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Histoire d’Amouor

  
第1回  わが心の切なる願い

第2回 ガレージセール 

第3回 半月の夜  


第1回  わが心の切なる願い

 福知山から舞鶴道にはいると、車は一気にスピードを上げていく。そのエンジン音があまりにも大きいので、助手席の里美子は思わず、ドアの上の壁にへばりついた取っ手を左手で硬く握りしめる。まるで飛行機の離陸時みたいだ。胸に圧迫感が押しよせる。
「そんなに怖がらんでもええやんか。俺の実力はこんなもんやないんやから」
 ハンドルを軽く握りながら、勇が里美子をのぞき込むようにして言う。その間にも、速度は確実に上がっている。
「ちゃんと前見て運転して」
「なんや、今日は何か知らんけど、あんまり機嫌ようないなあ。俺、何か悪いことしたか」
「ううん、福永さんはいつも優しいわ。ただ、お願いやから、あんまりスピード出さんといて。心臓がドキドキする」
 そう言いながらも、いつのまにか車は、方向指示器を点滅させながら、追い越し車線に移ろうとしている。今、この人に何を言ってもダメなんだと里美子は思う。高速に乗るまでの何十キロか、追い越し禁止を示すオレンジ色のラインの伸びた国道を、勇はイライラしながら走っていたのだ。少しカーブしているところで、この車の列の一番前で巨大な鉄骨部品を運ぶ大型トラックがのろのろと走っているのが見え、苛立ちは頂点に達する。
「いっそのこと、こいつらの上を飛んで行かれへんかなあ。車の不幸は、翼がないことやで。それにしても、皆どこへ行くんや。休みの日ぐらい、家でじっと大人ししとけ」
 勇はそう毒づいた。それに比べれば、舞鶴道のスムーズさが勇を調子よくさせるのも、無理はないのだ。そのとき、
「なあ、聞いてるんかあ」
 と言われ、里美子ははっとする。
「なに?」
「夕飯、何食べたいって聞いてるんや」
「もう、そんな時間?」
「いや、けど、朝と同じで多分もうすぐ渋滞に巻き込まれる。宝塚を越えたら、きっとそのぐらいの時間になるやろな。朝通った福崎まで行かんとこっち来ただけでも、ちょっとは時間稼げてるはずやけどな」
 そうか。中国道の宝塚と神戸三田間は、震災復旧工事のおかげで必ず混むんだった。阪神大震災。今となってはあのときのことは、まるで夢のようにも思える。けれど、決して夢ではない。でなければ、今、里美子が大塚邦夫のことを考えているはずもないのだ。勇と日本海を見に行った帰りの車中で。
 
 その夜、間違い電話だといって相手が一方的に電話を切ったとき、里美子はそれが大塚の声になんとなく似ているような気がした。
 部屋ではテレビがニュース番組を流している。阪神大震災のために、転校した男の子のドキュメンタリーを放送している。子どもたちは一見元気だ。けれど、あの日を境に何かを喪失したという思いは、見えないトラウマになっているはずだろう。結局、何の被害もなかった里美子でさえ、地震発生からわずか一時間の停電の中で陥った孤独感、その後、わずかな余震にも襲われた恐怖心が、時々フラッシュバックする。振動の怖さは、実はこんなドライブにさえ影響していた。心臓の動悸はなかなか止まらない。

 電話のベルがもう一度鳴る。今度はファックスだ。きっと友達のくだらない愚痴の手紙だろうと里美子は思う。ジジジ、と紙が送られてくる。そのゆっくりとした速度が待ちきれず、受信が完全に終わらないうちに出てくる用紙に手をかけ、上下さかさまのまま、文面を読み始める。そして、凍りつく。

「里美子さま。あなたに会いたい。僕は今でもあなたを忘れてはいない。どうすればもう一度会えるか、この2年間、そればかりを考えていた。そして、二人の関係を最初からやり直したいと思っていた。でも、あの地震がすべてを崩壊させてしまった・・・・」
 一瞬、書いてある文字の意味が胸にしみ込んでこない。けれど、その何行かの後、最後に記された大塚の名前を見て、一度凍りついた塊は、急激に熱せられる。額や腋の下に水分となって現れる。それでようやく、さっきの間違い電話が、ただの間違いではなかったことに気づく。大塚さん、あなたはやっぱり生きていたんだ。だけど、今になってなぜ・・・。どうしたわけか、ファックスの最後の一行は字が縦に流れて、解読不可能になっていた。
 里美子は受信したファックス用紙の上部に送信側の情報がないか確かめる。普通は登録された電話番号があるはずだ。しかし、そこには単なる記号以外には何もなく、電話番号らしき数字は見当たらなかった。彼はいったいどこから、この手紙を送ってきたというのか。

