <  サイトへ移動   .

 江戸期・文献に見る「蕎麦切り」   

 文献に見る「蕎麦切り」
 江戸時代の前期に書かれ、いずれも食物や料理についての本格的な書物といわれる「料理物語」と「本朝食鑑」に、「蕎麦切り」についての記述が登場する。その後江戸中期に、初めての本格的なそばの専門書といわれる「蕎麦全書」が出て、この時代の「蕎麦切り」の作り方を、道具類とともに詳しく書き遺している。
それらに書かれている当時の「そばの打ち方」と、現在まで各地に伝わる郷土そばの打ち方や手法をあわせて比較してみると、大まかには「捏ね・延し・切り」ではさほど大きな違いは認められないのではなかろうか。 ところが、それ以降の「茹で(煮る)」の作業になると現在と大きく異なっているのが特徴といえる。
 そば切りが誕生してからのそばを作る作業の変遷を推し量るとともに、それ以降の「そば粉(製粉技術)」の改良や「つなぎ(割り粉)」の普及など、よくわかっていない時代のそば切りを知る上で興味ある部分なので主な部分を抜粋してみた。
なお、いずれの書物においても、小間板も、そば切り専用に特化した形状の包丁も登場していないことと、前の二つの書では「つなぎ(割り粉)」が使われた記述が見られない。

T.「料理物語」  寛永20年(1643)跋刊(*)  
 江戸時代初期の代表的な料理書で、料理の材料や調理法を記した最初の料理書。寛永20年(1643)跋刊(*)が初版とされているが寛永13年(1636)の手書き本があったとされている。著者の詳細はわかっていないが、上方言葉が使われていて大阪生まれの京都定住などの推定もある。 (*)跋刊:奥書の跋(あとがき・くくり)に「寛永二十癸未暦極月吉日」とある。

 料理物語目録は「第一 海の魚之部」から「第二十 萬聞書之部」までの多岐にわたっているが、「第十七 後段之部」に「うどん けいらん 切麦 葛素麺・・   ・・蕎麦きり 麦きりは・・ 」とあってうどんやそば切りについて書かれている。
「蕎麦切り」の項を抜粋すると

 「蕎麦切り」
めしのとりゆにてこね候て吉 又はぬる湯にても 又とうふをすり水にてこね申事もあり 玉をちいさうしてよし ゆでて湯すくなきはあしく候 にへ候てからいかきにてすくひ ぬるゆの中へいれ さらりとあらひ さていかきに入 にへゆをかけふたをしてさめぬやうに 又水けのなきやうにして出してよし 汁はうどん同前 其上大こんの汁くはへ吉 花がつほ おろし あさつきの類 又からしわさびもくはへよし」。うどんには「汁はにぬき 又たれみそよし」とある。ここにあげた内容は、後にそば切りの歴史を書いた書物にはしばしば引用されている。

U.「本朝食鑑」  元禄10年(1697)刊行  著者:人見必大
       (本朝食鑑  人見必大  島田勇雄訳注 平凡社 より)
 中国・明の医師で本草学者の李時珍著「本草綱目」を参考に食物を和名中心に分類説明した書。原文は漢文体で12巻10冊。産地、加工、料理、薬、民間行事など多方面にわたり、江戸時代前半の本格的な食物学事典である。
著者:  人見姓は源頼朝より賜った家柄で後に医を業とした。父は宮中御用の医師。その後幕府に仕えた。必大も医業を相続し三百石。御番勤士も勤めた。

 蕎 麦  曾波と訓む。久呂無木ともいう。
[集解] 蕎は四方どこにもある。東北に最も多く産し、質も佳い。西南は少なくて佳くない。・・・・
   ・・・三稜(さんかく)の実を累々と結び、初期は緑色で、老(ひね)ると黒色になる。
「蕎麦切りについての記述部分」
 この実を、杵でついて殻を取り去り、磨(ひ)いて麪(こな)にする。さらに羅(ふるい)にかけて極めて細かい粉末にし、熱湯あるいは水で練り合わせ、粘堅な平たい丸い餅の形にまとめてから、麺棒で頻り(しきり)に拗(こね)るが、この麺棒には別に麪粉(こな)を撒いて、餅が粘り着かぬようにする。麺棒に巻き手荒く押し固めながら極く薄く押し伸ばしたら、パッと攤(ひろ)げ、これを三・四重に畳んで、端より細く切って細筋条(すじ)にし、沸湯に投じて煮る。
長く煮ると硬くなり、少しの間だと軟らかなので、随意に見計らって取り出し、冷水か温湯で洗う。これを蕎麦切という。食べる時は、すすぎ洗い、水を切ってから、つけ汁を用いる。汁は垂れ味噌汁一升と好い酒五合を拌堰iかきま)ぜ、乾鰹の細片(かけら)四・五十銭(重さの単位)を加え、半時あまり煮る。慢火(ぬるび)では宜しくなく、緩火(とろび)で煮るのが宜しい。煎熟(よくに)たら塩・溜醤油で調和し、それから再び温める必要がある。別に蘿蔔(大根)汁・花鰹・山葵・橘皮(みかんのかわ)・蕃椒(とうがらし)・紫苔(のり)・焼味噌・梅干などを用意して、蕎切(そばきり)および汁に和して食べる。 蘿蔔汁は辛辣いのが一番よい。古来まだ蕎麪(そばこ)を賞したことを聞かぬが、近代(ちかごろ)これを製造し、今では世を挙げて賞美している。東北の人は専らこれを造って誇りを競うているが、西南の人の造っているものは佳くない。惟(ただ)、京師(きょうと)で近年造っているものは稍(やや)美といえよう。然ども、麪は好くなく、蘿蔔も辛くないので、江東(かんとう)の盛美なようにはいかないのである。  あるいは蕎掻(そばかき)といって、・・・・

