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S O TAI K I
掃 苔 記
自ら訪ねたさまざまなお墓を紹介し、旅行記とともに、そこに眠る人に思いを馳せています。
(順不同)
| 第1回 | ココ・シャネルとオードリーヘップバーン | 01.04.20 |
| 第2回 | フィンセント・ヴァン・ゴッホとアメデオ・モディリアーニ | 01.06.01 |
「激しくも美しい人生を生き抜いた女たち、異国の地に眠る」
(98年9月訪問)
| 孤高の白き墓標 〜ココ・シャネル〜 |
その朝、私はパリからジュネーブ行きのTGVに飛び乗った。7時12分にリヨン駅から発車するというのに、目が覚めると6時半近く。顔面蒼白、頭も真っ白になりつつ、着替えて荷物をひっつかまえ、ころがるようにしてリュパブリックにある部屋を出た。今考えてもよく間に合ったと思う。洗顔はジュネーブへ向かう車中のトイレでするというお粗末。過ぎてしまえば、これもひとり旅の笑い話になるから不思議だ。
ジュネーブからローザンヌへ。駅裏のホテルでチェックインを終え、駅前のマクドナルド(妙に塩辛かった)で昼食を済ませると観光案内所へ。教えてもらった番号のバスに乗り、私はまずココ・シャネルが眠るボア・デュ・ヴォー墓地に向かった。
ローザンヌ市 ボア・デュ・ヴォー墓地正面玄関
スイスはこの日が初めてだったけれど、どんな景勝地にも目もくれず、とにかく墓地を目指すのが何より私らしい。さて、この墓地。外から見れば、こんもりと茂った森か公園にしか見えないだろう。それほどに広大。パリにある有名な墓地よりも、さらに美しく管理されているような堂々たる正面玄関に、まず圧倒された。ところが、ココ・シャネルのお墓はどこにあるか分からない。というので、とりあえず管理事務所を訪れた。中にいたのは、品のいい妙齢の女性。「ガブリエル・シャネルのお墓を探しています」と言うと、にっこり。紙になにやら記号を書き、渡してくれる。そして、壁の大きな地図を指し示しながら現在地とお墓の位置関係を教えてくれた。セクション9・ナンバー130。
墓地内は一部雛壇状にお墓が広がって いる
日本では、一時シャネルマニアの女性たちを「シャネラー」と称して、もてはやした。パリに行けば、シャネルだのエルメスだのといって、買物三昧に走る日本人はひきもきらないけれど、両手に高級ブティックの紙袋を抱えてメトロに乗っている姿を見ると、正直げんなりしてしまう。自慢ではないが、私はシャネルをはじめ、ブランドファッションには全くといっていいほど縁がない。フランスにとって、ファッションは文化なのだ。そこにはエスプリがある。しかし、日本人はただ消費している。それが恥ずかしいのだ。だいたい、月20万円そこそこの月収しかないような若いOLが、数十万の時計やバッグで身を飾ること自体、不自然なのではないか。女性誌がお金をかけずとも自分らしく上手におしゃれするパリジェンヌをいくら特集しても、ちぐはぐなブランド神話の呪縛から解放されない日本人は、やっぱり滑稽でしかない。ご本人もよもや世紀末の日本で「シャネラー」などという言葉が流布していたとは、夢にも思わなかっただろう。
文句はこれぐらいにしておこう。いわゆるファッションにはうといけれど、ココ・シャネルという人物には以前から興味があった。時代を切り拓いてきた女性への憧れからか、同じ獅子座の生まれがそうさせるのか。フランス人のシャネルがスイスに眠っているということを知ったときから、彼女のお墓を訪れたい気持ちがむくむくと湧いた。そして、1泊だけのスイス行きを決めたのだった。
20世紀に比類なきモードの女王と呼ばれた、ココ(本名ガブリエル)・シャネルは1883年8月19日、フランスはロワールとブルターニュ地方の境にあるアンジェから約50キロのソーミュールという町の施療院で、合法的ではない両親の3人姉妹の次女として産声をあげている。肉親の愛を受けられず惨めだった幼少期への復讐心をエネルギーに、次々と斬新なファッションを世に送り出していったシャネルは恋多き女性でもあったが、激しい性格ゆえ、生涯孤独でもあった。 『獅子座の女 シャネル』(ポール・モラン著)の第一章はこう始まっていた。