 あの日以来、神戸・阪神エリアを襲った地震で亡くなった人の名前は、連日のように新聞の紙面を占領した。里美子は、毎朝そこを読むのが日課になる。大塚という名前に出くわすと、胸が錐で突かれたように痛む。けれど、名前が邦夫でなければ痛みは収まるのだった。確実に誰かが亡くなっているというのに。人間は、なんて、身勝手なのだろう。
 それでも、大塚本人に連絡を取ろうとはしなかった。里美子が知っているのは、彼の勤め先の電話番号。そこに連絡し、大塚の無事がわかれば安心できたのかもしれない。けれど、そうすれば、大塚の近況も知りたくなる。彼の妻や子どもたちは無事なのか、今はどこに住んでいるのか、元気なのか―。
 それでどうなるというのだ。傷つけあって別れた男に、単なる同情でボランティア精神を発揮したところで、やっと癒えたはずの傷のかさぶたをもう一度剥がすなんて、できないと里美子は思った。なのに、無防備に送られてきた一枚のファックスが、無理やりひっぺがしてしまう。大塚さん、狡いわ。あなたはいつも一方的。私のことを何やと思ってるの。
 その夜、里美子は何とかベッドにもぐりこんだ。けれど、どんなに目を瞑っても大塚の顔が瞼に貼りついて離れない。結局うとうとし始めたのは、窓の外がカーテン越しに白くにじむ明け方だった。
 それっきり、大塚からは何の連絡もない。ひょっとして、彼はどこかで野たれ死にしているかもしれない。彼と家族との亀裂は、震災前からすでに決定的だったのだ。里美子はうろたえた。

 車が三田西インター出口に差しかかる。電光掲示板の「神戸三田〜宝塚 工事渋滞15キロ」という文字を見て、勇がまた大きくため息をつく。
「ああ、これで夕飯はやっぱりパーキングエリアのカツ丼かなあ。里美ちゃんには悪いけど、俺を恨まんといてくれよ。何もかも、あの地震のせいなんやから」
 大阪人の勇はへらへらと言う。里美子には、すでに道がつかえて、のろのろ走る車の列が目に浮かぶ。いつか、夕闇に包まれ、車たちはおのおののライトをつけ始めるだろう。個室というか、孤島というか。そうなれば、人間なんて無力な存在だ。ひたすら渋滞の流れに身をまかすしか、ないのだから。
 けれど、今の里美子にはそんなことは、どうでもいい。ただ、胸の奥で叫ぶ。私だって会いたいよ、大塚さん。だから、生きてるならもう一度、電話してきて・・・。
 そのとき、いきなり勇がシフト越しに里美子の右手を握ってくる。勇の手は熱い。
「里美ちゃん、俺な」
 その言葉を遮るように、里美子は呟いた。
「ねえ、人間で悲しい。何でこんなに、目的地にすんなりと行かれへんのやろう」

                                        『ブレイン・サラダ』第2号(1995年9月)より
 

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第2回  ガレージセール

 珍しくオヤジがゴルフに出かけていった。どうせまたブービー賞どまりなのに、買ったばかりの車を見せびらかしたいばっかりに、のこのこついていく。そんな、子どもみたいな奴だった。

 家にはアタシひとり。物心ついてからオヤジとふたり暮しで、年のわりには何でもできるコだったから、何てことはない。安楽椅子に座ってしばらくボンヤリしていたけれど、急に思いたって2階へかけあがっていった。

 主を失したガレージはガランと冷たい空気を放っている。アタシはシャッターを上げた。足元から街の匂いがすべり込んできた。ダンボール一杯のガラクタを広げて、アタシは小さなスチールの折りたたみ椅子に腰を落ち着ける。一度やってみたかったガレージセール。オヤジがいれば、おもしろそうだなあとか言って、近寄ってくるだろう。今日はGood Timing。アタシは部屋からラジカセまで持ってきて、ビルボードのトップ100をテープで聴いていた。着古したTシャツ、セルロイドのサングラス、手回しのオルゴール(ミッキーマウスマーチが入っている)、ハワイみやげのウクレレ、破れたランプシェイド・・・見事なガラクタたち。打ちっぱなしのっコンクリート壁に残響する音。すっかり気分がいい―。