V.「蕎麦全書」 寛延4年(1751)10月脱稿  著者:日新舎友蕎子
 江戸時代で唯一といえるそばの専門書で、「本朝食鑑」を引用しながら私見を述べ、ソバの産地や有名ソバやそば粉のこと、そばの作り方や茹で上げたそばの扱い、そばつゆの作り方や薬味について、さらには江戸市中のそば屋の屋号や有名店の消息、粉屋など、多くの貴重な解説と史料を残している。
著者については江戸の住人としかわっていない。

  *蕎麦全書・伝  現代語訳 日新舎友蕎子著 
             新島繁校注 藤村和夫訳解   ハート出版
 「蕎麦仕様概略の事」
(そばの製し方は、家毎にやり方があって同じではない、・・・ という書き出しの後) 粘し堅からしめ、拗棒(麺棒)にて頻りに是を拗し、別に撤るに麪粉を以し、拗棒に粘着せしめず、巻てこれを捍し、至極薄くして是を放ち攤(ひろ)げ、畳む事三四重、端より細かに切細筋状となし、沸湯に投じて煮る。・・・
予按ずるに、当時多く至極細きを佳なりとす。しかし是等の類は、真のそば好とは云がたし。只其製し様の能きを知る斗りにて、蕎麦の本意をしらざる也。亦、間に太そばと云て至極大成を好む人あり。是等は人々の好嫌ひと云物にして、皆そばの本意にはあらざる也。 故に予常に人々に難じて云、至極細きは素麪に似たり。亦至極粗大なるは温飩のごとし。皆蕎麦のふとみならず。そばは自然とそばのふとみあり、余りふとからず、亦余り細からず、これを蕎麦のふとみとするなり。・・・

「そばを茹でることについて書いているくだりのところでは」
予按ずるに、そばの硬軟は是を煮るの多少にあらざる事決せり。・・・

一ふき二ふき三ふきの数に拘はらず、兎角よろしと思ふ時、意に任せて取出し、先冷水の中へ入れて洗ふ事四五遍にして、其水の清浄を度とす。洗様不足なれば、ぬめりて乾かして後粘着してよろしからず。
夫よりぬる湯の中へ入れ、早速取出し亀の甲ざるの中へ入れ、むらなくうすくして熱湯をよく懸け、其上に布巾を懸け、亦其上に塗物の盆か折敷(おしき)など蓋にして暫時置て、重筥(箱)の中へ布巾を敷、是へ移し入、上にも布巾を懸け、蓋をして小蒲団に包み、小半時斗り置候へば能熟し乾きてよし。按ずるに・・・

 藤村訳解者は次のように注釈している。
蕎麦の「茹で上げ」後の処理方法は、現代の蕎麦屋では全くやっていない方法です。蒸すところから「蒸し切り」と呼ばれたのでしょうが、昔、家庭で炊いたご飯を入れたお櫃を小蒲団でくるんでいたように、保温しています。(藤村注釈)
*訳解者について:寛政2年(1790)麻布永坂に「信州更科蕎麦処布屋太兵衛」創業、明治35年に「信州蕎麦処布屋源三郎」通称「有楽町更科」が開業している。有楽町更科の元4代目主人。「そば屋の旦那衆むかし語り」「蕎麦屋のしきたり」など蕎麦に関する著書多数。

「家製に用る役味の品」
  生蘿蔔汁(らふく:すずしろ:大根):・・至極辛辣のものを用ゆべし
  生葱:根の白味斗りを用ゆ
  乾松魚(ほしかつお):世上にて華鰹
  
橘皮(ちんぴ):内皮をすき去り、至極細末(細かい粉)し用ゆ
炙味噌(あぶりみそ):予が家製には胡桃を細に割み、味噌に入れ炙る
番桝(とうがらし):極細末して用う
以上が、常に使う薬味(6品)
山葵:大根辛辣なる物なき時に用う。常は用ひず。
紫菜(のり):精進の人に用ゆ。常には用ひず。

 以上が、「料理物語」と「本朝食鑑」、および「蕎麦全書」で取り上げられている蕎麦切りや、蕎麦を茹でた(または煮た)時の処置について書いている箇所をそのまま抜粋したものである。(本朝食鑑では、その前後を多少広範囲に抜粋している。)