子供は、だれでも隠れ場所をもっていて、そこで遊んだり、夢みたりするものだ。あたしの秘密の場所は、オーベルニュの墓地だった。(中略)この秘密の園で、あたしは女王さまだった。地下に住んでいる人たちを、あたしは愛していた。「死んだひとを思ってあげれば、そのひとは、死人ではなくなる」そう考えていたのだ。(中略)誰かが、あたしを愛してくれるという確かなものがほしかったのに、あたしときたらひどい人たちを暮らしていたのだ。
だから、後年ひとり言をいうのが好きで、ひとの言うことは絶対にきかないあたしの性格は、最初に、心を打ち明けた人たちが、死者だったためかもしれない。
『獅子座の女 シャネル』(ポール・モラン著 秦 早穂子訳)より
この本は、著者が本人から直接聞いたシャネルの虚実ないまぜになった独白をまとめたものだが、最初にこのフレーズが目に飛び込んできたときに、身震いする思いがした。あれほど華やかな世界に君臨した人が、この根源的な淋しさから生涯逃れることができなかったという残酷さ・・・。
ガブリエル・シャネルのお墓
1971年1月10日、シャネルは87歳の生涯を閉じる。ショパンと同じパリ・マドレーヌ寺院で葬儀が行なわれ、遺言によってローザンヌの墓地に埋葬されたという。つまり、今年は没後30年に当たる。第二次世界大戦時の1944年、シャネルは戦犯委員会から対独協力の容疑で逮捕され、数時間後に釈放されている。翌年スイスに亡命。戦後の1954年、カムバック第1回のコレクションを発表したが、フランス国内では酷評され、翌日の席の予約表は空白だったそうだ。晩年期、母なるフランスに愛されなくなった彼女の落胆が、そんな遺言を書かせたのだろうか。
白い墓石に刻まれたのは、彼女の星座を象徴する獅子の頭。子供の頃、彼女は薄汚れた部屋でがんじがらめにされていることを憎み、富と自由のイメージとして「白」いものばかりを夢見ていたという。その白い墓石の前には、やはり白い小さな花が咲き乱れていた。
墓地の中は静けさに包まれていた。あれほどたくさんの墓石が並んでいるのに、シャネルのお墓はただひとつ、木と花の陰に隠れてぽつんと佇んでいた。そのあまりの孤高ぶりが、彼女の生涯そのものと見事にオーヴァーラップしているようだった。
死んだらそれまで。その気持ちがあたしを生きさせている・・・(といっても、死に対して、好奇心もあるのです。天国に行ったら、本当に天使たちの服をつくってみたいという夢。地上では、別の天使たちにずいぶん奉仕しましたからね。あれは地獄だった)。
『獅子座の女 シャネル』(ポール・モラン著 秦 早穂子訳)より
| 名もなき村人のように 〜オードリー・ヘップバーン〜 |
トロシュナの墓地より
キリンが「午後の紅茶」という缶入り紅茶のCMで、映画「ローマの休日」のオードリー・ヘップバーンを画面と合成して登場させている。「ローマの休日」は1953年に公開され、制作費の3分の1を日本だけで回収したといわれるほど、日本でも大ヒットし、この映画で、彼女はアメリカのアカデミー賞主演女優賞を獲得した。可憐で清楚なオードリーの容姿は、未だに日本人を魅了する。だからこそ、若いオードリーを、こんな形で“起用”するのだろう。けれど、私はブラウン管に映る彼女の天使のような微笑みを見るたびに、痛々しいものを感じる。彼女はまさに人々の幻想と闘い、傷つけられながらも一生懸命「自分」の本当の居場所を探す女性だった。けれども、多くの人々はそういう「人間オードリー」には目もくれず、相いも変わらず彼女の美貌やファッションばかりを“利用”するのだ。美しさとは、残酷なことでもある。
オードリー・ヘップバーン記念館