 けれど家の前を通る人はなかった。結局誰ひとり買い手のつかないまま外は雨が降り出した。テープがおしまいまできてPLAYボタンがプチンとハネ上がった。すると雨の音がよけいはっきりと聞こえてきて、何だか絶望的な気持ちになった。アタシは店じまいを始めた。

 こんにちは。振りむくと、道に女の人が立っている。傘を差している。ようこ、ちゃん?何故アタシの名前を知っているのだろう。あなたのお母さんなのよ。言葉の意味はわかるけど、それがどうしたというのだろう。そうですかとアタシは答える。なんという喜劇なのだろう。お父さんは?彼女は言った。あのオヤジのことなのだろうか。いません。ゴルフに行ってます。あのすみません、もうおしまいなんです。ガレージセール?私も何かいただこうかしら。彼女は傘をたたみ、ランプシェイドを手に取った。アタシはテープをリバースしてPLAYボタンを押す。明るい歌声はホイットニー・ヒューストン。雨はまた聞こえなくなった。でもアタシはその聞こえなくなった雨に耳を澄ます。アタシはただ、雨にぬれながらボールを追いかけているオヤジのことを思い起こしていた。

                                  
『月刊カドカワ』1989年8月号より 


第3回  半月の夜

 おひさしぶり。
 頭の右側を、思いきりガラス窓にぶつけ、朦朧としているところにそう投げかけられて、わたしはもう一度目を閉じる。いつも、ここと決めている電車の席。進行方向一番後ろの左隅だ。
 最初は、図書館で借りたアン・ビーティの短編集を読んでいた。しかしほどなく、その面白さは睡眠不足に負ける。上のまぶたが引力の作用で落ちてきて、まるで度の合わない眼鏡をかけているように活字がぼやけてくる。その時、電車が急ブレーキをかけ、津波のように頭も大きく右に振れたのだった。
 おひさしぶり。お目覚めはいかがかな。
 声はまたしてもする。今、いったいどこを走っているのだろう。わたしはうっすらと目を開け、位置関係を確かめようとした。けれども、前に大きな男の人が立っていて、何も見えない。そして、電車は再びゆっくりとブレーキをきかせていった。
 急に目が冴えてくる。くるりと振り向き、外を覗く。降りる駅かと思ったのだ。寝ぼけた人間がよくやる動作だ。窓ガラスは人いきれで白く曇り、外の景色を隠していた。
 大丈夫。まだ○○○○じゃないから、あわてないで。
 本格的に目を開け、あたふたとしているわたしに、その声はやはり話しかけた。おそるおそる顔を上げる。そして、目の前に立っている男の人が智夫だということがわかって、わたしはようやく頬をゆるめた。
 わあ、久しぶり、とわたし。だらしなく居眠りをしている顔を見られたに違いない。恥ずかしさをごまかすように、声だけはやたら元気だった。僕はさっきからもう何度もそう挨拶してたよ、と彼は笑った。智夫は高校時代の同級生だった。
 開いたドアから、人々がせわしなく乗り降りしている。その動きは空気をさらい、また新鮮で冷えた空気を連れてくる。いや、新鮮かどうかはわからないけれど。
 わたしの隣の席が空く。智夫は椅子取りゲームに勝った子供のような口をして笑いながら、そこへ座った。
 どうしてたの、と智夫が聞く。松田君こそ、とわたし。あれから、十年以上の月日が流れているというのに、名字をおぼえていたことさえ不思議だ。智夫の方も、一目見てわたしとわかったのだろうか。