W.考察−1
「昔は、蕎麦が切れやすかったので、菓子屋が蕎麦切りを作り、蒸籠で蕎麦を蒸していた」という説がひとつの定説になっている。
ところが、ここに登場する書物の「茹で(煮る)」以降の内容から推察すると菓子屋が蕎麦切りを作ったから蒸籠で蕎麦を蒸したと解するのではなく、茹でた(煮た)蕎麦の保存処置であったと理解できる。
とにかく、蕎麦切りと菓子屋の関係を調べておく必要があり、古い時代の菓子屋といえば京菓子の老舗であり、07年1月に京都を訪ねた。
 京都の晦庵河道屋」は江戸時代からのそば屋(というより菓子を商う傍ら蕎麦を売っていたという老舗)で、明治28年(1895)には13代当主が「蕎麦志」を刊行している。
15代・植田主人に、「蒸籠で蕎麦を蒸した?」といわれる点についてお尋ねした。
これに対して、『昔は、そば粉もわるく、また打った蕎麦を保存する保冷設備もなかった。そば屋が店を開ける前に先ずやらなければならない仕事は、打った蕎麦をすべて茹でて、ひと盛り分ずつに取り分けて蒸籠に並べておく作業から始まった。蕎麦を出すときは、それに湯を通したり、水で洗ったりし直して出した。』従って、『昨今の「そばの三立て」などという言葉はごく新しい言葉である。』ともいう。さらに京都では、『昔は、菓子屋には寺院から蕎麦(切り)の依頼があるので、どの菓子屋も蕎麦が打てなければならなかった。上手く蕎麦を打つ菓子屋が良い菓子屋ということになり、蕎麦打ちの技量によって菓子屋の評価が左右された。』ともいう。 古い時代の蕎麦切りと菓子屋の関係、(今と比べて)まだ品質の良くなかった時代のそば粉で打ったそばの「茹でや保存」など、極めて理解しやすい説明をいただいた。
*「そばの三立て」とは、美味いそばの三条件であるとして「挽きたて、打ちたて、茹でたて」がよいというそば用語。さらに、「四立て」という場合は「穫りたて」を加える。  (ただし、切りたてをすぐに茹でるとそばが浮き上がってしまうので入れない。)

X.考察−2
 料理物語と本朝食鑑に見る「うどん」について

 「料理物語 うどん」
粉いかほどうち申候共 塩かげん夏はしほ一升に水三升入 冬は五升入て その塩水にてかげんよきほどにこね うすにてよくつかせて 玉よきころにいかにもうつくしく ひゞきめなきやうに丸め候てひつに入 布をしめしふたにして 風のひかぬやうにしておき 一づゝ取出しうちてよし ゆでかげんはくひ候て見申候 汁はにぬき又たれみそよし 胡椒 梅 」
 「本朝食鑑 うどんの作り方」
温飩  俗に宇止牟と訓む。     温飩・冷麦は、倶(とも)に麪(むぎこ)を材料にして造る。製法は、頭白麪の最も好いのを塩水に入れて攪堰iかきま)ぜ、手で掻き回してほぐし、揉合(こねあ)わせ、粘堅な平たい丸い餅の形にまとめてから、麺棒で頻りに拗攤(ねじりひろ)げ 厚紙様に伸ばす。・・・

 うどんの製法で、そばを作るときと異なる部分は、「水回しに塩水を使う」ことと、練る段階で「足踏み」と「寝かす」工程が入ることだと思っていた。
 昔から、「うどん」を打つ時の口伝に「土三寒六(常五杯)」という季節と塩水濃度についての言葉があり、土用(夏)は塩一杯に対してを水を三杯入れ、寒(冬)は六杯、常(春秋)だと五杯の水を入れるという古くからの指標がある。 このことに関しては、「料理物語」には夏と冬の塩加減のことをがあり、「本朝食鑑」でも塩水について書いているので、古い時代からの製法であることがわかる。
もっとも、この時代の塩には水分をはじめ硫酸カルシウム、塩酸マグネシウムなどの不純物が多く含まれていたので純度が低かった当時の配合比率(塩加減)である。高純度の塩になるにしたがって、飽和食塩水(これ以上溶けない濃度の食塩水)を利用する方法が採られるようになり、さらにボーメ計(液体の比重を測定する浮き秤:ボーメ度)を利用して塩水を作るようになっている。

 いまひとつ、うどんを打つ時の「足踏み」と「寝かす(熟成)」工程に相当する作業については、「料理物語」では「うすにてよくつかせて」とあって「臼で搗く」とあり、「本朝食鑑」では、「手で掻き回してほぐし、揉合(こねあ)わせ」としか書いていない。
 勿論、現在でも、塩を使わないうどんの製法や、足で踏まないうどん作りもあるのでさほど不思議なことではないが、江戸時代前半のこのふたつの史料では、いずれも足で踏む工程は入っていない。うどんは室町時代にはすでに作られていたので、地域による作り方の違いや、ある時期から「足踏み」が採り入れられたのかはわからない。
私の知る範囲では料理物語・跋刊から百五十年、本朝食鑑・刊行から百年後の寛政十年(1798)刊行の「摂津名所図会」に登場する砂場いづみやの仕事場で職人二人が足でうどんまたはそばを踏んでいるところが描かれている。

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