ローザンヌからローカル電車に乗って約40分。モルジュ駅からバスでさらに15分ほど揺られたトロシュナは、ぶどう畑の広がる静かな村だった。ここには、彼女が生涯愛し、最期に息を引き取った家『ラ・ペジーブル』、没後村の学校の建物を利用してつくられた『オードリー・ヘップバーン記念館』、そして彼女が眠る村の墓地がある。シャネルのお墓を訪ねた前日は時雨の一日だったが、この日は見事な晴天。むしろ暑いぐらいの陽気だった。記念館に入ると来場者はなく、受付の女性がいろいろと説明してくれた。白を基調にした館内には、彼女が出演した映画のポスターが展示され、アカデミー賞主演女優賞のオスカー像も透明なケースの中で鎮座している。また子供の頃からのプライベート写真や晩年、ユニセフの特別大使として訪れたアフリカでの写真も飾られていた。受付の女性は「彼女のどんな映画がお好きですか」と質問。私は迷わず「『ティファニーで朝食を』です」と答えた。子供の頃、我が家には父親が買ったらしい映画のサントラ盤を集めたLPレコードがあり、私は作品を観る前に、音楽からいろいろな映画を覚えた。『太陽がいっぱい』『鉄道員』『男と女』『ドクトル・ジバゴ』・・・。その中に『ティファニーで・・』もあって、レコードのジャケットには例の宝石店のショーウィンドウの前でパンをほうばるホリー・ゴーライト(オードリー)のイブニングドレス姿の写真が載っていた。動くホリーを観たのは、大人になってからだが、それだけに私にとってはやはり『ティファニーで・・』が一番印象深い作品なのだ。
オードリーは1929年5月、オランダ貴族の血を引く母親とアングロ・アイリッシュの父との間にブリュッセルで生まれている。再婚同士だった両親の不仲。父親の不在。高圧的な母親の干渉。そして、戦争の痛手。愛を求めても愛に怯えて、なかなか幸せにたどりつけなかった彼女の人生の陰には、そういう生い立ちも関係しているといわれている。女優引退後に、悲惨な難民キャンプを訪問しては、メディアを通してその惨状を訴えるという仕事に没頭したのも、安らぎと愛情に飢えていた自分の幼少時代の悲しみを、難民生活を余儀なくされている人々姿の中に見たからではないだろうか。そして、華やかな世界の虚しさよりも、自分の名声が社会のために役立つという充実感が、彼女を幸せにしたのだと思う。それが、結局、彼女の寿命を縮めることになったとしても・・・。
オードリー・ヘップバーンはここに眠っている
記念館をあとにして、私は墓地に向かった。とにかく、静かな村だった。共同墓地入口の門扉は容易に開いたけれど、「ギー」という音がしたらどうしようと思うほどの静寂だった。数にすれば数10程度の墓石が、きれいに整えられた垣根の間に並んでいる。十字架の形もあるのだが意外に少なく、たいていはシンプルな形にカットされた小さな石がとんと置かれている。これがスイス流というのだろうか。遠くに広がる田園風景を静かに眺めているといった雰囲気の墓石たち。死者もさぞかし安らかに眠っているだろうなあ、と私は思った。
ヘップバーンのお墓は一番高い列に「その中のひとつ」という感じで佇んでいた。白く、力強い十字架。そのたもとに供えられた花はやはりひときわ多いけれど、ここに彼女が眠っていると知らなければ思わず見過ごすのではないかと思われるほど、普通のお墓だった。それだけ、生前こよなく愛したこの村への思いがあふれているように思えた。もはや孤独の陰はなく、他のお墓とともに一村人として、あふれる陽射しの中、ただ吹きすぎていく風の中で、永遠の安らぎを享受している。こういうシンプルに美しい場所を選んだオードリー・ヘップバーンの清廉さに、私は胸を打たれていた。
| 二人のお墓は3年前、「いせや」という墓地霊園会社のサイト「世界のお墓」で知り、特にシャネルのお墓はいせやさんにお願いして、詳細を根掘り葉掘り問い合わせ、資料を送っていただいたりした。また、ヘップバーンのお墓については、知人の知人でトロシュナに住む方に記念館のパンフレットを送っていただいたり、バスの乗り方を教えていただいたりした。お礼を言うこともなく、ここに至ってしまったので、こんなところで変ですが、遅まきながらこの場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。 |