 高校を卒業した夏休み、わたしたちは早速同窓会を開いた。お互いの近況を報告するためだ。智夫は関東の国立大学へ進み、わたしは地元の私立大学に入学していた。浪人中の身分も多かったが、少し見ないうちに、皆やけに大人びていた。ウィスキーの水割りに煙草のけむり。二次会に繰り出した薄暗いディスコのフロアで、誰もかれもが精一杯の背伸びをしているように見え、わたしはついに居場所を失った。そんなとき、智夫は何も言わず、わたしにジュースを渡し、自分も同じものを飲んでみせた。
 それまで、智夫に深い関心を抱いたことなどなかった。わたしにとって、智夫はただの優等生だった。何しろ当時は、バスケット部のキャプテンをしていた井上君に熱をあげ、誕生日やバレンタインには、彼を廊下で待ち伏せしたりする、無邪気な高校生だったのだ。
 だから、卒業後、わずか三、四ヵ月で皆が変わってしまったのがショックだった。井上君が同じクラスの富岡さんと付き合っている、という噂もどうやら本当らしく、わたしはさらに傷つく。
 あのころの恋心なんて、簡単に生まれたり死んだりする。智夫の何気ない優しさに、わたしはたちまち心を動かされた。そして、何とか下宿先の住所を聞き出そうとするのだが、洪水のように鳴り響く音楽にかき消され、ただ微笑むしかない。そう、あれは確か、パティ・オースティンの“Do You Love Me”。
 ディスコを出た途端、不思議なほどの静けさが戻る。けれど、耳がわんわんと鳴り、リハビリ完了までは、もう少し時間が必要だった。
 通りでは、みんなそれぞれにタクシーをつかまえ、蜘蛛の子を散らすように別れていく。井上君と富岡さんがその後どこへ行ったかは、後からまた随分噂になった。わたしは女の子たちに呼ばれ、空のタクシーに乗り込んだ。歩道に立っている智夫を窓越しに見つけたけれど、その姿はやがて小さくなり、すぐに見えなくなった。
 同窓会はそれっきりで、智夫に会う機会もないままだった。

 電車はまたゆっくりと走り始めていた。
「ずっと東京勤務だったんだけどね、去年の暮れからこっちの勤務になって。帰りはだいたいこの時間に乗ってるんだけど、君は? 会ったのは初めてじゃない?」
 智夫の言葉には、東京のイントネーションがかなり混ざっている。無理もない。大学から考えると、ほとんど十年間東京にいたことになる。大手酒造メーカーに就職していたことは、風の便りに聞いていた。そして結婚していることも。こういう情報に詳しいヒトは、クラスに必ずいるものだ。
 その言葉遣いを聞いて、胸が少し苦しくなる。わたしが東京から戻ったのも五ヶ月前。立ち直ったなんて、まだとてもいえない。
 車両が揺れるたび、お互いの肩が触れ合う。わたしは、膝の上に置いていた本をバッグにしまい込んだ。仕事の帰り?と智夫が聞く。ええ、とわたしは答える。朝は何時の電車に乗ってるの、と智夫はすぐさま聞き返した。わたしは、毎朝乗る急行の時刻をいう。随分遅くていいね。僕なんか、ちょうどラッシュの真っ最中だからね、毎朝死にそうになる。東京よりはましだけど。そういう智夫の言葉に、わたしは努めて冷静でいようとする。
 智夫はこんな声だっただろうか。耳をすましてみるけれど、電車の揺れる音に紛れて思い出せない。ただ、笑うと頬に縦じわが入るのは、確かにあのころのままだ。そう、ちょうど、わたしにジュースを差し出したあの顔。こちらを向いて話を続ける智夫を見ながら、わたしはそんなことを思っていた。
「こんな時間に帰ったら、旦那さん怒るんじゃないの」
 背広の袖を右手でちらっとたくし上げ、腕時計を見ながら智夫は言う。電車に乗った時刻から計算すると、今はもう九時を過ぎているだろう。わたしは、冷たい指先を両方の手で擦りながら、何も言わなかった。クラスの情報通も、さすがにわたしのことは何も知らない。
 こんなとき、どう答えれば「いい女」に見えるだろうか。大丈夫、彼はわたしより帰りが遅い人だから。それとも、いやだな、わたしが奥さんに見える? 花の独身ですわよ。
 けれども、口から出てきたのはこんな言葉だった。
「松田君こそ、毎晩奥さんに叱られてるんと違う? 『仕事もいいけど、身体壊したら大変よ』って」
 わたしは、奥さんの台詞をわざと東京なまりにしてみせる。きっとそうだ。学生時代から付き合って結婚。ご主人の転勤で、慣れない関西の生活に少し疲れている。そんな線の細い女性の影が浮かぶ。
 
 夫に、東京への転勤辞令が出たのは、春の初めだった。一週間もたたないうちに、彼はひと足先に向こうでホテル住まいを始めた。わたしも自分の会社に辞表を出し、たちまち引越しの手続きに追われる。東京といえば、一応栄転だ。わたしの同僚たちもそのことを喜び、盛大な送別会を催してくれた。会社を辞めるのは辛かったが、わたしにとってもチャンスかもしれない、とさえ思えた。
 桜が咲くころには引越しも落ち着き、わたしも仕事が決まる。ふたりは、知らない間に随分東京のイントネーションに感化され、時々お互いの言葉遣いをからかいあったりした。
 あっという間の出来事だった。なのに、少しも疑問に思わなかった。わたしの運命は夫とともにある。だって、彼を愛しているから。ふたりの絆はこんなふうに、もっと強くなっていくのだ。東京と京都を何度も往復しながら、わたしはそんな陶酔感を覚えた。智夫の奥さんだって、同じ思いだったはずだ。わたしには、結婚して二年目のことだった。
 夏が過ぎ、秋は来た。けれど、わたしは東京の冬を知らない。暗い部屋に明かりを灯すとき、わたしの運命はまさに、夫とともにあったことを思い知らされる。しかしそこにもう、夫はいない。師走を迎えるころには京都に帰り、わたしは実家の近くでひとり暮らしを始めていた。それこそ、あっという間だった。
 絆なんて、脆いものだ。高校生の恋とたいして変わらないくらいに。けれど、それを思い知るために払った代償は、比べものにならないほど残酷だった。
 壁にかかったカレンダーはずっと十一月のままで、それに気がついたのはついこの間の日曜日だった。新しいカレンダーを続けて何枚も破り、ようやく四月のところが現れると、思わず笑えてきた。なんで、こんなところに、いるのだろう。そして、狭い部屋で掃除機をかけているとき、高く積み上げられた土嚢は突然崩れる。わたしは、吸引ホースを抱きしめるようにして、泣いた。窓の外では、桜が淡い花びらを風に散らせていた。
 両親は、わたしたちに子供がいないかったことだけがせめもの救いだと慰める。まだ若いんだから、いくらでもやり直せると。子供がいれば、事態は違っていたのだろうか。転勤さえなければ、どこかよその土地だったなら、夫が彼女に出会うこともなかった。今のわたしがどこから始まっているのか、過去をつたっていくと、眩暈をおこしそうになる。
 
 電車は駅についた。わたしと智夫はすっかり話に夢中になっていて、危うく降りそこなうところだった。井上君と富岡さんは結局別れたのだという。井上君は三浪の末、私立の医科大に入学。去年ようやく医者の免許を取ったらしい。まだ独り身なんだよね。誰かいい人いたら、紹介してやってよ。智夫はそう言って笑った。わたしなんてどうかしら、と言いそうになったとき、車内アナウンスが駅名を伝えた。わたしの言葉は途切れ、ふたりはあわてて立ち上がった。
 ホームに飛び出すわたしと智夫。そのとき、智夫がとっさにわたしの肩を抱いた。一瞬、顔がこわばる。電車は、間一髪でドアを閉め、小さく消えていった。智夫は、その手を、そっと、肩から離した。
 改札を出ると、紺碧の空に月がのぞいていた。それは半月で、薄氷のように冷たく光る。何だかわたしも智夫もその場から立ち去り難く、半分だけの月をじっと眺めた。
「山下さん」
 智夫はわたしを旧姓で呼ぶ。わたしがはっと振り向いたので、彼も気がついたらしい。
「ああ、そうだね。今は何さんなのかな」
 わたしは、まだ名乗っている夫の姓を告げる。そして、どっちでもいいんですと付け加えた。
「どう、近くでお茶でも飲んでいこうか」
 その言葉を、わたしは避けていたような気もするし、待っていたような気もする。智夫の優しさに揺れながら、わたしは黙秘権を行使した。そして、もう一度空を見上げる。
 この月は、これから満月になるのだろうか。それとも、その身を細く削っていくばかりだろうか。早く夜が明けなければ、月は、今にもぱりんと割れてしまいそうだ。

                          
1990年6月 京都新聞「読者の短編小説」入選作

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